少しだけ、赤くなっていた。額の、真ん中らへん。
さくらは鏡の前で、そっと指で触れた。
あの人の指が、触れた場所。ちょっとだけ痛くて、じんじん熱くて。怒った顔が、照れているようにしか見えなくて。
全然優しくないデコピンが、嬉しくて仕方なかった。
(痛いのに嬉しいって、私おかしいのかなぁ)
そっと、首筋の傷に触れる。何度となく同じ場所につけられた咬み痕が、勲章のように誇らしい。その瞬間を思い出すたびに、胸がきゅって苦しくなって、体内を巡る血液がドクドク脈打つ。
「小狼、くん・・・」
名前で呼ぶようになったのは、ごく最近。
今日、勇気を出して人前で呼んでみたら、怒られてしまった。けれど、二人きりの時は何も言わない。名前で呼ぶこと自体は許してくれている。と、思ってもいいだろうか。
少しだけ、近づけた気がする。あの高架下のキスから、まだ数日しか経っていないけれど。
好き、と告げて。返事の代わりに、キスをくれた。
今は、それだけで十分。
さくらは微笑んで、鏡の中にいる自分に頷いて見せた。

 

 

 

 

Golden Apple ~優しい獣~ 第五章【2】

 

 


 

 

「さくらちゃん。おかえりなさい」
「!雪兎さん!来てたんですか?」
さくらは嬉しそうに笑って、その人の元へ駆けた。ソファに座ってのんびりしていたこの人の名前は、月城雪兎。兄の友人であり、幼いころから家族のように親しくしている。
今は大学に通うために二人とも地元を出ているから、たまにこうして帰ってきては、一緒に夕飯を食べる事が多かった。
「お兄ちゃんは?」
「今、買い出しに行ってるんだ。調味料が切れてたんだって。今日、泊まっていく事になったんだ。お邪魔するね」
「はい!嬉しいです!」
雪兎の穏やかな笑顔に癒されて、心があたたかくなる。幼少の頃は、恋に似た想いを抱いた事もあった。優しくて大人なこの人に、近づきたくて、背伸びをしたあの頃。今では、懐かしく思える。
(あんな穏やかな恋は、小狼くんとは絶対無理、だろうなぁ)
想像して、思わず笑みが零れる。
それを見て、雪兎が言った。
「最近、さくらちゃん少し変わったね」
「え?そ、そうですか?なんだろう・・・」
真面目に考え始めたさくらに、雪兎は笑みを深くした。
「すごく、甘い匂いをさせるようになった・・・」
「ほぇ?」
聞こえなくて振り返ったさくらの、首元に。すっと、冷たい指先が触れた。絆創膏の上から、その傷を撫でる。
「どうしたの?ここ」
「あ・・・っ!ひ、引っ掻いちゃって。大げさにしてるだけなんです。全然、痛くないんですよ!・・・あ。私、先にサラダとか作り始めときます。お兄ちゃん、うるさいから」
僕も手伝うよ、と申し出た雪兎に、さくらは笑顔で大丈夫と言った。エプロンを付けて、キッチンへと入る。冷蔵庫の中を物色しながら、さくらは動揺する心臓を落ち着かせるように、深呼吸をした。
(び、びっくりしたぁ。髪でギリギリ隠れるから、あんまり気付かれないと思ってたけど・・・。お兄ちゃんも気づくかも。普通のふり、しなきゃ)
嘘や隠し事は、苦手。けれど、秘密を守る為だから。それも、苦ではなくなった。
小狼との共有の証である傷に、触れる。さくらは目を閉じて、大好きな人の事を想った。
そんなさくらの背中を見つめて、雪兎は困ったように眉を下げて笑った。ぽつりと、言葉が落ちる。
「罪な子だね・・・さくらちゃん」










