「だらけとるなー」
呆れたような声が聞こえて、微睡んでいたさくらの意識が浮上する。エアコンからは冷たい風がふいていて、気持ちいい。リビングのソファに体を横たえて、いつの間にかうたた寝していたようだ。
さくらは、傍に飛んできたケルベロスに、ふにゃりと笑いかけた。
「だぁって、暑いんだもん・・・」
「今日は兄ちゃんもお父はんも出かけとるからって、怠けすぎやでさくら!わいを見習え!朝早く起きてゲームクリアしたんやで!」
「だぁって、夏休みで・・・今日はなんにも予定がないんだもん・・・」
ケロちゃんは遊んでるだけでしょ、と。ほえほえした口調で答えると、ケルベロスは「立派に遊んどる!」となぜか胸をはった。確かに、こうしてだらだらと惰眠を貪っているよりは、ゲームに精を出す方がいくらかマシかもしれない。
さくらは、欠伸をひとつ洩らした。
今はこうやってソファの上でダラダラしているけれど、起きてからずっと怠けていたわけではない。
家族全員分の洗濯をして、それを外に干して。掃除機をかけて、洗い物を片付けて。一通りの家事をしたら、暑くて汗をかいたので、そこで一度お風呂に入った。シャワーを浴びてすっきりしたら途端に眠くなったので、ソファにダイブしてしまったのだ。
外では蝉がけたたましく鳴いている。だけど、家の中は快適だ。涼しい風が髪を揺らし、さくらの意識もまた夢と現実の間をふわふわと行き来する。
またも閉じそうになった瞼は、突然になった電話の音でぱちりと開いた。
鳴っていたのは、さくらの携帯電話だった。画面を開いて、そこにあった名前に表情がぱぁっ、と明るくなる。
それを見て、ケルベロスはすぐに誰からの電話か見当がついた。「やれやれ」と言った風に首を振ると、気を利かしてかキッチンの方へと飛んで行った。
「はい、さくらです!小狼くん?」

 

 

 

 

 

Pretty Girl

 

 

 

 

 

元気に出ると、電話の向こうで笑った気配がした。
『突然電話して悪い。今、平気か?』
「うん!」
ソファから起きて、正座して姿勢を正し、嬉しそうに答える。先程のだらけた空気は一掃されて、心臓がドキドキと鳴り始める。熱が上がる頬を、涼やかな風が撫でた。
そうして。
小狼から言われた言葉に、さくらは目を瞬かせた。
「・・・え?今から?・・・うんっ!行きたい!すぐに支度して、急いでいくね!」
そう言って、通話を切った。すると、キッチンからケルベロスが戻ってきて、手に持っているゼリーの蓋をあけながら、聞いた。
「なんや、さくら。出かけるんか?」
「うん!小狼くんが、お仕事終わったから一緒にごはん食べないかって!ケロちゃん、一緒にいく?」
「おう、行く行く・・・!って、やっぱりわいは遠慮しとくわ」
『ごはん』という言葉に物凄く惹かれたけれど、ケルベロスはすぐに思い直す。『2人きりで会える事もそうそうないですから』―――と、さくらの親友である大道寺知世の言葉を思い出したのだ。
ケルベロスの悩まし気な返答に、さくらは首を傾げた。
時計を見て、慌てて支度を始める。Tシャツとショートパンツという軽装を脱いで下着姿になると、部屋のクローゼットを開けてうんうんと唸った。
予定外に会えるのは嬉しいけれど、着ていく服に迷う。それでなくても、小狼と会う前日の晩はうんと悩んで決めるのだ。服や靴、バッグ、髪型まで。
だけど今日は、時間がない。さくらは何着かを鏡の前で合わせて、着替え始めた。
(小狼くんを待たせたくないし、早く会いたいもん・・・!急がなきゃ!)
「気を付けるんやでー!」
「うん、行ってきます!」
さくらは、眩しい夏の日差しの中、小狼の待っている場所へと駆けて行った。








