もっと静かに

 

 



『館内ではお静かに』
入口に書いてある文字を横目に、さくらはその場所に立ち入った。入った瞬間、独特な空気感に包まれて、どこか懐かしい気持ちになる。
友枝町にある大きめの図書館は、書籍の数も充実しており、大人から子供までたくさんの人に利用されている。図書館の傍には大きな公園があって、休日は家族連れで多く賑わう。新緑の季節になると、緑でいっぱいになるこの場所が、さくらは好きだった。
ゴールデンウィークの連休。さくらと小狼は、いっしょに出掛ける約束をしていた。
一昨日は映画。昨日はピクニック。こんなにたくさんの時間、小狼といっしょに過ごせるのは久しぶりの事で、さくらは連休に感謝した。もちろん、桃矢に小言を言われないようにと、家事や宿題も頑張っている。
連休3日目の今日、さくらは家の掃除を終わらせてから、おしゃれをして小狼のマンションにやってきた。
「今日は行きたいところがあるんだ。用事があって」
「うん!」
「さくらはあまり楽しい場所じゃないかもしれないが」
「どこ?」
興味津々に聞き返すさくら。そんな他愛ないやり取りさえ、楽しくて仕方ないといったさくらの笑顔に、小狼は赤くなった頬を指で掻いた。
「友枝図書館」








