うなじにキス









―――なぜだかわからないけれど、気になった。ふとした思いつきだった。
(李くん・・・寝てる?)
休み時間。周りにいるクラスメイト達は楽しそうにお喋りをしていて、教室内は賑やかだった。
お手洗いから帰ってきたさくらは、自分の席に戻る直前、ふと気になって立ち止まった。じっ、と。その人を、見つめる。
李小狼。香港から来た転校生で、李家という魔導士一族の子息だ。クロウ・リードの遠縁という事もあり、魔法の力も強い。クロウカードの災いを止める為に日本にやってきた。
さくらにとって、それは別世界の事のようで。ケルベロスから話を聞いても、いまいちピンと来なかった。
最初は、クロウカードを集めるのを止めようとしたり、奪おうとしたり、決して穏やかと言えるような関係ではなかった。
だけど最近は、少しずつ認めてもらえたような、協力してくれるような。優しいわけではないけれど、あからさまな敵意やトゲトゲとした態度は、最初の頃と比べれば随分と少なくなったように感じる。
さくらは、それが少し嬉しかった。
クラスメイトであり、秘密を共有する仲である、一人の男の子。今は両腕を組んだまま、目を閉じて微動だにしない。
この騒々しさの中で、よく眠れるなぁとさくらは思った。そうして、正面から小狼を見つめる。
(李くん、もしかして夜とかもクロウカード探しに歩いてるのかなぁ。真面目そうだし、一人で頑張っているのかも)
それに比べれば、確かに自分は不真面目というか、気合が足りないような気もする。小狼の勤勉さに感心しながら、さくらは自分の席には座らずに、今度は後ろに回って観察した。
(実は、ずっと気になってたんだよね・・・)
うずうず、疼く心。
さくらの視線は、小狼のうなじの辺りへ。綺麗に切りそろえられた髪と、刈り上げられた後ろ髪が目に入る。
(触ったら気持ちよさそう・・・とか、そんな事言ったら、また怒られちゃうかなぁ)
怒るというよりも、呆れられるかもしれない。眉根を顰め、胡乱な目で睨む顔がありありと浮かぶ。さくらは自分の想像にへらりと笑って、小狼へと近づいた。
起きないかな、起きないよね。心の中で言いながら、さくらは上体を倒し、小狼の顔を覗き込んだ。悪戯心が膨らんで、うなじの辺りにそっと手を伸ばす。
―――その時。
「ほえぇ!?!」
突然のさくらの悲鳴に、教室中の視線が集まった。
さくらの手首が、強い力で握られている。驚きに見開かれたさくらの瞳には、敵意をむき出しにした表情の小狼が映っていた。
うなじへと伸ばした手は、少しだけ大きな小狼の掌に掴まれていた。殺伐とした目に睨まれて、抵抗する気も削ぎ落とされる。
さくらは、その時になって焦った。―――小狼は怒っている。
「ご、ごめんなさい。私・・・」
「―――何をしようとしていた?俺の寝首でもかくつもりだったのか?」
「そんな事しないよぉ!!」
さくらが半泣きで言うと、小狼はハッと我に返ったように目を瞬かせた。それから、緊迫した空気を解く様に溜息をついて、さくらの手を放した。
さくらは、ドキドキと鳴る心臓を抑えた。
小狼はさくらからフッと目を逸らし、何も言わずに着席した。
「さくらちゃん、大丈夫ですか?」
「う、うん。大丈夫」
心配そうに駆け寄ってきた知世に、さくらは苦笑いを返した。
「どうしたの、李くん!女の子に乱暴しちゃダメだよ?」
「・・・すまない。何でもないから、放っておいてくれ」
冗談交じりにだが、山崎は小狼の行いを諫めた。小狼は無愛想にそう言うと、また同じ姿勢に戻って、目を閉じた。
さくらは堪らない気持ちになって、小狼へと謝った。
