「私は、小狼の従妹で幼馴染。・・・それと。一応、婚約者よ」


苺鈴の言葉が届いた瞬間、さくらの耳が何かに覆われた。ゆっくりと後ろを振り返ると、西が両手で、さくらの耳を塞いでいた。聞こえないように、してくれていた。
だけど。さくらの耳には、しっかりと届いていた。
(婚約者・・・。苺鈴さんは、小狼くんと・・・結婚するんだ)
不思議と、それほどのショックは無かった。なんとなく予想していたから、かもしれない。
家族、幼馴染、恋人、婚約者。小狼の、一番大切な人。
―――じゃあ、私は?
「・・・!?まだいたのか?今のチャイム、聞こえただろ。遅れるぞ」
小狼は、さくら達を見てそう言った。西も、賀村も。さくらも、何も言わなかった。その表情に暗く翳が落ちている事に、小狼は気付く。
さくらへと一歩近づくと、頬に触れて、心配そうに顔を覗き込んだ。
「何か、あったのか?」
真っ直ぐに見つめる瞳に、嘘や偽りは無い。この人は、いつもそうだ。呆れるくらいに真っ直ぐに、飛び込んでくる。自分の中には少しも入らせないくせに。―――ずるい。
さくらは、笑って首を振った。
「なんでもないよ。行こう」
「・・・?」
「西くんと賀村くんも、行こう。先生に怒られちゃう」
そう言って、さくらは小狼の腕をポンと叩いて、小走りで廊下を駆けて行った。
小狼はまだ納得していない顔だったけれど、それに続いた。「ここで大人しく待ってろ」と苺鈴に言いおいて、教室へと向かう。
「・・・はぁ。言うつもりはなかったんだけどな」
奈久留と二人きりになって、苺鈴はどこか言い訳じみた言葉を、溜息と共に吐き出した。それを聞いて、奈久留は苦笑する。
「でも、言いたかったんでしょ?さくらちゃんに」
「ん・・・。宣戦布告。でも、また小狼に怒られちゃうなぁ」
「いずれにしろ、知る事になるでしょう」
奈久留の言葉に頷いて、苺鈴は食べかけのクッキーを口に入れた。
口の中でほろりと解けて、甘さが広がる。このクッキーよりも、ずっと甘い。魅惑の果実は、その身を甘く香らせて、吸血鬼を誘う。
苺鈴は一瞬だけ泣きそうに瞳を揺らしたあと、ティーカップを思い切り煽って、口の中の甘さを流し込むのだった。

 

 

 

 

Golden Apple ~優しい獣~ 第五章【3】

 

 


 

 