借りた本の返却と、新しく借りる本の物色。もし時間があれば、調べ物もしたい。
小狼の言葉に、さくらは二つ返事で了承した。小狼が『本の虫』である事は、長年の付き合いでさくらも良く知っている。せっかくの長い連休だからと、一週間程前に大量に本を借りていた事も知っている。
(あんなにたくさんあったのに、もう全部読み終わっちゃったんだぁ)
ずっしりと重そうな返却バックを見つめて、さくらは感心する。そうしてさくらは、小狼といっしょに図書館にやってきた。
子供の頃、仕事で家を空けがちな父親の代わりに、兄である桃矢が色んな場所に連れていってくれた。この図書館も、その一つだった。
そんな思い出の場所に、大人になってから、小狼と一緒に来ている。その事が、なんだか嬉しくて。くすぐったいような幸せを感じた。
「さくら。退屈じゃないか?」
本を選ぶ小狼の後ろについて回るさくらに、気遣って声をかけてくれる。さくらは笑顔で、ふるふると首を横に振った。
「ううん!楽しい。小狼くん、気にしないで。ゆっくり選んでね」
「ありがとう」
お礼を言う小狼の笑顔に、密かに心臓を鳴らしつつ、さくらはすう、と息を吸った。本の匂いは、好きだ。なんだかとても落ち着く。
大好きな父や、小狼を思い出すからだろうか。子供の頃の事を、懐かしく思うからだろうか。
(ふふっ。なんか、変な感じ)
口元に手をやって、緩んだ顔を隠す。
ちら、と。本を選ぶ小狼を見つめた。真剣な横顔。綺麗に切り揃えられた後ろ髪や、首筋。本を持つ、少し骨ばった男の子の手。長い指。
小狼を纏う空気と、この静かな場所が、さくらをドキドキさせた。
そっと手を伸ばして、小狼のパーカーの裾を握った。気づいて、「ん?」と優しく目を向ける小狼に、さくらは体を寄せる。
控えめに触れた肌の感触に、お互いにドキッとする。場所が場所だからか、なんだかいけない事をしている気持ちになる。
「やっぱり、退屈してるんじゃないか?」
内緒話のように、耳元で囁いた小狼の声に、更に動悸は増した。さくらはお返しに、少し背伸びをして、小狼の耳元で返事をする。
「だ、い、じょー、ぶっ」
その言葉に、小狼は破顔する。
不意打ちの笑顔は、ずるい。大きくなる心音が、この静かな館内に響いてしまわないかと、馬鹿なことを考える。
さくらは、今度は小狼の袖口を摘んで、くい、と引っ張った。小狼は笑んで、嫌がる素振りもなくさくらへと上体を倒す。寄せた耳に、さくらはまた、こしょこしょと囁いた。
「私、小さい時にここにたくさん来てたんだよ?」
「そうなのか?」
「うん。お気に入りの絵本があってね。何度も読んでたの。でもね、お兄ちゃんに、またそれかって言われるの」
さくらの話を聞きながら、小狼は書棚から本を出してページを捲る。終始笑顔で、さくらの話に相槌をうつ。
「どんな絵本なんだ?」
「えっとね、うさぎさんとぞうさんと、アリさんのお話でね」
「登場人物が独特だな。大きさがまちまちだ」
「んもぉ。真面目に聞いてよぅ」
「聞いてる聞いてる」
だんだんと楽しくなって、いつの間にか普通の音量に戻っていた。
二人の楽しそうなやり取りに、近くにいた初老の男性が、こほんと咳払いをする。
「あっ、ごめんなさい。……もう。小狼くんのせいだよ?」
「俺のせいか?」
