お前は、何も知らない。

 

 

 

 

Golden Apple ~優しい獣~ 第五章【4】

 

 


 

 

電話口でやかましく声を上げられて、苛々が募る。小狼は律儀に返事をしながらも、早く話が終わることを切実に願っていた。
本家からの定期連絡、という名のお小言は、苺鈴が日本に来るとわかってからは毎日のように続いた。
苺鈴が行方不明と聞いた時は心臓が止まるかと思ったが、執事である偉も同行しているらしいと聞いて、いくらか安心した。今日になって突然学校に現れた事は驚いたが、異常が起きていない事を確認し、小狼は安堵の息を吐いた。
従妹である苺鈴には特殊な事情があって、本来であれば国を出て自由に動く事は許されない。しかし。その危険を冒してまでここに来たというのは、十中八九自分のせいだと、小狼は思っていた。
無茶をした苺鈴には長々と説教をして、反省もさせた。偉には常に見張っているようにと強く命じておいたし、そちらの方は問題ない。
―――しかし。思わぬところで、歪は生まれた。
『今の私を、見ないで・・・!』
思い出して、小狼の眉根がきつく寄る。
さくらの様子がおかしい事は、少し前に気付いていた。
しかし、気づいてもどうしたらいいのかわからない。前回、街に出かけた時もそうだった。突然に自分から逃げて、泣いて。拒まれるかと思ったら、『大好き』だと涙ながらに言われた。
今回も、さくらの方から大胆に迫ってきたから、小狼は驚いた。
ここ最近、理性の臨界点が低くなってきているから、困る。目の前で意味深に泣いて、ご馳走をちらつかせられたら、堪えられない。小狼は、呆れるほどに夢中になっている自分を、自覚していた。
さくらは、吸血されることさえ、『大好き』『気持ちいい』なんて口にして笑う。だからその言葉を鵜呑みにして、貪るように求めてしまう。自分にとって、これ以上の誘惑はない。
だけど。彼女はまた、心を隠す。少しでも理解したいと思っているのに。それを嘲るように、するりと逃げる。抱きしめていても、どこか遠くて。虚しい気持ちになった。
(・・・女っていうのは、どうしてあんなに面倒なんだ)
思わず、舌打ちが出そうになった。さくらに対しての怒りではなく、彼女の変化や感情をいち早く汲み取る事が出来ない、己の未熟さに腹が立った。
『聞いてるの、小狼!』
電話口で怒号を浴びせられて、きん、と頭に響く。苛立たし気に頭を抱え、一応「聞いています」と答えた。実際は、ほとんどの話が右から左に流れていっている。聞かなくても、大体内容はわかる。
『新山一派のアジトはまだ突き止められないの?林檎(ノウン)を囮にするという話はどうなったの?あなた、ちゃんと管理出来ているの?』
「ご心配なさらずとも、ちゃんと見張っていますよ姉上。奴らが狙ってくることは明白です。捕まえて、居所を突き止めます。必ず」
語気を強めて言うと、相手は黙る。溜息まじりに、「そう」と頷いたのが分かった。
これで通話を終わらせられそうだと、小狼が内心でホッとした、瞬間。
『ところで。小狼あなた、可愛い林檎(ノウン)とは、もう性交は済ませた?』
「・・・・・・その件についてはお答えしかねます。では」
まだ何言かを話し続ける携帯電話を、据わった目で睨みつけて、小狼は強制的に通話を切った。眉間の皺を指で押さえて、深く溜息をつく。気持ちを切り替えると、携帯電話をしまって歩き出した。
そこで、小狼は気づいた。始業のベルが鳴ったというのに、さくら達がまだ教科準備室にいる事を。
「まだいたのか!?今のチャイム、聞こえただろ。遅れるぞ」
驚いて部屋の中を覗き込むと、妙な雰囲気を感じ取る。西と賀村がやけにこっちを睨みつけてくるし、苺鈴と秋月は張り付けたような笑顔で、さくらは俯いたまま動かない。顔を覗き込むと、碧の瞳が、一瞬泣きそうに揺れた。
(・・・泣く・・・?)
その瞬間、心臓が冷えるような感覚に陥る。しかし、涙は零れなかった。下手な笑顔で「なんでもないよ」と言った彼女に、何も感じなかったわけじゃない。だけど、そこまで重要視はしていなかった。
なんでもないと言って笑うのなら、自分が介入すべき問題ではないということだ。彼女自身の問題であって、関わるべきではない。互いに、踏み込んではいけない線があって、それをわかってて付き合っているのだと。
小狼は、自分の中でそう結論付けた。そうしなければ、心の中で生まれつつある感情を、抑える事が難しくなるからだ。
(アイツの事をもっと知りたい・・・なんて。笑えるな)
暗く澱んだ感情が、胸を満たす。こんな時ほど、喉が渇く。極上の甘い蜜のような、彼女の血。彼女のすべてと一緒に、この体に取り込んでしまいたい。そうしたら、理解できない感情も、全て知りえることが出来るだろうか。
無意識に、喉が鳴る。
自分の中の、凶暴な獣。小狼は自嘲して、拳を握る。
―――全部を欲しがるなんて、傲慢だ。