翌朝。登校途中に、いつもとは何かが違う事に気付いた。
学校が近づくにつれて、人が多くなる。混雑が酷かった。前方に何かがあるのか、人だかりが出来ていて、さくらの背ではよく見えなかった。
(・・・あ!賀村くんと、西くんだ)
人混みの中で二人の後ろ姿を見つけて、さくらは安堵する。少々強引に前に進んで、二人の元へと近づく。
そうして、突然に視界が開けた。
「・・・え?」
目の前の光景に、固まった。
映画のような、ワンシーン。見慣れた学校の校門前で、男女が抱き合っている。あまりに非現実的な事態を、その場にいる全員が注目していた。
制服じゃない、『誰か』。その人を抱きしめている腕は。間違いない。自分の、大好きな人。
(小狼くん・・・?)
あの腕に抱きしめられる女の子は、自分だけだと思っていた。
他の人の目から逃れた場所で、ひっそりと隠れて。二人だけの世界で、何度も抱きしめてくれた腕。今は、違う人を抱きしめている。
雲一つない空。暑いくらいの初夏の日差しの中、たくさんの視線を浴びても尚、彼はその人を抱きしめていた。
―――直感。
小狼はここ数日、鬼気迫る様子で連絡を待っていた。相手は、きっとこの人だ。さくらは、なぜかそう確信していた。
もやもやとした感情が、心の中に満ちていく。隣で、賀村と西が何やら動揺していたけれど、さくらはそれどころではなかった。
未だ続く抱擁を見つめる横顔が、だんだんと不機嫌な色に変わっていく。
しかし、次の瞬間。しっとりとした感動的な空気は、突然に壊れた。
抱きしめていた体を即座に離すと、小狼は相手へと牙を剥いて怒った。
「お前・・・!いったい、どれだけの人に心配かけたと思ってるんだ!?連絡も取れない、居所も知らせないで!!」
「あはは。やっぱり怒った。ごめんね、小狼」
「ごめんで済むか!馬鹿!!」
小狼の剣幕にも堪える様子はなく、むしろ喜んでいるように見えた。少女がけらけらと悪気なく笑うと、小狼は諦めたように溜息をついた。そうして、眉間の皺を指で抑える。
(あ・・・。同じ顔、してる)
さくらは、強い既視感を感じた。何度となく、見たことがある。自分の事を心配して、怒った時の小狼と、同じ。
『全く・・・。お前は、俺を心配させることに関しては天才的だな』
前回のデートの最中、小狼に言われた事を思い出した。あの時は、嬉しくて仕方なかったけれど。今は、心に暗雲が立ち込める。
(心配してたの、私だけじゃなかったんだ。ふーん。ふーん。いいもん、別に・・・っ!怒ってなんか、ないもん!!)
さくらの不穏な視線に気づいたのか、小狼はハッとして辺りを見た。ようやく、注目されている事に気付いたらしい。
そして、沢山の生徒の中からさくらの姿を見つけた途端、目に見えて動揺した。傍らにいる少女が何言かを耳打ちして、それに顔を赤くして怒って、さくらの方を気遣うように見つめる。
いつもは冷静で無表情な男が、激しく狼狽えている。見ていて居た堪れない、と。賀村と西は同時に溜息をついた。
「なんか、まさに今浮気現場を見られた・・・みたいな顔してるな、李。だせぇ」
「ああ。本当にそうだとしたら、許せないけどな・・・」
さくらは、自分以上に怒っている二人に気付いて、驚いた。そして、なぜだかホッとした。
自分も怒っていた筈なのに、気付くと口が動いていた。
「ち、違うよ。多分・・・!その、小狼く・・・李くんにも、何か事情があるかもしれないし」