くすくすと笑い声を精一杯に潜めながら、二人はぴったりと身を寄せた。小狼は物色していた本を、脇に抱える。これで三冊目。まだ足りないのだろうか、小狼は三冊の本を抱えて、違う本棚に移動する。
「それで?話の続きは?」
「うん。うさぎさんがね、池のどじょうさんに遠くの山にすごく美味しいにんじんがあるんだよって教えてもらって、仲良しのぞうさんとアリさんに相談するの。それでみんなで、その山に行くことになるんだけど」
「それは大冒険だな」
「そうなの!……あっ、また。声大きくなっちゃった」
さくらは口を手で押えて、周囲に目をやる。幸いにも、近くに人の気配は殆どなかった。専門書が立ち並ぶ本棚は、図書館の最奥にある。立ち入る人は限られているのだろう。
(小狼くん、調べ物もしたいって言ってたもんね)
邪魔をしないように、大人しくしていよう。
さくらがそう思ったのも束の間、小狼はさくらの手を握って、こそっと耳元で聞いた。
「それで?うさぎとぞうとアリは、どうなったんだ?」
その声が、先程よりも低くて艶があって、さくらはドキッとした。気のせいかな、と。過剰に反応する己を叱りつつ、笑顔で返す。
「うん。お互いに助け合って、たまに喧嘩もするんだけど最後は仲直りして……」
「うん、それで?」
「それで……。……あ、あの。小狼くん、調べ物は……?」
気づくと、さくらは本棚を背にしていて。目の前には、小狼が迫っていた。先程まで本を物色していた鷲色の瞳は、今はさくらを真っ直ぐに見つめている。
その瞳の奥に灯っている色も、声の変化も、手を握る強さも。ひとつの想いを昂らせるもので。
ーーー気のせいかな、気のせいじゃないかな。
さくらの思考も、目の前にある小狼の瞳に吸い込まれて、冷静さを失っていく。
『館内ではお静かに』
目の端に映ったお決まりの文句が、さくらの思考を一瞬だけクリアにする。吐息が触れる程に近づいた時、さくらは「ダメだよ」と小さく言った。
その言葉に、小狼は止まる。至近距離で、「ダメ」と弱く訴えるさくらの瞳を見つめたあと、唇を塞いだ。
声が漏れそうになるのを、必死にこらえる。
背を本棚に預け、頭一つ分大きな小狼がさくらをすっぽり隠すようにして、唇を重ねる。
ーーーちゅ、ちゅ。
ーーーちゅ、ちゅ……ちゅ。
「……もう、ダメ、だよ」
「シー。静かに。さくら」
「だっ、……ん、」
声を抑えて、零れる吐息も飲み込んで。ひたすらにキスをする。
静かに、静かに。
もっと静かに。
「だめ、なの」
「ん……?」
「……ちゅって、音、聞こえちゃう」
「……ああ。これは、無理だな」
唇を合わせた時に鳴る音は、抑えられそうにない。真剣な顔で考える小狼は、さくらから距離を取ろうとはせず、依然として二人の距離はとても近い。
「…………」
「…………」
額をあわせて、至近距離で熱のこもった瞳で見つめる。
そっと、さくらの瞼が落ちる。それを合図に、唇は再び重なった。
ちゅ、と。響くリップ音がお互いの熱を高めていく。好きの気持ちを伝えるように、何度も唇を重ねる。
はふ、とキスの合間に可愛らしく息をするさくらを見て、小狼は堪らない気持ちになる。
思わず両手でぎゅうっと抱きしめた瞬間、片手に抱えていた本が落ちた。
ーーーどさどさっ
「ほえぇっ!!」
「しまった……っ!」
大きな音で我に返った二人は、急いで本を拾う。揃って真っ赤な顔で、誰にでもなく謝るのだった。