「失礼します」
放課後。部活動の生徒達も、揃って帰路につく夕暮れ時。奈久留のもとに、さくらが一人でやってきた。
突然の訪問だったが、少し前からその香りが近づいてきている事に気付いていた奈久留は、別段驚く様子もなく、笑顔でさくらを招き入れた。
昼に苺鈴に出したものと同じお菓子と、ティーカップを取り出す。さくらは笑顔でそれを遠慮すると、奈久留へと聞いた。
「教えてほしいんです。吸血鬼の事。林檎(ノウン)の事・・・。私は、小狼くんにとって・・・小狼くん達にとって、どういう存在なんですか?」
「・・・・・」
「今まで、知らなくていいと思っていました。知らないでいた方がいいんだって、そう思い込んでたけど・・・違った。このままあの人の傍にいたら、私、何も出来ない人形になっちゃう。そんなの、嫌なんです」
血を与えるだけの、何も知らない人形。愛されているという夢を見ながら抱かれて、ひと時の快楽を共有して、それで幸せだと思っていた。
でも、それだけじゃ満足出来なくなってきている。心はずっと、叫んでいる。
「小狼くんは困るってわかってるけど・・・もしかしたら、要らないって捨てられちゃうかもしれない、けど。それでも、知りたいんです。私も、前に進みたい」
さくらの言葉を、奈久留は静かに聞いていた。真剣な表情を、ふ、と崩して、笑う。そうして、やわらかい口調で言った。
「うん。さくらちゃんなら、そっちを選ぶと思ってた」
「先生・・・」
「私の口から知るより、実際に会ってみた方がいいんじゃない?」
奈久留は明るく笑って、言った。
『実際に会って』―――誰に?不思議そうにするさくらの前で、奈久留は携帯電話を取り出した。
電話をかけた相手に、突然に早口で話し出した。その言葉がどこの国の言葉なのかわからないくらい、早い。いや、ゆっくり喋っていたとしても、さくらには到底理解できないだろう。
呆然としている間に、通話は終わって。奈久留は笑って、「OKだって」と言った。何が何やらわからずに瞬くと、奈久留はさくらの後ろへと声をかけた。
「アンタ達も一緒に行くでしょ?今、人数にいれておいたから」
「え!?・・・あ、西くん!賀村くんも・・・!」
いつの間にそこにいたのか。声をかけられて、二人は気まずそうに部屋に入ってきた。おそらく、さくらを心配して、こっそりついてきていたのだろう。
バツが悪そうにする二人に、さくらは微笑んだ。なんでもないような優しさが、今は嬉しかった。
「行くって、どこにですか?私、誰と会えば・・・」
「ふふ。日本にはね、成熟した『林檎(ノウン)』が、さくらちゃんの他にもう一人いるの」
「え・・・!?」
奈久留の口から語られた新たな真実に、さくらは驚いた。それは、西も賀村も同じだった。三人は言葉を無くし、続く奈久留の言葉に耳を傾ける。
「その子は、私達の管轄・・・『柊沢』で保護しているの。だから、危険も無いわ。ちょっと遠いんだけど、一日あれば着くかな。明日から連休でしょ。ちょうどいいかなって。もちろん、都合悪いなら断る・・・」
「大丈夫です!私、行きます!!」
さくらは、授業中のように挙手をして、勢いよく言った。気合に溢れた言葉に、西と賀村は顔を見合わせて笑うと、同じように手を挙げた。
「俺達も、ちょうど知りたいと思ってたんだ」
「面白そうじゃん。一緒に行こうぜ、さくらちゃん!」
頷いたさくらの笑顔に、奈久留は少しだけ憂いた顔をして、一枚のメモを渡した。そこには、簡単な地図と住所、行き方が書いてあった。
さくらは何度もお礼を言って、西と賀村と一緒に帰っていった。その後姿を見送って、ぽつりと呟く。
「・・・んー。私も、怒られちゃうかしら?」
自嘲するように笑って、奈久留は再び、電話を手に取るのだった。