「さくらちゃん、こんな事になっても李を庇うのか!?健気すぎだろ!」
「う、ううん。そうじゃなくて」
庇うとか、そういうのじゃない。だけど、他の人から改めて聞くと、悲しくて。無意識に、否定の言葉を口にしていた。そうであってほしいという、願望をこめて。
その時。カツン、と。ヒール音が鳴って、さくらは視線を上げた。
目線が高いのは、ヒールの高い靴のせいだけじゃない。さくらは小柄な方だけれど、それ以上に彼女は飛びぬけてスタイルがよかった。長く伸びた脚が、陽に照らされて眩しい。
近くで見ると、それがよく分かった。気圧されそうになって、さくらはぐっと堪える。強気に、視線を合わせた。
すると、彼女はにこりと笑って、言った。
「はじめまして!李苺鈴です。あなたが、木之本さくらさん?」
「えっ!どうして、私の名前・・・。李、って苗字・・・」
呆然と、呟く。驚きで、言いたいことが纏まらない。明らかに動揺するさくらを見下ろして、苺鈴は笑う。馬鹿にするものではなく、可愛らしいものをみるような、穏やかな笑みだった。
「あなたたちの事情は聞いてる。小狼の力になってくれて、ありがとう。李家の者として、お礼を言わせてほしいの」
「ほぇ?お礼・・・?」
何が何だか分からず、さくらは瞠目する。その時、後ろから来た小狼が、二人の間に割り込む。さくらの姿を背に隠すようにして、苺鈴へと言った。
「こいつに、余計な事は言うな。苺鈴」
「小狼が言ってほしくない事は、言ってないつもりだけど」
「苺鈴!!」
「OK。黙ります」
二人のやり取りに、さくらはますます面白くない。頬を膨らませて、分かりやすく拗ねてみせる。
さくらのその表情に気付いて、小狼は眉を顰める。重く溜息まで零れたから、さくらはショックを受けた。怒っているのは自分なのに。まるで、面倒だと言わんばかりの態度。あんまりだ。
その間にも、小狼と苺鈴は会話を続ける。
「そもそも、なんで学校に来たんだ。この騒ぎを聞きつけて、そろそろ教師が出てくるぞ。面倒な事になる前に送っていく」
「もう迎えの車は呼んでるわ。一人で戻れるから大丈夫よ。私、しばらくは市内のホテルにいるから」
「聞いてない・・・!どこのホテルだ?」
「あぁ、もう。うるさいなぁ。お説教は勘弁して?」
「うるさいって・・・!お前な!!どれだけ心配かけたと」
「それはさっき聞きました」
ぽんぽんと、次々に飛び出す言葉。二人の応酬は、喧嘩というにはあまりに軽く、軽口というには親密すぎた。誰も、口を挟めない。
「とにかく、俺も一緒に行く。・・・賀村、西。二時間目には戻ってくるから、担任にそう言っておいてくれ」
「は!?なんだよそれ・・・!大体、なんて言えばいいんだよ!!」
「家庭の事情と言っておけ。あとで、俺からちゃんと話す」
その時。迎えの車と思わしきクラクションが、坂の下から鳴り響いた。人が多くて、車が入ってこられないのだろう。小狼は苺鈴の背中を押して、歩き出す。
一瞬だけ、小狼がさくらの方を向いた。視線は、すぐに逸らされて。生徒達の間をすり抜けるように、二人は早足で学校から離れていった。
それを、黙って見ていた。それしか出来なかった。声も出ないし、足も動かない。
置き去りにされたような寂しさと怒りが、さくらの瞳を潤ませた。
(小狼くんの、ばか・・・。もう知らない・・・!)