その日の放課後。帰ろうとした矢先、西と賀村に呼び止められた。
西は、わかりやすくこちらに敵意を向ける。西ほどではないけれど、向けられる剣呑な目に、賀村の怒りを感じた。この二人に喧嘩を売られる覚えは全くなかったが、条件反射で体が戦闘態勢に入る。
緊迫した三者の、無言の攻防戦。たまたま近くを通ったクラスメイトが、気軽に声をかけようとして、押し黙る。何か不穏な空気を感じ取って、そそくさと逃げて行った。
最初に口を開いたのは、西だった。
「俺らは、お前だから任せたんだ。色々文句はあったけど、さくらちゃんが好きなら仕方ねぇって。なのに、酷い裏切りだ。お前、最低だよ」
「・・・なんのことだ」
「とぼけんなっ!!」
激昂して殴りかかりそうな勢いの西を、賀村が止める。そうして、興奮する西の代わりに、言った。
「お前の従妹。婚約者、なんだってな」
「―――!」
「俺が、直接聞いた。木之本さんにも知られた。・・・彼女を悲しませたくないと思ってたが、知らないままでいる方がよっぽど可哀相だ。そうだろ、李」
その時。小狼の中で、不明瞭だった彼女の行動が、繋がった気がした。
沈んだ表情、大胆な誘惑。泣きそうに揺れた、一瞬。
小狼は奥歯を噛んで、拳を強く握った。しかし次の瞬間には、気持ちを切り替えるために息を吐くと、表情を無くして二人を見た。
「言っただろう。家庭の事情だ。お前らは、口を出すな」
そう言った瞬間、西が動いた。飛んでくる拳を避ける事は容易かったけれど、そうしなかった。
殴られて、口の中に血の味が広がる。
「・・・っ!お前、ふざけんなよ!?さくらちゃんが、どういう気持ちかわかってんのか!?わかっててあの子に手を出したっていうなら、許さねぇ!!」
殴った西の方が、泣きそうな顔をしていた。小狼は黙るだけで、何も言わない。口元を手の甲で拭うと、足を踏み出す。西と賀村の傍を横切る瞬間、腕を強めに掴まれた。
掴んだ賀村と、掴まれた小狼。至近距離で、にらみ合う。
「お前がそういうつもりなら、俺達もやり方を変える。木之本さんに関して、もう遠慮はしない」
「・・・アイツに手を出すつもりか?賀村」
その瞬間、小狼の目の色が変わる。歪んだ口元に、対峙する賀村は一瞬、怯んだ。
掴んでいた腕を乱暴に払うと、何も言わずに小狼から離れる。賀村は、まだ何か言いたげな西の背中を押して、校舎の方へと戻っていった。
残された小狼は、しばしその場で動かなかった。しかしすぐに顔を上げると、何事もなかったかのように携帯電話を取り出し、歩き出した。