翌日。まだ日も明けきらない時間から、三人は友枝町を出発した。電車で大きな都市に出て、そこから新幹線。再びローカル線に乗り換えて、鈍行で数時間。昼過ぎには長閑な田舎道の中を、バスに揺られて移動していた。
長い移動時間に疲れてか、もともとあまり眠れていなかったのか、さくらは眠気に負けて舟を漕ぎだした。
右隣にいる西の方へと、頭が傾く。西はぽっと頬を赤らめ、同時に反対側にいる賀村の眉間に皺が寄る。がたん、とバスが揺れて、今度は左隣にいる賀村の方に、頭が傾く。至近距離で寝顔を見てしまい、賀村は顔にこそ出ないものの、酷く動揺した。
肩に触れる直前に、停留所到着のアナウンスが鳴った。その瞬間、さくらが目を開ける。
「ほぇ・・・。私、寝てた?」
「い、いや」
「全然、大丈夫」
子供のように寝惚けるさくらは、いつも以上に無防備だった。西と賀村は顔を赤くして、気づかれないようにそっぽを向く。心臓の動悸を煽るように、バスが揺れた。
「えっと・・・。ここで、合ってるんだよね?」
渡されたメモを見ながら、さくらは不安そうに言った。
そう思うのも無理がない程、閑散としている。山々に囲まれ、見渡す限りに建物や家は無い。そこに、ぽつん、とバス停だけが立っている。車が通っているのが不思議な程に、何もない場所だった。
「ここから、歩きみたい。えっと、北の方向に向かって歩いて、あとはひたすらに山登り・・・」
―――『道は険しいけど、頑張って!』
菜久留の字で、最後にそう書いてあった。呆然と読み上げるさくらの後ろから、賀村と西も覗き込む。三人は揃って、溜息をついた。
「北の方向に向かって山登り・・・って、説明が雑すぎるだろ!」
「今更言っても仕方ないだろう。とにかく、日が暮れる前に到着しないとまずい。こんな明りもないところで迷ったら、確実に遭難する。・・・木之本さん、大丈夫?疲れてない?」
何事かを考え込んでいたさくらに、賀村は声をかけた。ハッとして、さくらは首を振る。「大丈夫!」というと、二人は安心したように笑った。
さくらは、軽く自己嫌悪になる。西と賀村は、自分に付き合ってここまで一緒に付いてきてくれている。自分達も疲れている筈なのに、気遣って優しくしてくれる。
なのに。さくらは、小狼の事ばかり考えていた。
勝手な事をして、怒っていないだろうか。そもそも、小狼とは学校の中でしか接点がない。休日はこちらの予定も動向も知らないから、気づく筈はない。自分達がこんな場所まで来ているなんて、きっと思いもしないだろう。
さっき、うたたねした時に見た。夢の中の小狼が、笑って手を差し出す。その手を取ると、抱き寄せられる。優しく口づけられる瞬間に、冷たく言われた。
―――お前じゃない。
(・・・夢の中まで優しくない・・・)
泣きたいような、嬉しいような。よくわからない感情だった。夢の中でも、会えて嬉しい、なんて。重症にも程がある。
「あ!なんか、看板あったぞ!!」
だんだんと険しくなってきた山道の中で、西が声を上げた。さくらはその場所へと駆け寄り、二人と一緒に覗き込む。古く煤けた看板には、『ようこそ陶芸教室へ』と書かれていた。矢印は、更に奥の道を指している。
「これ、そうなのかぁ・・・?」
「いや、でも先生の話だと他に家や集落は無いって話だ。この看板を信じるしかないだろう」