いつだって、その行為は人目に隠れた場所で行われる。
ほんの少し薄暗い、ひやりとした空気。最初は躊躇いがちに、時々強引に、体を抱き寄せる。
『・・・いいか?』
短く尋ねる言葉に、小さく頷く。すると、彼はいつもキスをくれる。ただ血を吸う行為なのに、優しく愛してくれる。
それにどんな意味があるのか、わからない。聞きたいけれど、聞けない。
秘密の関係は、誰にも知られてはいけない。彼の秘密を、知ろうとしてはいけない。暗黙の決まりがあって、それを守らなければ、傍にはいられなくなる気がした。
明るい日の下で、あの人に抱きしめられていた、苺鈴という名の女の子。思い出して、心臓が痛みを覚える。
人目を避けて、日陰でしか抱きしめてもらえない自分とは―――違う。
(小狼くん、結局お昼まで戻ってこなかった・・・。どうしたんだろう。まだ、あの人と一緒にいるのかな)
もう知らない、と。そう思った筈なのに、やっぱり気になる。
気付くと携帯電話を見てしまう。着信が無いか、何かメッセージが無いか、確認してしまう。そして、何もない事に落ち込む。その繰り返し。
さくらは、何度目かの溜息をついた。昼ご飯を食べ終わって、気になって校門前を見に来たけれど、人の気配は無い。
途端に、寂しい気持ちが胸を締め付けた。
昨日までは、あんなに幸せだったのに。前よりも近づけた気がして、前よりも彼の事を知った気になっていた。思い上がっていた矢先、容赦ない現実を見せつけられたようで、さくらは落ち込む。
傍にいられればいい。ただ、好きでいられれば、それでいい。そう思っていた筈なのに。少しの事で、心はぐらぐら揺れる。
「・・・馬鹿みたい」
もう、戻ろう。そう思って踵を返し、歩き出す。
人気の無い体育館脇を通った、その時。
「・・・っ!?」
後ろから、突然に抱きしめられた。驚いて声を上げようとしたら、掌で口を塞がれる。
一瞬、恐怖と驚きで混乱した。だけどすぐに、違和感の無さに気付く。自分をこんな風に抱いてくれる腕は、他にいない。
「こっち、来て」
耳元で囁かれて、こくりと頷く。
小狼はそのままさくらの肩を抱くと、体育館の中へと入っていった。昼休み中は施錠している筈なのに、その時は難なく扉が開いた。さくらは不審に思って、小狼を見つめる。
けれど、そんな事には構っていられないのか、気にせずに薄暗い体育館内をずんずんと進んでいく。
「・・・相変わらず、埃っぽいね」
小狼に連れられて入ったのは、体育倉庫だった。人目に付かないという点では、これ以上に適した場所は無いだろう。小狼はさくらを中に入れると、静かに扉を閉めた。
薄暗くて、空気がひんやりと冷たくて、埃っぽい。マットレスに腰かけて、二人は向き合った。
小狼は、なかなか口を開かない。さくらも、自分から何かを聞く気にはなれず、小狼からの言葉を待っていた。些か重苦しい空気の中で、沈黙は続く。
不意に、小狼が動いた。
さくらの手をそっと握ると、自分の方へと引き寄せる。抱きしめられて、さくらの心臓は鼓動を速めた。押し当てられた胸元から聞こえる心音と、少し掠れた声が、耳に聞こえた。
「・・・朝、ごめん。驚いただろ」
ごめん、と謝られて。さくらは、首を横に振った。謝られるのは、何か違う気がした。
迷いながらも、小狼の背中に腕を回す。抱きしめ返したのは、この体温をずっと待っていたから。
小狼はさくらを優しく抱きしめて、頬やこめかみにキスを落とした。前髪を掬って、額にもキスを落とす。愛おしい痛みを与えた、その場所に。今度は唇で優しく触れる。
さくらの表情が、緩む。まだ心の中のモヤモヤは消えないけれど。抱きしめられて、まんまと機嫌が直ってしまった。
(単純だなぁ・・・。私)
だけどやっぱり、気になる。
