朝、自然に目が覚めた。
ゆっくりと身を起こして、サイドテーブルの上にある時計を見た。カチッと、長針が動いて短針と重なった瞬間、スイッチを押した。セットしたアラームが一声もあげないうちに、小狼はベッドから降りる。もしも時計に心があったら、お役御免だと密かに泣いているかもしれない。
(待ち合わせは二時間後か。長いな)
コーヒーをいれてパンを焼いて、パソコンのメールを確認して。テレビをつけて今日の情勢や天気を確認しながら、朝食を食べる。
時計を見ると、まだ二十分程しか経過していない。こういう時は、驚くほど遅く感じる。
(さくらと会っている時は、逆に早く感じる。時間の流れは、等しく一定な筈なのに。……不思議だ)
今日は、小狼とさくらがお出かけの約束をした日だ。ここ最近は小狼の仕事の関係で、休日は殆ど会えなかった。クラスも違う為、学校ではなかなかいっしょにいられない。昼休みは他の皆もいるので、せいぜい隣に座って話をするくらいが精一杯だった。
だから、小狼は今日の日を心待ちにしていた。
仕事で疲弊した心と身体が、無意識にさくらを求めていた。
やわらかな身体を抱きしめて、仄かに甘い匂いを吸い込んで、甘やかに名前を呼ぶ声をひたすらに聞きたい。
想像して、顔に熱が集まるのを感じた。
(ち、違う。そういう、不埒な意味じゃない。ただ、さくらを抱きしめると、元気を充電出来る気がするから。だから、必要なんだ)
誰にでもなく言い訳をして、飲み頃になったコーヒーを飲み干した。食器を片付けてから、身支度を整える。
待ち合わせ時間には少し早いが、家にいてもどうせ落ち着かない。それなら、一足先に向かって、本でも読みながらさくらを待っている方が有意義な気がする。
『小狼くん、いつも来るの早すぎるよお!今日こそ、私の方が早いと思ってたのに!』
毎度、待ち合わせ場所に現れたさくらが悔しそうにそう言うのを、密かに楽しみにしている事は内緒だ。
手頃な文庫を一冊鞄にいれて、小狼は家を出た。

 

 

 

 

 

僕達は○○したい

 

 

 

 

 

「小狼くんっ、ごめんね!待たせちゃった?」
「いや。まだ、待ち合わせ時間前だから。大丈夫だ」
待ち合わせ場所に駆けてきたさくらは、いつものように謝った。それから、むぅぅ、と眉をひそめて、上目遣いに睨んだ。
「今日も、小狼くんに負けちゃった。いつも早すぎるよぅ」
想像どおりの可愛い文句に、小狼の頬が緩む。
「俺は今日何も用意してないからな。さくらにお弁当、任せてすまない」
「ううん!それは私がしたくてしてる事だから!……あっ。いいのに。持つよ?」
「俺が持ちたいんだ」
さくらの手にある、ランチボックス入りの大きなカバンを持つ。今日も張り切ってたくさん作ってくれたのだろう。幸せな重みに、小狼は笑んだ。
足取りも軽く、目的地へと歩き出す。
「じゃあ、行くか」
「うん!」
満面の笑顔で頷くさくらに、小狼の心臓が急にうるさくなった。やっと、この日が来た。今日という日を待ちわびていた。
今、隣に。手を伸ばせば届くところに、さくらがいるという事実が、嬉しくて仕方なかった。
「さ、さくら」
「なぁに?小狼くん」
「あの……、手、繋がないか?」
控えめに申し出たその提案に、さくらは頬を赤く染めた。多分、自分も赤くなっている事は容易に想像出来る。
さくらは照れながらも嬉しそうに笑って、小狼の手を取った。やわく繋いだ手。一度解いて、きゅ、と指を絡めて繋ぐと、体温が上がった気がした。
「あっ。私、手に汗かいてるかも!」
「そんなの、全然いい」
「ほんと……?なんか、今日体がずっとポカポカしてるの。なんでだろ?小狼くんと会うと、ドキドキするからかな」
えへへ、と照れくさそうに笑うさくらに、小狼の心臓が今日一番の動悸を鳴らした。繋いだ手を引き寄せて、抱きしめてしまいたい。
そんな事を思ってしまう。
その時。