賀村は腕時計を見て、溜息をつく。すでに西日になっていて、日が暮れるまで時間がない。焦りが出たのか、賀村は先頭を切って歩き出した。西は慌てて追いかけ、さくらもそれに続く。
その時。ふわりと、美味しそうな匂いがした。歩き続けて空腹だったさくらは、その匂いに反応する。
(カレーの匂い、だぁ)
ふらふらと、匂いに誘われるようにさくらは脇道に行く。先を進んでいた賀村と西は、後ろを振り返って、驚いて声を上げた。
「木之本さん!!」
「さくらちゃん、危ない!!」
二人の声に、ハッと我に返る。その瞬間、さくらの左足は宙を滑り、その体はぐらりと傾いた。足元をよく見ずに歩いていたせいで、谷底との境に気付かなかった。気付いた時には、もう遅い。
「ほえぇぇ―――!!」
「!!」
助けようと駆け寄った二人は、驚いて足を止めた。
そのまま谷底へ落下するかと覚悟したが、思わぬ助けが入った。
間一髪。さくらの手を掴んで、必死に踏ん張り支える男がいた。長身の男は、右手で近くにあった木の枝を、左手でさくらの手を掴み、汗だくの顔で西と賀村を見て言った。
「ちょ・・・っ、君ら、手伝って・・・!この体勢、長くはもたないから・・・っ!!」
「は、はいっ」
呆然としていた二人は、その声で動いた。西は男の後ろに回り込んで支えて、賀村は手を伸ばしてさくらを引き上げた。無事に助けられた事に、一同は安堵の息をつく。さくらは呼吸を整えて、深く頭を下げた。
「すいません!私、ぼーっとしてて・・・!助けてくれて、ありがとうございます!!」
「ああ、いやいや。この辺わかりにくいんだよね。俺らしか歩かないから、お客さんへの配慮が欠けてるっていうか。なんにせよ、怪我がなくてよかった」
男は、人の良い笑顔でそう言った。さくらはホッと息を吐いて、もう一度頭を下げる。
「あの。もしかして、本須和さん、ですか?」
賀村が聞くと、男は頷いて親指を立てた。
「そ!俺が本須和秀樹。君らが来ることは聞いているよ。こんな辺鄙な場所まで、よく来たなぁ。歓迎するよ」
「まじか・・・!よかった!一生たどり着けないかもって思ってたぜー!」
西が大袈裟に言って、地面に寝転んだ。そのタイミングで、腹の虫が盛大に鳴いた。つられたように、賀村とさくらのお腹も空腹を訴えて鳴る。三人は顔を見合わせて、照れくさそうに笑った。
「あはは!長旅でお腹もすくよな!今日は久しぶりの客だから、張り切ってカレー作ってあるんだ。行こう!」
差し出された手に、さくらは少し迷う。夢の中の小狼と重なって、ふるりと首を振る。秀樹へと笑顔を見せると、その手を取って立ち上がった。
そこから五分ほど歩くと、小さなログハウスが見えてきた。煙突からは煙が出ていて、カレーの匂いが漂ってくる。ログハウスの横には、作業場のような小さな小屋が立っていた。
「ここが、俺らの家なんだ。あっちの小屋は、俺の作業場。興味があればあとで案内するよ」
「作業・・・。陶芸、ですか?」
「ああ。これでも、結構人気があるんだ。今はインターネットっていう便利なものがあるから、人里離れた場所でも商売は出来る。便利な世の中だよな」
秀樹の話を聞きながら、さくらはだんだんと緊張してきた。
この家には、二人の人間が住んでいる。もう一人の人間こそ、さくらが会いに来た人物だ。ドキドキと、心臓がうるさく鳴った。