翌日から、学校は数日間の休みに入った。
小狼は、通学時とさほど変わらない時間に起床し、支度を整えて家を出た。向かう先は、いつもの場所。早朝の道を早足で歩きながら、思い出す。
休日は、予定が入っていない限りは、遅くまで眠っている。のろのろと起き出して、寝惚け眼で朝食を食べて、ぼーっとテレビを見る事が多い。
その様子をこっそりと観察するのが、小狼の休日の日課だった。
(半分寝てる状態でトーストを食べるから、ぼろぼろ下に零して、口の周りも汚して・・・そういう無防備なとこ、可愛・・・、って違う。何、余計な事を考えているんだ・・・。これは、あくまで任務の一環だ)
休日までさくらの様子を監視することは、己の役目のうちに含まれている。彼女の血を狙う吸血鬼が、いつ襲うとも限らない。学校の時は、担任の秋月や、西や賀村もいる。しかし、休日となればそうもいかない。
彼女と『そういう関係』になる前からずっと、こうして離れずに見守ってきた。
木之本家には、李家の特殊な結界を張ってある。彼女に異常が起これば、すぐにわかるようにしてある。だから、わざわざ足を運んで監視する必要は、本当は無い。無いのだけれど―――。
通いなれたその家が見えてくると、動悸が速まる。早足が、小走りになって。気付くと、走り出していた。
『お前の従妹。婚約者、なんだってな』
『木之本さんにも知られた。・・・彼女を悲しませたくないと思ってたが、知らないままでいる方がよっぽど可哀相だ』
余計な感情を振り払うように、走った。
周囲を確認して、家の傍に立っている木へと飛び移る。二階のさくらの部屋が見える、その位置まで移動する。すやすやと、気持ちよさそうに眠る姿を確認しようとして、止まった。
(・・・いない)
空のベッドを見て、小狼は驚いた。
こんな、朝早い時間から起きているなんて思わなかった。何か予定が入っていたかと、記憶を巡らせる。彼女の友人である大道寺知世にそれとなく確認した時は、特に何も言っていなかった。
昨日だって。学校から帰宅する彼女を後ろからこっそり追いかけて、眠りにつくまでこの場所で見張っていた。それまでは、何事もなかった筈だ。
さくらの姿が見えないことに、自分でも驚くくらいに動揺していた。彼女の気配を探すけれど、感じ取れない。甘く誘う匂いが、遠い。
妙な胸騒ぎがした。
―――もしかして。まさか。他の、誰かに。自分以外の者に。違う。あり得ない。無理だ。そんなの、耐えられない―――。
「・・・っ、落ち、着け・・・。まだ、わからない」
大きく吐いた息が、重く地面に沈んでいく。目の前が、暗く翳る。体中を巡る血液が、どくどくと脈打つ。震えだした右手を、強く掴んで抑えた。
その時。
「あれ?君はもしかして・・・さくらちゃんの、恋人、かな?」
突然に声をかけられて、小狼は大仰に肩を震わせた。まったく、気配を感じなかった。敵意を強め、構える。
声のした方を睨みつけると、そこには、笑顔の男性が一人でいた。その手には、大きな袋。焼き立てパンの良い匂いと、のんきな笑顔に、毒気も抜かれる。
「気づいてたよ。いつも、さくらちゃんの傍で守ってくれてた子だよね」
「・・・!お前、同族か」
「うん。でも、害はないから安心して。僕は、月城雪兎。さくらちゃんの味方だよ」
その言葉を、馬鹿正直に信じるわけがない。だけど不思議と、嫌な感じはしなかった。吸血鬼(同族)の、得体のしれない男。しかも、さくらの事も自分の事も知っている。警戒すべき存在である筈なのに。
小狼は迷った末、木の上から地上へと飛び降りた。その男の前に立つと、敵意を捨てて向き合った。
「俺は、李小狼。・・・聞きたい事がある。アイツは、今どこにいるんだ?知っているなら、教えてほしい」
真摯に問いかける鷲色の瞳に、雪兎は僅かに目を瞠る。
呆れるくらいに真っ直ぐで、清廉な心。この時代には珍しく、信念を持って突き進む姿が、記憶の中の男と重なる。雪兎は苦く笑って、頷いた。
「うん。知っているよ。ただ、それを教えてあげる代わりに、条件があるんだ」
「条件・・・?」
緊迫した二人の会話に重なって、すずめの長閑な鳴き声があたりに響き渡るのだった。