「もう!本は大切にしないとダメだよ」
「……返す言葉もない」
「図書館であんなこと、しちゃダメっ」
「……それはさくらも、……いや、俺の我慢が足りなかった。さくらが可愛いから」
反省する小狼の言葉に、さくらの頬がポポポっと赤く染まる。
図書館からの帰り道、並んで歩きながら、先程の事を反省した。幸いにも落としてしまった本に傷みはなく、二人は安堵した。小狼も目当ての本を借りれたようだ。
「そうだ。……これじゃないか?さくらが言ってたの」
小狼は、図書館のバッグからあるものを取りだした。
やわらかな水彩タッチで描かれた表紙を見て、さくらの思い出が一気に彩やかに色づいた。
「この絵本……!これ!これだよー!すごい、小狼くんいつ見つけたの?」
「ちょうど、入口のところにあったんだ。もしかしてって思って。……さくらの好きだった絵本、俺も読んでみたかったから」
懐かしさに思わず涙ぐむさくらに、小狼は笑った。ページを捲るごとに、優しい気持ちになる。
「あとで、いっしょに読もう」
「うんっ」
差し出された手をとって、指を絡めて繋ぐ。幸せそうに笑うさくらの目には、同じくらい幸せそうな小狼の笑顔が映る。
連休3日目。これからどこに行こうか、何をしようか。
風に揺れる新緑。雲ひとつなく晴れた空の下、二人は手を繋いで歩いていくのだった。




2021年5月4日 プライベッターにて掲載

 

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だって今日は、キスの日だから。


 

 

 

「さくら。ちょっと、いいか?」
「どうしたの?小狼くん」
「ちょっと……話があるんだ」
小狼の真剣な眼差しに、さくらはドキッとする。読んでいた雑誌を閉じて、小狼の方に体を向ける。なぜか小狼は正座をしていたので、なんとなくさくらも正座して姿勢を正す。
部屋の真ん中で二人は膝を付き合わせ、黙り込む。ただならぬ空気に、さくらはごくりと唾を飲んだ。
(ど、どうしたんだろ?何か良くない話?私、何かしちゃったのかな)
小狼の鬼気迫る表情と寄せられた眉根に、さくらは不安になる。
「突然の話で、驚かせるかもしれないが」
「う、うん……っ」
「今日……何の日か知ってるか?」
「ほぇ……今日……?」
5月23日、日曜日。
さくらは考えるが、思いつくものは無い。何か記念日を忘れているのだろうか。小狼と一緒に過ごす約束以外、今日の予定は無かったと思う。ーーー多分。
必死に考え込むさくら。小狼は膝の上に乗せた両手をぐっと握りしめ、覚悟の表情で口を開いた。
「実は……今日は」
「今日、は?」
「……キスの日、らしいんだ」
ーーーキスの日。
思いもしなかった回答に、さくらは大きな目をパチパチと瞬かせた。目の前にある小狼の真剣な瞳と、赤らんだ頬を見て、遅れて理解する。
「ほえぇ……っ」
「お、驚かせてすまない」
「うん、う、ううん……っ、そんな、謝らなくても」
ふしゅー、と頭から湯気が出そうなくらい、真っ赤になった。そんなさくらを見て、小狼は申し訳なさそうに眉を下げる。
(き、キスの日なんて、あるんだぁ)
さくらは思わず、小狼の唇を見つめた。小狼と初めてキスをしたのは、先月の事だ。初めてのキスにドキドキして、その日は眠れなかった。今でも、『そういう雰囲気』になると心臓が壊れてしまうのかと思うくらい、動揺する。
指折り数えて、思い出して、幸せな気持ちになる。
さくらにとって、小狼との『キス』は、今まで知らなかった甘さと刺激を教えてくれた。