秀樹は扉を開けて、部屋の中へと声をかけた。
「ちぃ。ただいま!」
そう言った瞬間、中から勢いよく飛び出してくる影があった。長い髪が、宙を舞う。軽やかに飛んで、少女は帰ってきた主人へと抱き着いた。
「おかえりなさい、秀樹!」
「わぁっ!こ、こら!今日はお客さんが来るから、いつもの挨拶はダメだって・・・!」
体全部で、嬉しいを表現している。そう思えるくらい、少女は天真爛漫に笑って、秀樹の体に抱き着いて頬ずりした。対する秀樹は顔を真っ赤にして、客人であるさくら達と少女を交互に見る。恥ずかしさから少女を咎めるけれど、決して引き離そうとはしない。そのやり取りだけで、二人の仲の良さが感じられた。
「ほら、ちぃ。挨拶」
ふー、とため息をついて、秀樹は少女の背中を押して、さくらへと紹介した。
二人はお互いを、じっと見つめあった。年齢も同じくらいで、背丈も変わらない。初めて会ったのに、昔から知っているような気がした。不思議な感覚。鏡に映った自分のように、感じた。
さくらが笑うと、相手も笑う。伸ばした手は、自然と繋がった。
「木之本さくらです」
「こんばんは。ちぃです。・・・こんにちは?こんばんは?秀樹、どっちが正しい?」
「んー?どっちでもいいんじゃないか?夕方だしなぁ」
どこかずれた秀樹とちぃの会話に、さくらは笑った。
それから。荷物を置いて、リビングに集まる。外は、陽が落ちてあっという間に真っ暗になっていた。気温も下がり、入りこんだ風を冷たく感じた。思わず体を震わせたさくらを見て、秀樹は窓を閉める。
夕飯は、ちぃが作ってくれたというカレーライスだった。お腹が空いていたのもあって、三人はあっという間に平らげた。物足りなさそうにする西に、秀樹はおかわりを進める。遠慮していた賀村も、結局二杯目をおかわりした。
「遠慮しないで、いっぱい食べて」
にこにこと笑う秀樹とちぃに、カレーを食べ進めていた西と賀村は複雑そうに笑った。お腹が空いていたのは本当だけれど、食べすぎるくらいに食べるのには、他に理由があった。
「せめて腹ぐらい満たしておかないと、欲求に勝てねぇっての・・・。林檎二人とか、甘い匂いに酔いそう」
「バカ、西。声が大きい。・・・せっかく、木之本さんが楽しそうなんだ。水差すようなこと、言うなよ」
「わかってるよ」
さくらとちぃは、あっという間に仲良くなった。今も隣に座って、カレーを食べながら楽しそうに話している。
「じゃあ、ちぃちゃん、って呼んでもいい?私の事も、さくらでいいよ」
「・・・さくら?」
「うん!よろしくね、ちぃちゃん」
微笑ましい事この上ない光景だが、吸血鬼(ヴァンパイア)にとってはある意味地獄であった。可愛くて美味しそうで、甘い香りを漂わせるご馳走が二人も揃っている。しかし、手を出すことは許されない。
余裕のない西と賀村と違って、秀樹という男は全く平気そうに見えた。一緒に暮らしている林檎の少女は別としても、初めて会うさくらとあんなに近距離で接しても、動揺した素振りを見せない。
「あの秀樹って人、実は物凄い人なんじゃねぇか?・・・そんな風には全然見えないけど」
「西!・・・声が大きい!」
声を潜めた二人の内緒話。ばし、と。賀村が西を叩いた音に、さくらは不思議そうに目を向けるのだった。