「―――失礼。飲み物のおかわりはいかがですか?」
「ありがとう。でも、もうすぐ待ち合わせ相手がくるので。その時、一緒に」
そう答えると、背の高いウェイターはにこりと微笑んで軽く頭を下げ、他のテーブルへと声をかけにいった。
格式が高く歴史も長いこのホテルは、度々仕事のクライアントと会う時に使う。少し前に正面の席でクライアントが飲んでいたコーヒーのカップは片付けられて、代わりに水が置かれる。
小狼は腕時計を見た。もうそろそろ、到着する頃だろうか。
(突然に誘ってしまったけど、大丈夫だったかな。急がなくていいとは言ったけど、さくらの事だから走ってきそうだ)
誘ったのはこっちなのだからと、最初は家まで迎えに行こうと思ったが、色々と支度があるからここで待っていてほしいと言われた。小狼は了承し、ホテルのロビーラウンジでさくらが来るのを待っていた。
笑顔で走ってくる姿を想像して、思わず笑みが浮かぶ。
ハッ、と。周りに人がいる事に気付いて、小狼は誰に見られているわけでもないのに口元を隠す。油断すると、だらしなく頬が緩んでしまう。
小狼はきっちりと着込んだシャツの、第一ボタンを外して、小さく息を吐いた。いつになっても、どんな時でも。さくらに会えると思う瞬間は、心地いい緊張感が生まれる。
それから、十分程経って。少し遅いなと、心配し始めたその時。
「小狼くん、遅くなってごめんね!」
声をかけられ、小狼は椅子から立ち上がった。
しかし。さくらの姿を見た途端、顔が曇る。
「どうした・・・!?」
小狼の強張った声に、周りにいた客の視線が集まる。さくらは恥ずかしそうにして、身を小さくした。
夏らしい水色のワンピースは、ところどころ泥で黒く汚れていた。さくらの肘や膝も土で汚れていて、しかも赤い血が滲んでいた。よく見ると、頬にも擦り傷がある。
小狼は眉を顰め、さくらの顔を覗き込んだ。すると、その瞳にみるみるうちに涙が溜まる。
「い、急いでたら転んじゃって。服もぐちゃぐちゃになっちゃって、どうしようって慌てて。電話しようと思ったら私、忘れてきちゃってて・・・っ!家に戻ろうかなって思ったけど、小狼くんを、ま、待たせちゃうって、そう思ったから」
ぽろぽろと零れる涙に、小狼は堪らない気持ちになった。そうして、人目も気にせずにさくらを抱きしめる。周りにいた客の視線が、更に集まる。外国人が、からかうように口笛を鳴らした。
さくらは途端に我に返って、小狼の胸を押しやった。
「だ、だめ。私、汚れてるの。小狼くんの服まで汚れちゃう。こんな素敵なホテルなのに、ごめんね」
「そんな事気にするな。とりあえず、そのままの状態ではいられないだろ。こっち、来て。さくら」
泣きべそのさくらの頬を撫でて、小狼は安心させるように笑った。そうして手を引いて正面の椅子に座らせると、右手を上げる。すぐに、近くにいた男性スタッフが駆け寄ってきた。
「彼女の手当てをしたいんです。泥も流したいので、すぐに部屋を借りられますか」
「もちろんです。こちらへ。準備いたします」
ホテル側は、驚くほど早急に対応してくれた。さくらは申し訳なさそうにしながら、律儀にロビーにいた客にも頭を下げて、小狼の手に引かれるまま歩いていった。