無言で抱きしめられている時間が続いて、さくらは身じろぎをした。すると、少しだけ拘束が緩む。小狼の腕の中から顔を上げて、さくらは聞いた。
「・・・苺鈴さんって・・・、」
「ん?」
「小狼くんの、家族、なの?」
―――『家庭の事情だ』そう言った小狼の言葉を、さくらは覚えていた。問いかけると、小狼は黙った。そのあとに、小さく頷く。
答えは返ってきたのに、すっきりしない。さくらは、もう一度小狼を見つめる。視界が、涙で滲む。
「それだけ・・・?」
その時。小狼の顔が、強張った。
一言で、無表情が崩れる。『聞くな』と、その瞳が強く言っていた。
さくらはショックを受けて、ふる、と首を振る。泣かないように、必死に堪えた。
「ごめ・・・、なんでも、ない」
俯いたさくらの頬に、小狼の手が触れる。顔を上げると、深く口づけられた。
「・・・んっ」
至近距離で、見つめる先。小狼は辛そうに眉を顰めていた。唇が、舌が、熱い。腕を掴む力は強引で、拒絶も逃げるのも許されない。
さくらの体はそのまま後ろに倒れて、その上に小狼が覆いかぶさる。慣らされた体はすぐに彼を受け入れて、解かれていく。キスに応えて、触れる手を握り返す。
指を絡めて、口づけて。行為は、甘い恋人同士のようなのに。心だけが、通わない。
さくらは、涙を滲ませた。
(ずるい・・・。ずるいよ、小狼くん)
強引なキスで黙らせて。優しい抱擁で誤魔化して。本当の事は隠したまま、檻の中に閉じ込める。彼の狡さを分かっているのに、抜け出せない。
(だって、好きなんだもん・・・!)
―――何も知らないままなら、一緒にいられる?傍に置いてくれる?こうやって、触れてくれる?
小狼の狡さを利用しているのは、自分も同じ。何も見なければいい。聞かなければいい。そうすればきっと、傷つかない。
だけど、心の奥底で、同じくらい叫んでる。
好きの気持ちが大きくなるほど、相反する想いが強くなる。
―――傍にいるだけじゃ、嫌。それだけじゃ、もう満足できない。本当は知りたい。全部を、知りたい。私が小狼くんの事を好きと思うくらい、小狼くんにも私の事を―――。
「好きに、なって・・・」
「・・・え?」
キスの合間に囁いた言葉を拾って、小狼が眉を顰める。
その顔を見て、さくらは笑った。涙を堪えた笑顔で、首を振る。そうして、制服のボタンを一つずつ開けていく。
「初めて血を吸ってもらったのも、この場所だったね」
「ああ」
「今、して・・・?小狼くん」
そう言うと、小狼はちらと時計を気にする素振りを見せた。
もうすぐ、授業が始まるからか。それとも、他の何かを気にしているのか、さくらには分からない。
だけど、今この瞬間だけは、譲れなかった。
さくらは躊躇いなく服を脱いで、下着姿になった。
小狼の前で、ここまで自分を曝け出した事は、今まで一度もない。薄暗い倉庫内でも、その白い肌は小狼の目に眩しく映った。ごくりと、喉が上下したのがわかる。
「お願い、今、ほしいの。小狼くんに、欲しがってほしいの・・・お願い・・・!」
堪えていた涙が、その時、頬を伝って零れた。その顔を見て、小狼は動く。
さくらを抱きしめて、キスをした。頬を濡らす涙を掌で撫でて、宥めるように髪を梳いて、何度も口づける。
「馬鹿、なんで泣くんだよ・・・」
「・・・ふっ。ごめ・・・」
小狼の指が、さくらの背中を撫でる。下着のホックのあたりを彷徨って、迷った末に、パチンと外した。その瞬間、さくらは目を瞠り、かぁ、と頬を染めた。
「お前に泣かれると、困るんだ。そういう顔は、煽るだけなんだって事。わかってやってるのか?いい加減、自覚してくれ」
「え?ん・・・っ、しゃおら、」
「黙って」
緩まった胸元に、小狼の掌が入り込む。自分以外の誰にも触らせたことのないその膨らみが、今、小狼に触れられている。さくらの中で、羞恥と歓喜が混ざって、涙になる。