夕食の後、みんなで後片付けをして、秀樹が入れてくれたコーヒーを飲みながら話をすることになった。
「って言っても・・・俺はそんなに知らないんだよな」
苦笑する秀樹に、賀村が口を開く。
「確認なんですが、本須和さんは吸血鬼で、ちぃさんは林檎(ノウン)・・・ということで、いいんですか?」
その問いかけに、秀樹とちぃは顔を見合わせたあと、揃って頷いた。しかし、そのあとの発言は、思いもよらないものだった。
「俺は純粋な吸血鬼じゃなく、後付けのパターンなんだけど・・・まぁつまり、元は人間なんだ」
「「「―――えぇ!?!」」」
驚いた三人の声は、見事に揃った。ちぃは驚いて、びく、と肩を震わせて、不安そうに秀樹に寄り添う。秀樹は苦笑して背中を優しく叩く。「大丈夫だ」というように笑う笑顔に、ちぃは安心したように笑った。
そんな二人を見て、さくらの表情が一瞬、切なげに曇る。
秀樹は一つ咳ばらいをして、順を追って話してくれた。
「ちぃに会ったのは、10年くらい前かな。あの時俺は予備校生で、ちぃはまだ10歳にもなってない女の子だった。俺が会った時には既に記憶が無くて、自分の名前もわからない状況で。誰かに、狙われてるみたいだった」
「・・・!」
「俺は、普通の予備校生で、なんも出来ないし。でも、なんとか助けてやりたくて。俺なりに、守れてるつもりだった。ちぃと一緒にいるだけで楽しくて、満足してた。それが、甘かったんだな。・・・俺、その時に一度死にかけたんだ」
秀樹は、へら、と笑いながら、とんでもないことを告白した。さくら達はただ呆然とする。
その反応を見て何を勘違いしたのか、秀樹は慌てて「ちゃんと普通の人間だぞ!ゾンビじゃないぞ!?」と、変な言い訳をし始めた。
すると、隣でずっと黙っていた少女が、口を開いた。
「ちぃの血で、秀樹を助けたの。いなくなってほしく、なかったから・・・」
「・・・!林檎(ノウン)の血を飲んで、普通の人間が吸血鬼になったって事か・・・!?そんなこと、出来んのか!?」
興奮して身を乗り出す西に、ちぃは怯えたように体を退いた。賀村に窘められ、西は「ごめん」と頭を下げて、元の場所に戻る。
あまりに突飛な話ばかりで、困惑する。夕飯時はあんなに和やかだったのに、今は緊迫感で空気が張り詰めている。
聞きたい事はたくさんあるのに、次の言葉が出ない。難しい顔をして黙り込む西と賀村を見て、さくらも不安そうにする。
その時。ぽん、と。秀樹が、手を叩いた。
「そうだ!ちぃと木之本さん、風呂に入ってきたらどうだ?」
「ち?」
「お風呂?」
突然の提案に、さくらとちぃは目を瞬かせた。さくらの口から『お風呂』という言葉が出ただけで、西は目に見えて動揺する。
そんな、若干滑った空気にもめげることなく、秀樹は立ち上がって熱弁する。
「そう!実はここ、温泉が出るんだ!!天然温泉かけ流し露天風呂!!入り放題!!」
「・・・っ!!温泉・・・!!露天風呂・・・!!!」
「おい、西。なに興奮してるんだ」
白けた賀村を置いてけぼりにして、男二人は立ち上がりキラキラと目を輝かせる。そして、お互いにがっちりと握手をした。
「ほぇ?」
「おふろ・・・。さくらと、いっしょ?」
小首を傾げて聞くちぃに、秀樹は笑って頷いた。ぽんぽんと、優しく頭を撫でる。
「ああ。二人で一緒に入ってきな。話は、俺がしておくから。ちぃは、木之本さんに色々教えてあげるんだぞ」
「・・・うん。ちぃ、おしえる」
少女の頬が赤らんで、表情がやわらかく綻ぶ。二人の幸せそうなやり取りに、さくらの心まであたたかくなった。
それから。ちぃに連れられて、さくらは風呂に行くことになった。やけに興奮する西と、呆れる賀村に見送られて、リビングを出る。
はしゃぐ声が遠くなっていくのを確認して、秀樹は苦笑して言った。
「・・・話の続き、どうする?聞ける?」
西と賀村は黙り込み、そして同時に顔を上げた。二人の答えは、「yes」だった。秀樹は冷めたコーヒーを入れなおすと、腰を落ち着けて話し出す。
「俺の体が、吸血鬼としてやっと安定したころ、柊沢家の当主って奴が来たんだ。まだ、君らくらいの年頃だよ。その時、俺も同じように聞いたんだ。吸血鬼の事。そして、林檎(ノウン)の事を。その時、大体の事情は聞いた。・・・林檎(ノウン)のまま、成熟した女性になる例は、物凄く珍しい事らしい。だから、ちぃは狙われた。・・・ある吸血鬼の、復活のために」
そこまで聞いて、賀村は勢いよく立ち上がった。西は驚いた拍子にコーヒーを零しそうになる。秀樹は動じることなく、賀村を見た。
震える声で、その名を口にする。
「それは、もしかして・・・『新山和沙(にいやまかずさ)』の、事ですか・・・!?」
「えっ!?誰だよ、それ」
初めて聞く名前に、西は怪訝そうに眉を顰める。
その問いかけには答えず、賀村はじっと、秀樹の答えを待った。秀樹は表情を暗くして、頷く。
―――新山和沙。
戦後、この地を混乱に陥れた人物。数々の女の心を奪い、陥落させて、その遺伝子を後世に残した。
そして。当時の二大派閥であった、香港の李、英国の柊沢の血によって、封印された吸血鬼。
「日本で最古の吸血鬼。・・・君たちの、祖先でもある人だ。新山を復活させる為。奴を目覚めさせる餌として、林檎(ノウン)は狙われているんだ」