俺の痛みも重みも―――お前は、何も知らない。












(どうしてここに、小狼くんがいるの・・・?)
先程と同じように、自分が作り出した幻影かと思った。だけど、それにしては現実的だ。風に乗って届く、微かな息遣い。月明かりの中で浮かび上がる表情が、紛れもなく本物なのだと知らしめる。
ふと、自分の姿恰好を思い出した。ここは露天風呂で、当然だけど服は着ていなくて、ちぃと二人で真正面から彼と向き合っている。さくらは、かぁぁ、と頬を染めて、ちぃの手を引いてお湯の中に浸かった。濁り湯で助かったと、どうでもいいことを思う。
「・・・お前こそ。なんで勝手に、こんなところに来ているんだ。もう一人の林檎(ノウン)と接触を図るなんて、どれだけ危険かわかっているのか」
静かな口調ではあったけれど、小狼は怒っているのだと、さくらは感じた。
知りたいと思ったから、ここに来た。その事は後悔していない。だけど。小狼に責められると、途端に弱くなってしまう。
小さく「ごめんなさい」と謝ったさくらに、小狼はハッとして、バツが悪そうに視線を逸らした。
「違う。謝ってほしいわけじゃ・・・俺は、別にお前を責めてるわけじゃない。ただ、勝手にいなくなるから・・・」
「心配、した・・・?」
「・・・ああ」
さくらの問いかけに、小狼は素直に頷いた。
心配されて怒られるのは、これで何度目だろう。幼い頃からずっと、小狼は自分の事を心配してくれている。
最初は、ただ嫌われているだけだと思っていた。それが、違うとわかって。彼なりに、大事に思ってくれている事に気づけてからは、叱られる度に嬉しくなった。
(心配している間は、私の事だけ考えてくれてた・・・?)
そんな小さなことでも一喜一憂できるくらい、小狼の事が好きだ。今も、どんどん好きになっている。それが、彼を困らせるだけだとしても。もう、気持ちは止められない。
黙り込むさくらと小狼を、ちぃは黙って見ていた。ちゃぷ、と。お湯が揺れる。
小狼は、風呂場から少し離れた木陰に立ち、さくらを見つめた。距離は、2メートル程。小狼はそれ以上近づかないし、離れる事もない。もどかしい距離が、互いの心臓を震わせた。
「・・・小狼くん」
「なんだ」
「聞いたの。苺鈴さんの事・・・。婚約者だって」
思い切ってその話題を口にした途端、小狼の眉間に皺が寄った。反射的に口を噤もうとするけれど、ここで負けたくなかった。知るのは怖い。けれど、逃げたくない。
「私・・・私は、小狼くんの事が好き。血をあげたいと思うのは、小狼くんだけだよ。私は、私の全部を、小狼くんにあげたい。・・・でも、その気持ちは、小狼くんには迷惑・・・?」
言いながら、涙が出そうになった。だけど、さくらはぐっと堪える。泣いたらきっと、抱きしめてくれる。抱きしめて、キスをして。そんなふうに、誤魔化されたくない。
「小狼くんが、苺鈴さんを一番に大事にしていてもいい。すぐには無理だけど、私も、ちゃんと理解できるようになるから・・・!でも、ひとつだけ知りたいの。小狼くんは、私の事・・・」
小狼がどんな顔をしているのか、怖くて見られなかった。さくらは、白く濁ったお湯を見つめながら、言った。
「私の事、本当はどう思ってるの・・・っ!?」
「っ!!」
その時。月が再び雲に覆われて、光は遮られた。
夜闇に包まれて、小狼の表情は見えない。そのまま消えてしまうような気がして、さくらは不安になった。思わず身を乗り出して、小狼がいたあたりを窺がう。
すると。影が動いて、こちらへと近づいてきた。これには、さくらもちぃも驚いた。
「え?や、嘘・・・!?小狼くん!?」
ばしゃん、と。大きな音が鳴った。
小狼が、お湯の中に入ってきたのだとわかった。突然の展開にさくらは驚いて立ち上がり、後退する。バシャバシャと、激しい水音と共に気配が近づいて、露わになっている腕を掴まれた。
ゆっくりと、光が降り注ぐ。雲が晴れて、月が顔を出したその時。さくらは、生まれたままの姿で、小狼に強く抱きしめられていた。
背中に回った腕が、痛いくらいに抱きしめる。長い指が、さくらの髪に差し込まれて。吐息が、耳元をくすぐる。抱きしめられている幸せに、思考が麻痺しそうになって、さくらは咄嗟に抵抗した。
「いや・・・っ!」
「っ!?嫌って、なんで・・・!」
「いつも、小狼くんずるいんだもんっ!!そうやって抱きしめて、誤魔化すんでしょ!?もう、嫌なの!誤魔化さないで、隠さないでちゃんと言って・・・!」
さくらが離れようと抵抗して、小狼は離すまいと必死で押さえつける。
二人の攻防に、お湯が激しく揺れて。ちぃは驚いた顔のまま、二人を交互に見つめた。
「違う・・・っ!暴れるな!大人しく聞け!」
「やだぁ!」