瞳を潤ませて、ぽーっとした表情で見つめるさくらに、小狼の鼓動も速くなる。すぐにでも身を乗り出して距離を詰めたくなる衝動を、ぐっと堪え、言った。
「だから……。その、さくらが嫌じゃなかったら……キスしたいんだ」
「っ!」
「……ダメか?」
律儀に確認を取る小狼。さくらはその申し出に耳まで真っ赤になって、言葉を無くした。
返答が無いことに、小狼も不安になる。やはり言うべきじゃなかったかと、後悔しはじめた時。
さくらが、自分の唇に手をやって。ぽつりと言った。
「キスの日だから、キスするの……?」
「さくら?」
「……キスの日じゃない日は、キスしちゃダメなの、かな……?」
予想外の問いかけに、今度は小狼の思考が固まった。
さくらの口から『キス』というワードが出るだけで、どうしようもなく動揺してしまうのに。
その言葉を反芻して、小狼の理性の壁がガラガラと崩れた。
「ダメじゃない」
「……ほぇっ」
さくらの華奢な肩にそっと手をやって、抱き寄せる。思いのままに抱きしめたくなるのを堪え、小狼はさくらを見つめた。
「キスの日も、キスの日じゃない日も……俺は、さくらとキスしたい」
「っ……、ほんと?」
「ああ。いつだって、したいと思ってる」
言いながら、羞恥で死にそうになる。さくらも小狼の言葉にドキドキし過ぎてしまい、「はうぅ」と不明瞭な言葉を漏らす。
二人は、吐息が触れる距離で熱っぽく見つめ合う。自然と繋がれた右手と左手に、ぎゅっと力がこめられる。
さくらの瞼が落ちるのを見ながら、小狼も目を閉じる。
ゆっくりと近づいて、やわらかなその唇に、そっと触れた。


「……」
「……」
「……今日は、キスの日だから」
「うん」
「たくさん、してもいいか?」
許容量はとっくに限界突破している。言葉が出ないさくらに、小狼は思わず笑った。
返事を待たずに、唇を重ねる。ちゅ、ちゅ、と聞こえる音が、二人の熱を上げていく。
(はうぅ~~~)
(……さくら、可愛い。やばい。止められない。どうしよう……)
(こんなに、キスしていいのかなぁ)
(……いいか。今日は)
(……いいのかな。今日は)

数えきれないくらいのキスをしても、今日はきっと許される。
ーーーだって今日は、キスの日だから。


 

2021年1月23日 プライベッター掲載


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dododo!ドーナツ!









「はにゃ~ん♡ドーナツおいしいね、小狼くん!」
「ああ。すごく美味い。……あ、さくら。砂糖ついてるぞ」
「ほえっ。あ、ありがと……」
ドーナツをお持ち帰りにして、さくらの部屋でいっしょに食べている。甘いドーナツに頬も緩み、幸せな気持ちでいっぱいになる。
さくらはひとつ目のドーナツを平らげて、次は何を食べようかと悩む。
小狼はチョコレートたっぷりのドーナツを食べている。付き合いの長い人ならすぐに分かる。いつもと変わらないように見えて、小狼はかなりご機嫌だった。
(小狼くん、チョコレート好きだもんね!)
嬉しくて、さくらは一人で笑ってしまう。
箱の端にあるドーナツを手に取って、小狼に見せた。
「ポン〇リングも美味しいよね!モチモチしてるの!」
「うん。それも美味しいな」
「ポン〇リングのね、キャラクターの、ポン〇ライオンが凄く可愛くてね!可愛いのに、ライオンさんだからガオーって鳴くの!すごく可愛くて、その時は色々集めちゃったんだぁ」
パクっとかぶりついて、モチモチの食感と甘さに「はにゃーん」が飛び出す。幸せそうに食べるさくらをジッと見た後、小狼はなぜか無言になった。
視線を感じて、さくらは不思議そうに目を瞬かせた。真剣に見つめる小狼に、ドキッと心臓がはねる。
(ほぇ?なんだろ?なんでそんなに見てるの?あっ、「はにゃーん」って言っちゃったから?それとも、また口についちゃってるのかな)
途端に恥ずかしくなるさくらだったが、次の瞬間、聞こえた言葉に耳を疑った。
「がおー」
「……」
きょとんとするさくらに、小狼は顔を真っ赤に染めて言った。
「……ぽ、ポン〇ライオンの、真似」
「えっ!?い、今の?小狼くん、ポン〇ライオンの真似したの!?」
「うっ……」
「私が好きだって言ったから、真似してくれたの!?」
「さ、さくら!ドーナツ!そんなに力入れたら潰れるぞ!!」
「もう一回!もう一回、聞きたい!小狼くんのがおー、聞きたい!」
「い、嫌だ!二回はやらない!!」
目を輝かせて「もう一回!」と迫るさくらに、小狼はこれ以上ないくらいに顔を赤くした。
食べかけのドーナツの事も頭からなくなるくらい、甘い甘いひと時を過ごす二人なのでした。



「さくらの気ぃ引きたくて必死やなぁ、小僧。涙出てくるわー」
「さくらちゃんがあまりにポン〇ライオンさんを褒めるから、李くん嫉妬なさったのかもしれませんね!」

「……おい!うるさいぞ、そこ!!」




2021年7月6日  プライベッターにて掲載



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チャレンジ!