ログハウスを出て、数分歩いた場所に、手作りの露天風呂があった。秀樹が一週間かけて作ったという岩風呂は、二人で入っても広々としていて、気持ちよかった。少し濁った白湯で、とろみがある。
恥ずかしがるさくらに反して、ちぃは躊躇いなく裸になった。白くて綺麗なちぃの肌に見惚れつつ、さくらも服を脱いだ。そうして、おそるおそる、お湯に足を付ける。
「うわぁ、本当に温泉だぁ!・・・んっ、ちょうどいい湯加減・・・。気持ちいいー」
肩まで浸かって、さくらは、「んー」と伸びをした。まさか温泉に入れるとは思わなかった。さくらは上機嫌になって、あたたかいお湯の中で目を閉じる。ふわふわと揺蕩う意識が、あの人の幻影を連れてくる。
『・・・さくら』
ぱしゃん。お湯が跳ねる。
さくらは悲しそうに瞳を揺らして、とろみのあるお湯を掌で掬う。指の隙間から、少しずつ零れて、無くなっていく。
(小狼くんは、名前で呼んでくれた事、一度もないのにね。・・・ばかだなぁ、私・・・)
傍にいない時でも、心を占領する。
あの人は、他の人のものだとわかっているのに。自分の心はとうに、彼の手の内に行ったまま。不公平だと思うけれど、こればかりはどうしようもない。
どうやったって、嫌いになれないのだから。
「・・・?どうしたの、ちぃちゃん」
視線を感じて、隣で同じように湯につかっている少女を見た。ちぃは、じっとさくらを見つめて、手を伸ばす。
さくらの首元の絆創膏に触れて、同時に、自分も髪を上げて首元を見せた。
「・・・おそろい」
「!ちぃちゃんの、それ・・・。秀樹さんが・・・?」
「うん。ちぃの血は、秀樹にしかあげないの」
どこか誇らしげに笑って、首に付けられた咬み痕に指を這わせる。
自分もきっと、同じ顔をしていたと、さくらは思う。愛おしい人に求められた証だから。さくらは首元に付けられた絆創膏を剥がして、真新しい咬み痕を指先で辿った。
「ちぃちゃんは、幸せだね。好きな人と一緒にいられて、好きな人に必要とされてる。・・・うらやましい」
先程の、秀樹とちぃのやり取り。それを、自分と小狼に置き換えて想像してみた。なんて幸せで、夢のような日々だろう。叶わないとわかっていても、願ってやまない事。
ツキン、と痛む胸を抑えて、さくらは悲痛に目を閉じた。
ちぃは、さくらの言葉を聞いて、ひとつ頷いて言った。
「ちぃは、秀樹といられて幸せ・・・。でも、秀樹はわからない。秀樹を吸血鬼にしたのは、ちぃだから。ちぃにとっての幸せと、秀樹の幸せが、同じかどうかわからない」
「そんな・・・!秀樹さんだって、きっと」
言いかけて、さくらは口を噤む。第三者なら、なんとでも言える。秀樹も、ちぃと同じ気持ちであってほしいと思うのは、自分のエゴだ。
こみ上げる気持ちを、ぐっと堪えて。さくらは、ちぃへと聞いた。
「もしも・・・秀樹さんの一番が、ちぃちゃんじゃなかったら・・・ちぃちゃんは、どうする?どう、思う?」
「・・・・・」
「あ・・・っ、ごめんなさい。嫌だったら、答えなくていいよ!ただ、私が・・・答えを、どう出したらいいのか分からなくて、ずっと、同じところをぐるぐるしてるから・・・」
―――同じ林檎(ノウン)である彼女なら、どんな選択をするだろう。藁にも縋る思いで、さくらは問いかけた。
ちぃは無言で考えたあと、言った。
「それでも、秀樹の傍にいる。秀樹には、私の血が必要だから・・・。傍に、いる」
「それは・・・林檎(ノウン)だから?」
ちぃは、ふるふると首を横に振った。そうして、不安に揺れるさくらの瞳を見つめて、その手をぎゅっと握る。
「ちぃは、秀樹が好き。秀樹も、ちぃを好きになってくれたら嬉しい。でも、秀樹の大事にしてるもの、ちぃも大事にしたい。そうしたらきっと、秀樹も喜んでくれる」
「・・・!」
ちぃの言葉に、さくらは瞠目する。
(小狼くんが、大事にしてるもの・・・。考えた事、なかった)
自分の事ばかり考えていた。小狼の気持ちや事情を、知ろうともしないで。狭い檻の中で、与えられるものばかりを欲しがった。
彼が、大事にしているもの。彼が、背負っているもの。きっとたくさんあって、ひとつに絞る事なんか出来ない。真面目で誠実な人だから、全部を背負っても、平気だって顔して一人で歩いていくんだ。
一番に愛してほしい。一番に、求めてほしい。そう思う気持ちは、確かにここにある。
血を与えて、その代わりに愛される。その関係に甘えて、欲しがる気持ちが強くなりすぎて。幻想を抱いて、多くを求めてしまったのは、自分。
小狼の姿を見えなくさせていたのは、自分自身だった。
「・・・っ、う、っ」
泣き始めたさくらを見て、ちぃは心配そうに眉を下げた。そうして、先程秀樹がちぃにそうしたように、さくらの頭を優しく撫でた。
優しい手の感触に、さくらの涙は止まることなく零れ落ちた。
胸の中にあったモヤモヤが、静かに昇華されていく。どうしたらいいのかわからずに、持て余していた気持ちを、ちぃの言葉が救ってくれた。
(・・・まだ、うまくは出来ないかもしれないけど。私も、小狼くんが大事に思うものを、大事に出来るようになりたい。・・・あの人の傍で、それを叶えたい)



―――ガサ
近くで、草が揺れる音が聞こえた。人の気配を感じて、ちぃが反応する。裸なのも気にせず、立ち上がり周りを警戒した。
さくらは驚いて、泣き顔のまま、暗闇の中を見つめる。
ゆらりと、影が揺れて。その瞬間、雲が晴れて、月明かりが地上を照らした。
目の前にいる人の姿が、ぼんやりと浮かび上がる。さくらは、涙で滲んだ視界の中で、それを見た。
「どうして、ここにいるの・・・?小狼くん・・・」
その問いかけに答えるように、小狼の眉間の皺が、深く刻まれた。


 



 

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2017.5.19 了


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