「ぁ・・・、や、はず、かしい・・・」
「誘惑したのは、お前だろ・・・」
「だって、ん・・・、」
血を吸ってほしかった。小狼に、求めてほしかった。その望みは、この先の行為に繋がるのだろうか。分からないけれど、さくらは嬉しかった。
小狼のもう片方の手が、スカートの中に潜り込んだ。太ももを撫でて、更に際どい部分にまで触れられて、さくらは短い悲鳴を上げる。それさえも、小狼の唇に塞がれて、吐息に変わった。
熱が、ぐんぐん上がっていく。触れられた場所から、自分が変わっていくみたいだ。小狼の腕の中で、花開いていくように、感じた。
「甘い、匂い・・・」
「ふ、ぁ、・・・!小狼くん、小狼くん・・・!」
「っ!・・・名前、もっと呼んで。お前の声で呼ばれるの、堪らない・・・!」
小狼は切なげに瞳を揺らすと、さくらの首筋を舐め上げた。熱い舌の感触に震えて、さくらは何度も小狼の名前を呼んだ。
その場所に貼られた絆創膏を、小狼は器用に歯でひっかけて、剥がす。現れた傷跡を愛おしそうに見つめて、その場所に牙を立てた。
「・・・あぁっ!!」
「ん・・・、ん」
小狼の喉が、上下する。
夢中になって自分の血を飲む、小狼のその顔を、さくらは恍惚の表情で見つめた。
一心に求めてくれる。この人に血をあげられるのは、自分だけ。
誘惑して、引き寄せて、捕まえる。このまま、この人が離れられないように。もっともっと、甘くなればいいのに。
―――『破滅の果実にならないように、気を付けて』
その時。頭の中で突然に、ある人の言葉が響いた。だけど、誰だったのか、どこで聞いたのか思い出せない。少しの引っかかりは、小狼から与えられる快感と痛みに、かき消される。
「小狼くん・・・、好き。大好き・・・!」
「・・・ん」
「小狼くん、・・・あ、・・・、お願い、嘘で、いいから。少しでいいから・・・!私の事、」
―――好きになって。
口から零れ落ちそうになった言葉に、さくらは止まる。
自分の望みは、こんなに小さな事なのに。決して叶わない。この人に、言ってはいけない。望んでは、ダメなのだ。
「どうした・・・?」
さくらの様子が変わった事に気付いた小狼は、首元から離れ、その顔を覗き込んだ。
だけど、さくらは自分の顔を掌で隠してしまう。怪訝そうに眉を顰めて、小狼はその手を外そうとした。すると、いやいやと、首を横に振る。
「見ちゃ、だめ・・・」
「え?」
「こんな私、見ないで・・・」
その時。さくらも自分の顔を覆ってしまっていたから、小狼がどんな顔をしていたのか、わからなかった。
こんなに近くにいるのに。お互いに、お互いの深い場所まで立ち入れない。誰よりも、何よりもそれを望んでいるのに。望みは、同じなのに。
すれ違う心が、見えなくさせる。
「・・・李!!李―――!!!」
その時。二人の耳に聞こえてきたのは、西の声だった。声を張り上げて、小狼を探している。必死な様子に、小狼もさくらも顔色を変えた。
小狼はさくらの上から退いて、体育倉庫の扉を開けた。さくらも急いで制服を着こみ、追いかける。体育館を出ると、西がこちらに気付いて、ホッとした顔をした。
「よかった!やっぱりさくらちゃんも一緒だったか!」
「どうしたんだ?西」
「大変なんだよ・・・!お前の親戚っていう女が・・・」
「苺鈴が!?」
その名前を聞いた途端、小狼は顔色を変えて走り出した。
咄嗟に、さくらは小狼のシャツの裾を掴もうと、手を伸ばした。しかし。あと少し届かずに、さくらの手は空を掴む。
小狼はあっという間に傍から離れて、校舎へと走っていった。
周りの風景が、色を無くしたように暗くなる。音が遠くなって、一人きりになってしまったような、寂しさを感じた。
西に声をかけられるまで、さくらは動けなかった。