「わいもおるからな―――!」
「ほえぇぇぇ!?」
「けっ。ケルベロス!?」

突然に大声をあげた封印の獣に、さくらも小狼もひっくり返りそうなくらい驚いた。小狼が持っていた、お弁当の入ったバッグの中から、ケルベロスは派手に登場した。
そのあと、ハッとした顔でさくらと小狼を見て、首を傾げる。
「なんや……?ここ、どこやねん」
「ケロちゃん!なんでそのバッグに入ってるの!?まさか……っ、つまみ食いしてたの!?」
さくらの剣幕に、ケルベロスは「ぎくっ」と顔を強ばらせた。さくらの後ろでは、小狼が底冷えのするような冷たい視線を向けてくる。
ケルベロスは青くなって、慌てて言い訳をした。
「す、少しだけやで!?さくらが美味そうなん朝から作ってたから、どうもお腹すいてしもうて……。こっそり忍び込んで食べてるうち、寝てしもうたんやろか?」
自分でも記憶が曖昧なのか、丸みを帯びた手を頬にやって、「はて?」と首を捻る。
小狼とさくらは顔を見合わせて、はぁぁ、とため息をついた。
「もぉ。ケロちゃんの食いしん坊!……小狼くん、ごめんね。せっかくのお出かけなのに」
しゅんとするさくらに、小狼は優しく笑って「気にするな」と言った。それから、さくらに向けるのとは真逆の表情で、ケルベロスを睨み下ろす。
「言っておくが、今日はお前を構う暇はないからな。ケルベロス」
そう言いながら、小狼は繋いだままのさくらの手を更にぎゅっと握った。
ケルベロスは、繋がれた二人の手と小狼の表情を見て、やれやれと肩をすくめる。
「わかっとるわ!邪魔するほど野暮やあらへん。思う存分イチャイチャせぇ!」
「けっ、ケロちゃん!」
「わいの事はいないと思ってええからな!」
「む、無理だよぅ~」
赤面して、困った顔で小狼を見る。その頼りないさくらの表情がたまらなく可愛くて、小狼はぐぐっと奥歯を噛んだ。
(ケルベロス……!本気で邪魔だ)
恨みがましい気持ちを込めた視線に、さすがに耐えられなくなったのかケルベロスはバッグの中に身を潜めた。
さくらは、依然として申し訳なさそうにしている。気持ちを切り替えなければ。
小狼は安心させるように笑って、「じゃあ、行くか」ともう一度言った。さくらはホッとした顔で頷くと、小狼と並んで歩を進めた。




何度か訪れた事のある、植物園。今はコスモスが見頃ということで、園内にはたくさんの人が訪れていた。
広大なコスモス畑に、ピンクや黄色、オレンジや白のコスモスが綺麗に花開いていた。
「きれーい!すごいね、小狼くん!」
「ああ。たくさん色があるんだな」
風がふくと、揃って揺れるコスモスの花に、さくらは感嘆の声をあげた。綺麗な花も、それを見つめるさくらの横顔にも、幸せを感じる。
「おぉー!綺麗やなー!」
「……こら。普通に顔出すな喋るな!」
「硬いこと言わんでもええやないか!みんな花見とるから平気やって!」
「ケロちゃんっ」
小声でケルベロスを咎める。小狼とさくらは、顔を見合わせて笑った。
それから。広場にいってレジャーシートを広げて、お弁当を食べた。ケルベロスと半ば取り合いになりながら、さくらお手製のお弁当に舌鼓をうった。
キラキラと目を輝かせて「美味い」と笑う小狼に、さくらも嬉しそうに笑った。


「やっと静かになったな」
「ふふっ。お腹いっぱい食べたから、当分起きないね」
膨らんだお腹をつんつんと突いても、ケルベロスは起きる気配はない。気持ちよさそうに眠る相棒を見ていたら、眠気が伝染したのかさくらは小さく欠伸をこぼした。それを見ていた小狼にも欠伸がうつって、二人は同時に笑った。
「俺達も、少し横になるか」
「うん。風が気持ちいいもんね!」
そう言って、レジャーシートの上に体を横たえた。ふと隣を見ると、距離の近さに心臓が跳ねる。さくらの頬が赤く染まるのを見て、小狼は堪らない気持ちになった。
「……さわりたい」
「っ!」
「ダメか?」
さくらは、耳まで真っ赤になって、ぱくぱくと口を動かした。「外なのに」とか、「誰かに見られちゃう」とか、言いたいことはあるだろうに、結局は頷いてくれる。
自分でも卑怯だと思う。困らせるとわかっていても、我儘を言ってしまう。
さくらの方に身を寄せて、耳にかかる栗色の髪を撫でる。小さく震えて、さくらは不安そうに聞いた。
「誰かに、見られちゃわない、かな?」
「……大丈夫だ。みんなコスモス畑の方にいるから広場は空いているし、この木陰は通りからは死角になってる」
用意周到な小狼の言葉に、さくらは「ほえぇ」と戸惑いの声をあげる。しかしその言葉に安心したのか、触れる小狼の手に頬ずりして、笑った。
「えへへ。嬉しい。最近、あんまりいっしょにいられなかったから。今日、すごく楽しみにしてたの」
「俺もだ」
笑みを交わして、頬に触れて。それでも足りなくて、もっと、と思ってしまう。ここがどこなのかも忘れて、気持ちのままに抱きしめてしまいたくなる。
絡まる視線でさくらも察したのか、目を潤ませて切なげに見つめる。無言のまま、更に距離を詰めて。ピンク色の唇に、自分のそれを寄せた。
その時。
―――ぬっ、と。
現れた影が太陽の光を遮った。突然の事に小狼もさくらも動揺し、バッと勢いよく起き上がる。
「ほぇっ!?う、うさぎさん!?」
そこには、うさぎの着ぐるみが仁王立ちで立っていた。
覚えのあるフォルムと、着ぐるみ越しでも伝わる威圧感に、小狼の顔が青ざめる。
「あっ。ダメだよ、とーや。邪魔しちゃ」
「ゆ、雪兎さん!?えっ、じゃあこのうさぎさんって……」
真っ赤になってあたふたするさくらの頭を、うさぎの手がペシッと押す。そのあと、小狼の頭も同じように―――いや、やや強めに叩かれた。
「ごめんね、二人とも。今日、僕達ここで臨時のバイトなんだ。あっちのワゴンでアイスとかクレープ売ってるから、よかったら来てね」
そう言って、広告がプリントされた紙を渡される。
こんな時でも変わらずにこやかな雪兎に、居た堪れない気持ちになりながら、小狼とさくらはこくこくと頷いた。
うさぎは、雪兎に背を押されてワゴンの方へと戻って行った。