「この・・・、馬鹿!・・・聞けって!―――さくらっ!!」
その瞬間。さくらは、ぴたりと動きを止めた。
先程までの暴れ様が嘘のように、静かになる。大きな瞳をさらに見開いて、呆然と、目の前の人を見つめる。その視線を受けて、小狼は仄かに頬を染め、さくらの頬を掌で包んだ。
「誤魔化すとか、隠すとか・・・。お前に触れるのに、そんな余裕あると思ったのか。理性的になりたいのに、お前が誘惑するから・・・っ!今だって、お前が・・・お前が、俺から逃げて、いなくなるんじゃないかって・・・そう、思ったから」
「え・・・?」
小狼の指が、さくらの唇に触れる。やわらかなそれを、ふにふにと弄りながら、小狼は苦悶の表情で言った。
「俺は、苦手なんだ・・・。言葉とか、そういうので伝えるのは。お前が望むような事を、言える自信がない」
「小狼くん・・・」
「苺鈴の事は、ちゃんと話そうと思っていた。色々と複雑なんだ。でも、お前が心配するような事は、無いから。無いように、するから。・・・頼むから、俺以外の奴の前で泣かないでくれ」
さくらは、驚いていた。小狼から聞かされる言葉は、自分が予想していたものとは全く違っていたから。
目の前で、顔を赤く染めて、言葉を選んで話してくれている。苦手だと言いながら、一生懸命に伝えてくれようとしている。
錯覚してしまう。まるで、小狼が自分を特別に好いてくれているように感じる。そんなのは、勘違いだと思っていた。でも、本当に?本当に、勘違いなのだろうか?
小狼は、照れて動揺して、それでも真っ直ぐに見つめる。その目に映っているのは、紛れもなく自分で―――。
(小狼くんは、絶対に私のものにならないんだって、諦めてた・・・。違うの?)
頬に触れる、小狼の手が。微かに震えている事に、さくらは気付いた。
「どうすれば、いい。どうすれば、お前は笑うんだ。・・・教えてくれ。頼むから・・・」
(婚約者がいるのに?私が林檎(ノウン)だから、大事にしてくれるんじゃないの?)
たくさんの疑問が頭の中を回るけれど、目の前にいる小狼に意識を持っていかれる。悩んでいたことが嘘みたいに、すとんと落ちた。
(・・・小狼くんの心は、もう『ここ』にあるの?)
「頼むから・・・!お前は、俺の傍に」
絞り出すような小狼の声に、さくらの体が動いた。背伸びをして、小狼へと口づけた。
小狼の言葉は、キスの中に消える。驚いて一瞬たじろぐが、すぐにキスに応える。舌を絡め、深く交わる。シャツが濡れて重くなっても、構わずに抱きしめて、何度も唇を重ねた。
「さくら・・・」
「小狼くん・・・。もっと、呼んで?私の名前、呼んで・・・」
「ん・・・。さくら、さくら・・・さくら」
甘く響く、三文字。自分の名前が、こんなに鮮やかな色で響くなんて知らなかった。
胸が痛くて、たまらない。その痛みが、何よりも幸せで。何よりも愛おしい。
「さくら」
―――好きだ。
(名前を呼ばれる度に・・・小狼くんに、『好き』って、言われてるみたい)
吐息とともに、小狼の声が鼓膜を震わせて、体の芯が熱くなった。自分の中にある全部が、小狼への想いを強める。
「また、甘くなった・・・」
小狼はうっとりと囁くと、自分で付けた首筋の咬み痕を、甘く食んだ。
熱い舌先で傷をくすぐる。甘い刺激に、さくらは焦れたように声を上げた。
これではいつもと逆だ、と。さくらが拗ねたように言うと、小狼はおかしそうに笑った。滅多に見られない小狼の笑顔に、さくらの目に涙がこみ上げる。
「欲しいよぅ、小狼くん・・・」
「それは、俺のセリフだ」
くすくすと笑いあって、互いに唇を寄せる。わざと音を立てながら、舌を絡めて歯列をなぞり、ちゅ、と唇を鳴らす。視線を合わせて、笑って。お互いを、誘惑するみたいに。悪戯に触れて、それを繰り返す。
甘いやり取りに微笑むさくらに、小狼は眉を顰めて言った。
「・・・そういう顔も、頼むから他に見せるなよ。お前の体、匂いも・・・触れるたびに美味くなるから、心配なんだ・・・」
深刻な顔でそう言われて、さくらは驚いた。
小狼を繋ぎ止めたくて、もっと美味しくなってほしいと願ってはいたけれど。本当に、そんな事があるのだろうか。自分ではわからず、さくらは首を傾げる。
「でも、小狼くんも、他のみんなもいてくれるから、大丈夫だよ?」
呑気に笑うさくらに、小狼の眉間の皺が深くなる。―――むしろ、その『みんな』に気を付けてほしい。そう言いかけて、止まる。
「俺が、今まで以上に気を付けて、お前を見てればいいんだよな・・・」
「え?なぁに・・・、んっ」
「なんでもない。さくら・・・いいか?」
首元に吸い付いて、赤く痕を残す。そんな少しの刺激じゃ、物足りない。このやわらかな肌に牙を刺して、流れる血を啜ってほしい。
さくらは、小さく頷いた。