微かな寝息に気づいたのは、さくらが読んでいた小説がちょうど最終章のはじめにかかる、そのページを捲った時だった。
隣で、自分よりも些か厚めの本を読んでいた小狼は、ソファの縁に肘をかけて、すぅすぅと寝息をたてていた。半袖のシャツから出た、細いけれど逞しい腕。あどけない寝顔に、さくらは思わずきゅんと胸を鳴らした。
膝の上で広げられた本が重力に従って落ちそうになったのを、咄嗟に伸ばした手で受け止める。音のひとつも立てなかった自分を褒めつつ、小狼の本をサイドテーブルに置いた。
(小狼くんがうたた寝なんて、珍しいな。疲れてたのかな)
7月の終わり。さくらは、小狼の部屋に遊びに来ていた。炎天下の熱から逃れて、エアコンが効いた涼しい部屋でゆったりとした休日を過ごす事となった。
さくらが作ったお昼ご飯を二人で食べて、それからーーー寝室に連れられてこっそり甘い時間を過ごしたあと、小狼にすすめられた本を読み始めた。
少しだけ、と思っていたのに読み始めると止まらなくて、気づいたら二時間以上が経過していた。
最終章の展開はとてもとても気になるけれど。今は、傍らで眠る恋人の方が気になる。
さくらは息を潜めて、眠る小狼を見つめた。長い睫毛が、寝息に合わせて動く。エアコンの冷風に晒されて少し冷えたせいか、頬がいつもより白く見えて、さくらはなんだか心配になる。
起きないかな、と思いながらそっと右手で頬に触れると、思ったよりもあたたかくて安心する。
(ふしぎ。ずっと見てても、全然飽きないや)
その時。
ピロン、と。電子音が響いた。さくらは大仰に肩を震わせて、近くに置いてあった携帯電話を手に取った。届いていたのは広告メールで、はぁ、とため息をつく。
小狼が起きなくてよかった。そう思って携帯電話を握りしめた瞬間、少しの悪戯心がひょこっと顔を覗かせた。
(……一枚だけ、だから!)
誰にでもなく心の中で断りをいれてから、カメラを起動する。ファインダー越しに、眠る小狼を捉えて。迷いながらも、ボタンを押した。
ーーーパシャッ
(……ほえぇぇぇ!と、撮っちゃった。小狼くんの寝顔。可愛い……!)
携帯電話の画面で、こっそり撮った小狼の寝顔を見つめる。この貴重な瞬間を切り取って保存できたという喜びが、さくらの心を浮足立たせた。
(自分だけで楽しむから……っ!悪用とかしないからね!)
またもや、誰に許可を得ようとしているのか不明だが、心の中で必死に弁明する。そうして、さくらは待受画面に小狼の寝顔を設定した。
(~~~っ!どうしよ……!これ、すごく、はにゃぁーん♡だよぉ!)
興奮気味に携帯電話を見つめるさくらは。
夢中になるあまりに、気づかなかった。
「……なにしてんの。さくら」
「っ、ほえぇ!?」
後ろから覗きこまれ、さくらは飛び上がるほど驚いた。わたわたするうち、手の中にあった携帯電話は小狼がひょいっと奪って。今しがた設定したばかりの待受画面を、じー、と見つめた。
「ご、ごめんなさいっ!つい、出来心で」
「……ふーん」
「小狼くん……。怒ってる?」
表情からも声音からも、感情が読み取れない。
途端に申し訳ない気持ちになる。罪悪感と恥ずかしさも相まって、さくらは泣きそうになった。
問いかけには答えずに、小狼は無表情でさくらの携帯電話を操作する。
涙目を瞬かせるさくらの肩を抱くと、目の前に掲げた携帯電話の画面におさまるように、顔をくっつける。
「撮るぞ」
「……ほえぇ!?」
ーーーパシャッ
シャッター音が響いた瞬間、画面の中の小狼が笑った。
さくらはその笑顔に驚いて、きゅんとして。撮った写真では、随分とひどい顔をしていた。
「も、もう一回!もう一回撮りたい!小狼くん!」
「だめ。今ので終わり。あ、俺の寝顔の写真は消したからな」
「えぇぇ!?そんなぁ……」
しょんぼりするさくらを、小狼はしばらく見つめた。頬を撫でられ、さくらは涙目で見上げる。
かわいい、と小さく呟いたあと、小狼はさくらにキスをした。
「本物がここにいるのに、何か不満でも?」
「~~~っ」
何も言えずに顔を真っ赤に染めて、さくらは心の中で白旗をあげた。

神様。
一瞬、一瞬に見せる、大好きな人のあんな顔やあんな顔を。
ひとつも逃さず保存したいと思うのは、我儘なのでしょうか?