「ごめんね、小狼くん……」
「いや。俺も、ごめん。さくら」
二人は苦笑して謝ったあと、互いにこっそりため息をついた。
(ケルベロスといい、何か見えない力に邪魔されているのか?)
タイミングが合わない時というのは、こうも重なるものなのか。寸止めが続いたせいで、余計に焦らされてしまい、小狼は悶々とする。
それからは、色っぽい空気に戻ることもなく。植物園内を散策して、アイスを買っていっしょに食べて、普通にお出かけを楽しんだ。



夕刻。小狼はさくらを家まで送り届けるべく、帰り道を歩いていた。
他愛ないおしゃべりは尽きる事無く続き、離れ難い気持ちは家が近づくほどに強くなった。
木之本家の屋根が見えてきた、その時。
さくらが足を止めた。
小狼が気づいて振り返ると、さくらは赤い顔でじっとこちらを見ていた。多分、夕日のせいだけじゃない。
繋いだ手に、力がこめられて。引き寄せられるみたいに、小狼は一歩、さくらへと近づいた。
さくらは恥じらうように視線を泳がせたあと、小狼を上目遣いで見つめ、口を開いた。
「今日ね、小狼くんがさわりたいって言ってくれたの、嬉しかったの。私も、小狼くんにさわりたくて。……たくさん、ぎゅってしてほしかったから」
「っ!」
「ケロちゃん、まだ寝てるから……」
今なら、大丈夫。
きっと、邪魔は入らない。
小狼は、ごくりと喉を鳴らす。落ち着け、と緊張する己に言い聞かせ、ゆっくりと瞼を閉じるさくらに近づく。
(ああ。可愛い、さくら。ずっと見ていたい)
キスを待つ、大好きな女の子の顔に見惚れながら、唇を寄せる。

しかし、その時。

ぴくっ、と。小狼は肩を震わせる。
さくらも気づいて、目を開ける。二人の距離は、吐息も触れそうなくらいの近さだった。
「どうしたの?」
「……今、誰かの視線を感じた。見られているかもしれない」
気配に敏感な小狼は、表情を険しくして辺りを探る。
―――今日はやっぱりついてない。タイミングが合わない日は、とことん重なるものだ。信心深いわけではないが、どこぞにいるかもしれぬ神様を恨みたくなる。
胸中でそんな事を思っていると、「小狼くん」と、甘く名前を呼ばれて視線を戻す。
その瞬間。唇に、ふにっというやわらかな感触。
視界を埋めるさくらの可愛さに、小狼の思考がショートした。
触れた唇は、これまでの焦れた時間を取り戻すかのように、たっぷり長い時間重なって。
離れたら、ぷは、と可愛く息をするさくらがいて。小狼は、真っ赤な顔で固まった。
さくらは、イタズラが成功した子供のように笑って、言った。
「もう、見られててもいいもん」
「……っ」
「だから、もっと……イチャイチャしたい、な」
そう言ったさくらに、小狼は心の中で白旗をあげた。
思う存分抱きしめて、キスをして。門限ギリギリまで、二人の蜜月は続くのだった。





後日。

「……本当に、偶然でした。偶然に、通りかかっただけだったのですが……」
「よう撮れてるなぁ」
「つい、カメラを起動してしまいました……!お二人の仲睦まじいイチャイチャ、最高に可愛いですわ!」
「ほ、ほえぇぇぇー!!」

 

 


END

 

 

「イチャイチャを見られる」をテーマに書きました♪誰に見られるか決めきれなくて、みんなに見られるというお話になりました。

 

2021.9.8 了

 

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