 

「あの苺鈴って女が教室に来て、突然奈久留センセに詰め寄ったんだよ!そんで、お前はイギリスのなんたら家の刺客なんだろう、とか。吸血鬼が、とか林檎が、とか!みんながいる前で話すんだぜ!?そうしたら奈久留センセが急にそいつを連れ出して、二人で消えちまったんだ!」
「消えた・・・!?」
「ああ!廊下に出たと思ったら、もう姿がなかったんだ!それで、俺と賀村で必死に探したんだよ!」
西の説明を聞きながら、小狼は足を止めずに走った。向かう先は、秋月奈久留の教科指導室だ。その後ろから、さくらは置いて行かれないようにと、必死に追いかけていた。
目的の場所に着くと、小狼はノックもせずに勢いよく扉を開けた。
そして。
そこにあった光景を凝視して、がくりと肩を落とした。
「あ、小狼。どうしたの?」
「やだ、みんなも来たの?お菓子足りるかしら」
そこには。ティーカップを手にお菓子を食べながら、談笑している二人の女性。奈久留と苺鈴は、初対面とは思えない距離感で、和やかにお茶をしていた。
その横には、先に到着していたのか、賀村もいた。付き合わされているのか、その手にもティーカップがある。
あまりの緊迫感の無さに、ここまで走ってきた疲労感も合わせて、脱力する。遅れて部屋に入ってきたさくらの姿を見て、苺鈴は嬉しそうに笑った。
「みんな、汗だくになってるけど。もしかして、私の事を心配して走ってきてくれた?」
「・・・苺鈴。大人しく待ってるって言うから、学校に連れてきたんだ。校舎の中に入って勝手な事をして・・・!」
「ちょっと、お説教はもう勘弁して!柊沢の家の者がいるって、小狼が言ってたから。ご挨拶しないといけないと思ってたの。それだけよ」
わからない話が続いて、さくら達は自然と黙り込む。
小狼と苺鈴、二人の距離感が、今のさくらには辛かった。逃げ出してしまいたい。なのに、足が動かない。見たくないのに、目は姿を追ってしまう。
さくらの様子に気付いた西と賀村が、心配そうに目を向けた。奈久留もまた、さくらをジッと見て、苦笑を零す。
「楽しそうなところ悪いけど、チャイム鳴るわよ。李くん、午前中の無断欠席は『家庭の事情』って事で了解しました。午後はちゃんと授業に出るのよ」
「・・・わかりました」
「ほら、みんなも!」
その時。小狼の携帯電話が、着信を知らせた。苺鈴は相手が分かっているのか、意味深に笑う。それを見て、小狼は眉間の皺を深くして、一人廊下へと出た。
自分達も、授業に出なければならない。さくらは苺鈴から目を逸らして、廊下へと向かった。
「・・・ひとつ、聞いてもいいですか?」
口を開いたのは、賀村だった。さくらが驚いて見ると、賀村は苺鈴を真っ直ぐに見ていた。その横顔は、険しい。
「あなたは、李とどういう関係なんですか?」
「・・・!」
それは、さくらが知りたくて仕方なかった事。聞きたくても、聞けなかった事。
求める答えは、『家族』や『親戚』ではなく。明かされていない、本当の事。西は焦った顔で、賀村やさくらの顔を交互に見る。さくらは俯いて、自分の上履きを見つめた。
(だめ。この先を、聞いちゃ、だめ・・・!)
そう思うのに、体は動かない。
奈久留は、何も言わなかった。しん、と静まり返った部屋に、始業を知らせるチャイムの音が響いた。
その音が鳴り終わる前に。苺鈴が、口を開いた。
「私は、小狼の従妹で幼馴染。・・・それと。一応、婚約者よ」



 


 

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2017.5.17 了


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