「今の顔も、写真に撮りたかったよぉ……。お願い!小狼くん!一枚だけ……っ」
「だーめ」
「はうぅ。今の、ちょっと意地悪な『だーめ』も……!」
「さくら。もしかして大道寺が乗り移ったのか……?」
呆れる小狼におでこを突かれて、さくらは肩を落とした。
携帯電話のアルバムから小狼の寝顔は消去され、代わりに先程撮った下手くそなツーショット写真が目に入る。その中の小狼の笑顔に、ほわわ、とさくらの心があたたまる。
(いつか、またリベンジ……っ!出来る、かなぁ?)

チラ、と。上目遣いで見つめた先、難攻不落な恋人が、甘く笑うのだった。

 

2021年7月31日 プライベッターにて掲載



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胸がドキドキ








「スピネルさんと対戦ゲーム?今日やるの?」
「おお!そうや!前回は僅差で負けてもうたから、今日は絶対リベンジするんや!!」
ケルベロスの目がごうごうと燃えているのを見て、さくらは「ほえぇ」と声を漏らす。
ちらっと、予定が書き込まれたボードを見る。父も兄も、仕事とバイトで夜まで不在だ。さくらの予定は、お菓子作りと書き込まれている。
「さくらはケーキ作るんやろ?わいの分も絶対絶対取っておいてな!!」
「う、うん。それはいいけど・・・。ケロちゃんも一緒に作ると思ってたよ」
「そんな野暮な真似はせーへん!小僧も来るんやろ?二人で仲良くしーや!」
わいはゲームに燃えてるからなぁ!と、気合いたっぷりに拳を握るケルベロスに、さくらは戸惑いの表情を浮かべた。
先日、千春から「たっぷりフルーツのパウンドケーキ」のレシピをもらって、早速作ることにした。そうしたら、小狼もちょうど予定が空いていたので、一緒に作ろうという話になった。
さくらは喜んだ。大好きな小狼と共に過ごせる休日。美味しいケーキを作って、いい香りのお茶をいれて。想像しただけで、さくらの頬は緩んだ。
だけど。いざ、二人きりとなると。
(ほえぇぇぇ。ドキドキしちゃう・・・。小狼くんと、二人きりなんだ)
鳴り出した心臓の音が、時計の秒針のリズムを軽く追い越していく。
もうすぐ約束した時間になる。
さくらはなんだか落ち着かなくて、洗面所で何度も髪型のチェックをしたり、思い立って掃除を始めたりした。
そわそわ、ドキドキ。緊張が最高潮に達したその時。
ぴんぽーん
「っ!はぁい!」
鳴り響いたチャイムの音に返事をして、軽く深呼吸をしてから、さくらは玄関に走った。
扉をゆっくり開けると、小狼が立っていた。さくらの顔を見て、ふわっと表情をやわらげる。
「おはよう。時間、少し早すぎたか?」
「ううん!ぴったりだよ。どうぞ!」
家の中に招き入れると、小狼は「お邪魔します」と言って靴を脱いだ。律儀に靴を揃えると、さくらに持っていた紙袋を渡した。
「実家から送ってもらった茶葉だ。この前、さくらが美味しいって言ってたから」
「あのお花のお茶?やったぁ!こんなにたくさん、いいの?」
「ああ。さくらの家の人にも気に入ってもらえるといいんだが」
控えめに言う小狼に、さくらは笑顔でお礼を言った。リビングのソファに座ってもらい、その間にさくらはキッチンへ入る。小狼に見えないところで、胸に手を当ててゆっくり深呼吸をした。
(はうぅ・・・。どうしても意識、しちゃうよぅ)
なんでもない風を装おうと努力するも、それが出来ているのか分からない。自分が、小狼の前でどんな顔をしているのか、知りたいくらいだ。
(私、最近変だ。小狼くんの傍にいると、胸がドキドキして、上手く喋れなくなっちゃう)
小狼が友枝町に帰ってきて、二人が再会を果たしてから半年の月日が経った。
いっしょにいられる事が、嬉しくて仕方ない。顔が熱くなって、無意識に頬が緩んで。気づいたら、小狼の事ばかり目で追ってしまう。
かつて、雪兎に同じような感情を抱いていた時も、こんな風に浮かれていた。恋は楽しくて、姿が見えるだけでも嬉しくて、言葉を交わせば一日中幸せを感じられた。
だから不思議に思わなかった。小狼に恋をしているのだと、自覚すればするほど、さくらは幸福に満たされた。
だけど、その気持ちに変化が起きた。嬉しくて幸せなのに、時々苦しくなる。小狼の事を考えると、大好きだと思うのと同時に、会いたくて仕方なくなる。なのに、いざ会えるとなると緊張して、見つめられるとドキドキして、うまく笑えなくなる。
こんな自分は初めてで、さくらは戸惑っていた。
「ケーキ、作るんだろ?パウンドケーキだったな」
「う、うん。あっ、ケロちゃんはゲームで忙しいから手伝えないんだって。でも、ちゃんと残しておいてって」
「・・・相変わらず食い意地がはってるな」
むむっ、と寄せられた眉根を見て、さくらは思わず笑った。
そんなさくらの笑顔を見て、小狼もくすぐったそうに笑う。少しはにかんだ笑顔に、さくらの心臓が大いに震えた。
(はっ・・・、はにゃぁ―――ん♡今の笑顔、すごくすごく、はにゃーんだよぉ・・・♡)
ときめきすぎて、思考がおかしくなっている自覚はある。
さくらは、ハッとした。今、自分はどんな顔をしていたのだろう?途端に不安になる。
「どうした?」
急に真顔になって俯いたさくらに、小狼は心配そうに問いかけた。さくらは慌てて笑顔を作り、「なんでもないよ!」と言った。誤魔化すように、ケーキ作りの準備にとりかかる。
(はうぅ。こんな調子で私、大丈夫かな。とにかく、小狼くんに変に思われないようにしなきゃ・・・!)