「・・・っ」
「痛いか?少しの間、我慢して」
「うん、だいじょ・・・、ぶっ」
ちくちくと刺すような痛みに、さくらは声を上擦らせる。小狼は無表情に徹して、バスタブの縁にさくらを座らせ、膝や肘についた土をシャワーで洗い流した。滲んだ血ごと、こすり落とす。その痛みにさくらは両眼を瞑って耐えた。
濡れた膝と肘をタオルで丁寧に拭いてから、ホテルが貸してくれた救急セットで手当てをする。消毒液も染みたけれど、そんな事を言っていられない。
さくらは声も無く耐えた。小狼は手当てをしながら、さくらの顔をじっと見つめていた。
消毒が終わったあと、傷口にガーゼを当ててテープで留める。さくらはホッと息を吐く。
「さくら、大丈夫か?」
「うん。ありがとう、小狼くん。ごめんね。こんな迷惑かけるつもりじゃなかったの。・・・支度に時間がかかっちゃって、慌てて走ってきたんだ。そしたら転んじゃった。えへへ・・・」
「無理して笑わなくていい」
小狼は、自分が怪我をしたみたいに痛そうな顔をして、さくらの頬に口づける。そこには、小さな擦り傷があった。労わるような優しいキスに、さくらの頬が熱くなった。
泣きそうなくらい痛くて恥ずかしくて、どうしたらいいのか分からなくなった。それでも、帰ってしまわなくてよかったと思う。勇気を出して、ありのままで。小狼に会いに来てよかった。
さくらは浮かんだ涙を拭って、小狼へと笑った。
「服が汚れてしまったな。クリーニングに出すにしても、その間に着るものを調達しないと」
小狼はそう言いながら、携帯電話を操作する。さくらは慌てて言った。
「私、一度家に帰って着替えてくるよ。時間かかっちゃうけど」
「いや。もうあまり移動させたくない。大丈夫だ。ここのホテルの地下に、そういう店はたくさんあった。・・・歩くの、辛いか?」
心配そうに歪められた顔を見て、さくらは勢いよく首を横に振った。小狼は安堵の笑みを浮かべると、さくらの手を引く。
早足にならないように、ゆっくりと労わりながら案内される。それは、まるで映画のワンシーンのようだった。スーツ姿の小狼に、高級ホテルでエスコートされている。冷静に考えれば、とても嬉しくて、少し恥ずかしい。
舞い上がっていたさくらだったが、ふと目に入った鏡、そこに映った自分達の姿に落胆する。膝の絆創膏、泥だらけのワンピース。なんて不格好なのだろう。小狼と並んだ姿を見て、さくらは更に落ち込んだ。
しかしそんな心情を知ってか知らずか、豪華なホテルのロビーを通って地下のフロアへと進む。
周りにいる人はみんな綺麗に着飾っていて、自分と比べてますます居た堪れなくなった。そしてみんな、小狼を見ている。
(そうだよね。小狼くん、格好いいもん・・・)
堂々と隣を歩いて、優しく手を引いてくれる。その背中が遠くなった気がして、さくらは繋いでいた手に力を込めた。
すぐに気づいて、小狼がこちらを向く。
「大丈夫か?歩くの、速かったか」
「ううん・・・。大丈夫。あの、ごめんね小狼くん。私こんな格好で・・・恥ずかしく、ない?」
聞くと、小狼は両眼を瞬かせた。その呆けた表情に、さくらの強張った心がふわりと解ける。
きっと、彼にとっては思いもよらない事なのだろう。わかっていたけれど、その反応にさくらは安心した。
「恥ずかしいとか、なんで思うんだ。さくらは、いつものさくらだ。ワンピースだってすぐに綺麗になる。心配しなくても大丈夫だ」
不安の種を取り除こうと、小狼はさくらの頭をぽんぽんと撫でた。ほんの少しずれているけれど、嬉しいのには変わらない。さくらは「うん」と頷いて、不安を吹き飛ばすような笑顔を見せた。
地下のフロアに降りると、たくさんのお店が軒を連ねていた。どのお店も煌びやかで高級感があり、さくらは尻込みしてしまう。その中の一店舗に、小狼は進んだ。店に入ってすぐに、従業員の女性が駆け寄ってくる。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
「いきなりですいません。彼女の服を、何点か見せてください」
「はい。もちろんです。どうぞ」
緊張するさくらの手を引いて、店の奥へと足を踏み入れる。そこは広いフィッティングスペースになっていて、店頭に並んでいるものとは別の服がたくさん陳列されていた。
さくらは、思わず感嘆の息を零した。そのあとに、慌てて小狼の背中に話しかける。
「小狼くん、小狼くん。私、こんな高そうなお洋服、買えないよ?」
「大丈夫だ。支払いの心配はしなくていい。それより、足は痛くないか?」
「そ、それは大丈夫だけど・・・、でも」
狼狽えるさくらに、店員の女性が笑顔で話しかける。「こういうのはいかがですか?」と、ワンピースを数点見せられて、さくらの目は輝いた。カラフルな小花柄のものや、品の良いラベンダー色のワンピース、どれも可愛くて惹かれた。
それを表情で悟ったのか、小狼は小さく笑うと、さくらの背を押した。
「着て見せて、さくら」
「小狼くん・・・」
「大丈夫。待ってるから」
不安そうにするさくらに、小狼はやや強引に試着室に押し込んだ。店員の女性も「きっと似合います」と、にこにこと笑っている。
こうなったら、覚悟を決めるしかない。さくらはカーテンを引くと、汚れたワンピースを勢いよく脱いだ。