「林檎(ノウン)は、恋をすると美味しくなるんだよ。大好きな人の為に、甘い蜜になるの。・・・って、ちぃ、知ってる」

「・・・っ!!」
「ほ、ほえぇぇぇ!!ち、ちぃちゃん!!」
二人きりの世界に入りすぎて、ちぃがいる事を忘れていた。絶叫するさくらに、ちいは不思議そうに首を傾げる。
わざとではなかったにしろ、人前でラブシーンを披露してしまった。恥ずかしさと申し訳なさに震えるさくらに、ちぃは笑顔で言った。
「さくら、すごく幸せそう。よかったね」
「~~~っ!・・・うん。ありがとう・・・」
湯気が出るくらいに赤くなって、さくらは小狼の胸に顔を埋めた。
(でも、苺鈴さんの事とか、重要な事は何も聞いてない・・・。小狼くんにその気はなくても、結局誤魔化されちゃってる気がする・・・)
じ、と見つめると、小狼も気づいて、こちらを向く。
抱きしめてくれるこの手が、他の誰かを抱きしめていたとしても、昨日よりは悲しくない。もちろん、面白くない気持ちはあるけれど。
今まで見えなかった小狼の心。それが、自分に向けられている事がわかった。不器用だけど、一生懸命に。愛してくれている事が、ちゃんと伝わったから。
その気持ちが、純粋な恋じゃなかったとしても―――。
(小狼くんは、私が林檎(ノウン)だから、好きになってくれたのかもしれない。・・・それでも、いい。最初はそうだったとしても、本当に好きになってもらうように、頑張るから。・・・いつか、小狼くんの一番になれるように)
「覚悟、してね?」
「・・・え?何を?」
小狼の、きょとんとした幼い表情を見て、さくらは笑顔で言った。
「ううんっ!あ・・・!私、は、はは裸だった・・・!み、見ちゃダメっ!!」
「今更・・・?」
「今更だけど!見ちゃダメなの!着替えてから行くから、小狼くんは先にログハウスの方に・・・」


そう言って、ログハウスの方を指さしたその時。
嫌な音を立てて、建物の一部が爆発した。突然に燃え盛る炎と煙に、ちぃは顔色を変えて、湯の中を飛び出した。さくらは咄嗟に、それを止める。
「ちぃちゃん待って!危ないよ!!」
「やだ!秀樹・・・!秀樹、助けなきゃ!」
狼狽えるちぃに、さくらは小狼を見上げた。
小狼は真剣な顔で、建物の方を見つめる。何があったのかはわからないが、今さくらから離れるのは躊躇われた。そして、傍にいるもう一人の林檎(ノウン)も。突然に迫る危機に、その場は緊迫する。
その時。
「・・・―――さくらちゃん!!さくらちゃん!!無事かっ!?」
「西くん!?」
西の声が、近づいてきた。さくらはホッと安心して、名前を呼ぶ。その声を聞いて、近づいてくる足音がさらに早くなった。
しかし、その時。
小狼が近くにあった木の枝を掴み、西へと投げつけた。枝はちょうどよく額にぶつかって、西は衝撃に後ろへと仰け反る。
「いってぇ!なんだ!?」
「・・・バカ西。こっちに来るな。さくらの裸を見るつもりか、お前」
「あぁ!?この声・・・、李か!?なんでお前がここにいるんだよっ!!」
激怒する西に、小狼は悪びれる様子もなく、ツンと顔を逸らす。
西の後ろから来たのは、賀村と秀樹だった。秀樹の姿を見て、ちぃは湯から飛び出し、裸のまま抱き着いた。それを間近で見て、西は鼻血を噴き、賀村は咄嗟に顔を逸らす。
「ちぃ・・・!無事でよかった」
秀樹は心底安心したように、ちぃの体を抱きしめた。
小狼は、自分の濡れたシャツを脱いで、さくらの肩にかける。そうして、周囲一帯の気配を注意深く窺った。
―――静かな夜。平和な山奥に、招かれざる客がやってきた。



「美味しそうに熟した林檎ちゃん、見ぃつけた」

 



 

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2017.5.20 了


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