二人は並んでキッチンに立ち、何気ない会話をしながら作業を進める。
揃えた材料をレシピどおりに合わせて混ぜて、たくさんのドライフルーツを入れる。生地を型に流し込んで、オーブンに入れた。
「さくらは手際がいいな。さすがだ」
「そんな事ないよ!小狼くんの方がすごいよ!」
お互いに褒め合って、揃って顔を赤くする。
二人で後片付けをしていると、甘い匂いがしてきて、さくらは無意識に笑んだ。リビングが甘いケーキの香りで満たされる。なんて幸せなんだろう。
「・・・ふっ」
隣から笑った気配がして、さくらはパッと顔を向けた。口元を隠しているけれど、小狼はきっと笑ってる。目元がやわらかく綻んでいるのがわかる。
「な、なぁに?小狼くん、笑った?」
「ごめん。さくらが、幸せそうな顔してるから、つい。・・・俺も、幸せな気持ちになった」
直球の言葉に、さくらは自分の顔が熱くなるのを感じた。小狼の、少し赤くなった頬が愛おしくて仕方ない。
胸が苦しくなる。どうしようもなく、好きだと思った。気持ちが溢れて止まらない。今、目の前に雄大な山があったら、思い切り叫びたい気分だ。
(・・・わ、私、何考えてるんだろ?)
途端に恥ずかしくなって、蛇口をひねって水を止める。洗い物で濡れた手をタオルでふきながら、不自然にならないよう小狼から目をそらす。
「そろそろお茶の準備しよっか!喉も乾いたし」
「・・・ああ。そうだな」
小狼が、注意深く自分を見つめていた事に、この時のさくらはまだ気づいていなかった。
お揃いのティーカップとティーポットを、トレイに乗せてリビングに運ぶ。小狼が気づいて、さくらの手からトレイを受け取った。
「俺が淹れる」と申し出てくれたので、さくらは素直に甘えた。お茶を淹れてもてなすのは李家の流儀だそうで、その腕前も確かだ。
透明なポットの中でゆっくり開いていく花を見つめながら、さくらは、少しづつ気持ちが落ち着いていくのを感じた。
小狼への気持ちを、これ以上暴走させずに済みそうだ。こっそりと、安堵する。
「・・・さくら」
「ほぇ?なぁに?」
温めたカップに触れて、温度を確かめていた小狼が、不意に名前を呼んだ。完全に油断していたさくらは、次の瞬間、息が止まるほど驚く。
「何か、あったのか?具合が悪いのか?」
「・・・っ!?」
「今日、少しおかしい気がして。気になってたんだ」
小狼は、真剣な表情で真っ直ぐにさくらを見つめた。―――吐息が触れそうな程の、近距離で。
さくらの視界が小狼で埋まってしまうほどに、二人の距離は近い。小狼の瞳の中にいる自分は、今真っ赤になっているに違いないと思った。
それでも、逸らせない。真っ直ぐで、強くて、綺麗な瞳から。見つめられると、ドキドキして落ち着かなくて。うまく喋れなくなってしまう。
大好きの気持ちに、心全部が持っていかれてしまう。
「・・・・・・し、」
「し・・・?」
さくらの発した一音を、小狼も繰り返す。
込み上げる気持ちが、涙腺を緩ませる。
「心臓、とまっちゃい、そう・・・」
「・・・なっ!た、大変だ!病気か!?すぐに病院に」
慌てる小狼の、右手の袖をきゅっと掴んで止める。もう片方の手で、うるさくなる心臓のあたりを抑えた。
驚く小狼の顔を上目遣いで見つめて、さくらは潤んだ瞳で言った。
「・・・ばかぁ。小狼くんのせいだもん」
「え?」
「小狼くんに、見つめられると・・・、ドキドキしすぎちゃうの。胸が苦しくて、きゅうぅってなるの」
さくらの言葉を聞いて、遅れて理解したのか、小狼は一気に顔を赤く染めた。
パッと、距離が離れる。それを、少し残念に思う自分に気づいて、恥ずかしくなった。
「おかしくなっちゃうんだもん・・・」
視界が涙で滲む。ポットの中で開いた花が、ぼんやりと見えた。
次の瞬間、目元を優しく撫でられた。小狼の長い指に触れられ、さくらの体温があがる。
再び、距離は近づいて。先程よりも頬を赤らめた小狼が、さくらの瞳を覗き込むようにして、視線をあわせた。
「・・・俺も、同じだ」
「ほぇ?でも、小狼くんはいつも平気そうで」
「そんなわけないだろ?」
そう言って、小狼はさくらの手を握って。自分の胸へと導いた。服の上からでもわかるくらいに、鼓動が伝わる。
「俺の方が、年季が入ってるから。平気なふりが少し得意になっただけだ」
「年季って・・・?」
ぽややんと問いかけるさくらに、小狼は小さく笑った。額と額をくっつけて、至近距離で見つめられる。
鳴り響く鼓動は、二人分。重なって、もっと大きくなって。同じリズムで、響きあう。
「さくらの事、好きになったばかりの頃は俺も同じだった。うまく喋れなくて、心臓が痛くなって。よく逃げ出してただろ?」
小学生の頃の、小さかった小狼の事を思い出す。話しかけると顔を真っ赤にして、何やら叫んだり、走っていってしまったり。
(そっか。あの時の小狼くんと、今の私、同じなんだぁ)
なんだか嬉しくなって、苦しかった胸がほんわりとあたたかくなる。
自分だけじゃないのだと、そう思えただけで気持ちが軽くなった。小狼への恋心がそうさせるのなら、この苦しさも愛おしく思える。
「俺の方が、お前を好きな時間が長いんだぞ?」
「むぅ。すぐに追いつくもん!あっ、好きの大きさなら、きっと追い越してるよ!」
「それは無い。俺の方がずっと先にいってる」
「さくらだって負けないもん!」
くすくすと笑いながら、恥ずかしい事で張り合って競い合って。いつの間にか、リビングは甘い甘い空間に包まれていた。
「あっ、お茶・・・!忘れてた」
「しまった。少し渋くなったかもしれない」
「ふふっ。それでもいいよ。小狼くん、一緒に飲も?」


もうすぐケーキが焼ける。美味しいお茶も準備が出来た。
大好きな君と一緒に食べたら、最高に美味しいだろう。

「「いただきます」」

最高にしあわせな、休日。









おまけ


「・・・そうなんや。おう。ケーキの美味しそうな匂いがしてきたから、1階に降りたんやけどな。・・・あの二人、何やら手繋いで顔近づけて、笑いあってんのや!!スッピーどう思う!?」
『完全なお邪魔虫ですね。野暮な真似はしないでください』
「そやかて!ケーキがごっつ美味そうな香りさせんのやで!?」
『たまには食い意地より主への気遣いを優先させるべきでは?』
「殺生や!!あああ、どうすればええんや~~!!!」
ケルベロスの悲しい叫び声に、スピネルはやれやれと肩をすくめるのだった。




~2021年8月15日 web拍手お礼文にて掲載


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