用意できましたか、と店員が尋ねると、消えそうな声で応答があった。試着室の前にあるソファで待機していた小狼は、その声に目を上げる。
ゆっくりとカーテンが開かれて、その奥で恥ずかしそうにするさくらの姿が見えた。大人っぽいAラインのワンピース、胸元にあしらわれた上品なレースと裾の花柄が、さくらによく似合っていて。小狼は、無意識に見惚れていた。
「へ、変じゃないかなぁ?こんな大人っぽいの、初めてで」
「そんなこと・・・」
「そんな事ないです!すごくお似合いで可愛いですよ!」
小狼が言おうとしたセリフは、殆ど店員に奪われた。
褒めちぎる店員に、さくらは「ほえぇぇぇ」と照れて真っ赤になる。しかし、その目はこちらをチラチラと見ていて、誰よりも小狼の反応を気にしていた。
そうしているうちに、少々興奮気味に褒めていた店員は、他の店員に呼ばれていった。
フィッティングスペースは二人きりになって、さくらの心臓がドキドキと鳴り始める。
小狼はさくらの正面に立つと、口元に手をやってジッと見つめる。上から下まで、じっくり観察されているような気分になって、さくらは恥ずかしそうに視線を落とした。
勇気を出して、視線を合わせ、問いかける。
「どうかな・・・?小狼くんは、こういうのどう思う・・・?」
「・・・ああ。好きだ」
「―――!」
真顔で見つめられて、迷いなく答えらえて。さくらは、酷く動揺した。それが伝わったのか、小狼もハッと我に返って、さくらと同様に顔を真っ赤に染め上げた。
「ち、ちがう。好きってそういう意味じゃ・・・!いや、違くはないんだけど、俺はその服が。というか、その服を着たさくらが、す、好きで・・・!」
「ほえぇぇ」
「いや、違うんだ!つまり、すごく似合ってて、か、可愛いから。でもさくらなら他の服もきっと・・・、だから、もっと色々着てみないか!?」
真っ赤になった小狼にそう言われて、さくらはぐるぐると目を回しながらも頷いた。
それから。戻ってきた店員が、次々と服を持ってきた。さくらは何着と着替えて、その度に小狼にも見てもらった。お互い恥ずかしがりながらも、真剣に服を選ぶ二人のやり取りに、店員達の方が照れてしまった。
結局。最初に着たワンピースに決めた。
それに合わせたミュールサンダルやバッグも用意されていて、さくらは恐縮する。既にお支払いは終わっていたらしく、さくらは店の入り口で待っている小狼の元に駆け寄った。
「走るな、さくら。また転ぶから」
小狼はそう言ったあと、装いを変えてやってきたさくらをマジマジと見つめて、嬉しそうに笑った。
言葉は無くても、聞こえてくるようだ。甘やかな空気に包まれるのが、気恥ずかしくて、嬉しくて仕方ない。
さくらは花のように微笑んで、小狼の袖口をきゅ、と握った。
「もう転ばないもん」
「わからないだろ。足、痛くないか?腕も。辛いならすぐに言えよ」
「ふふ。小狼くん、過保護すぎだよ」
そんなことない、と。ふい、と視線をそらした小狼の頬が仄かに赤くなっていて、さくらはこっそり笑った。
自分よりも大きな小狼の手が、さくらの手を握る。
「お腹すいただろ?上に、席を取ったから」
「え?こ、このホテルで食べるの・・・?なんか、高級そう」
「そこまでじゃない。ランチだし、カジュアルに食べられる。さくら、パスタとか好きだろ?それに、その足で歩き回らせるのも嫌だから。ホテルが一番手っ取り早い」
「やっぱり過保護だよぉ・・・」
考えていたランチとは大分違っていて、またもさくらは緊張する。
履きなれない華奢なミュールとふわふわな絨毯。バランスを崩してよろけると、小狼が支えた。
「ん?どうした?」
「・・・・・」
間近で小狼の顔を見上げて、さくらは頬を紅潮させた。
スーツ姿の小狼はいつもと違って大人っぽくて、格好良くて。緊張もするけれど、この腕の中が、世界で一番安心する。
ふと見ると、目の前にある鏡に自分達の姿が映っていた。先程ボロボロだった自分は、小狼の手で生まれ変わったように思えた。
―――まるで、魔法みたいに。








「小狼くん、ナプキンってお膝に置けばいいんだっけ?あれ、ナイフとフォークは外側から・・・?」
「さくら、落ち着け。普通のイタリアンだ。テーブルマナーは気にしなくていい」
ホテルの高層階にあるレストランからは、いつもと違う景色が見えた。
隣には小狼がいて、緊張でガチガチになっているさくらを、どこか微笑ましく見つめる。その視線に照れながら、運ばれてくる料理を美味しく食べた。
「美味しいー!小狼くん、これすごく美味しい!」
「ああ。よかった」
どれを食べても、美味しい、と喜ぶさくらと。
そんなさくらを見つめて、満足そうに笑う小狼。
二人の可愛いカップルを見ていた周囲の人間は、ほっこりと心を和ませるのだった。
―――そんな、ある日の夏の昼下がり。


 

 

END


 

 

プリティーウーマンごっこをやってほしいなぁとwグランドパレスホテルに行った時に妄想したネタです。

 

2018.7.21 了

 

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