「ごめんなさい、李くん!私、ただ・・・えっと、」
(触ってみたかったの、なんて。い、言えないよぉ。もっと怒られちゃう)
言い澱むさくらに、小狼はゆっくり目を開けた。じっ、と見つめる瞳が、心の奥まで見透かすようで、さくらはなんだか居た堪れない気持ちになった。
「・・・お前に他意が無いのは分かった。俺は、そういうものにも反応するように仕込まれているんだ。だから、不用意に近づくな」
「ほぇ・・・?仕込まれて・・・?」
「もういい。席に座れ。授業が始まるぞ」
ぎろりと睨まれて、さくらは肩を震わせた。またも目を閉じてしまった小狼を見て、さくらはすごすごと自分の席に座った。程なくしてチャイムが鳴り、授業が始まる。
さくらは、先程掴まれた左手首に、そっと触れた。
少しだけ、赤くなっている。痛みはないけれど、触れたら、先程の小狼の顔が思い出された。
(李くん・・・。少しだけ近づけたかもって、そう思ってたのは私だけだったのかな。やっぱり、仲良くなるのは無理なのかなぁ)
ほんの少しの寂しさを感じながら、さくらはキュと唇を結んだ。








―――ぱらり。
静かに、ページを捲る音がした。
唸りを上げて稼働していた掃除機のスイッチを切ると、リビングは驚くほどに静かになった。さくらは掃除機を片付けたあと、エプロンのリボンを解いた。
(お掃除終わった・・・けど、気付いてないかな?)
本を読み始めると没頭してしまい、声をかけるまで気付かない事もしばしばあった。ソファに座って、こちらには背を向けている状態で、ページを捲る音だけが聞こえる。
さくらは、わざと足音を立てないようにして、近づいた。
じっ、と。見つめる先にあるのは。
綺麗に切りそろえられた髪と、刈り上げられた後ろ髪。
うずうず、疼く心。
(気付くかな・・・?気付かないかな?)
さくらは笑みを零して、近づく。上体をゆっくりと倒して、唇を寄せた。
―――ちゅ。
「っ!?!?」
大きな背中が、びくりと震えた。そうして、赤くなった顔が勢いよく振り向く。
「・・・さくら!」
「えへへ。びっくりした?小狼くん」
小狼は、さくらの笑顔を見てホッと安堵の息を吐いた。さくらは、ソファの背もたれに頬杖をついて、至近距離で小狼を見つめた。
「びっくりするに決まってるだろ・・・。あれ?掃除、終わったのか?」
「うん、さっき」
「普通に声かければいいのに」
びっくりした、と。溜息交じりに言いながらも、その顔は笑っている。小狼は読みかけの本を閉じて、さくらに向かって手招きする。
さくらはご機嫌に笑って、小狼の隣へと座った。
「掃除、一緒にやれば早く終わるのに」
「ううん。小狼くん、お仕事で疲れてるでしょ。お休みくらい、ゆっくり休んでほしいもん」
(それに。小狼くんのお嫁さんになれたみたいで・・・なんか、嬉しいんだもん)
自分の思考に照れてしまったので、言葉にはせずに心の中で呟いた。
今日は日曜日。小狼のマンションの部屋にきたさくらは、掃除機をかけながら、こっそりと未来の夢を見たりしていた。こそばゆい気持ちに小さく笑むと、小狼が「おいで」と広げた腕の中に飛び込んだ。ぎゅっと抱きしめてくれる腕が、気持ちいい。
「覚えてる?まだ会ったばかりの頃、小狼くんの背後からこっそり近づいたらすごく怒られたの!」
「ああ、覚えてる。でも、あれはさくらが悪いんだぞ。不用意に近づくと危ないんだ」
「今は、全然危なくないよ?」
きょとんとして尋ねると、小狼はほんのりと頬を染めたあと、答えの代わりにキスをした。
さくらの気配が馴染みすぎてて油断した、と。悔しそうに漏らした一言に、さくらは思わず笑った。
「今なら私、小狼くんの寝首もかけちゃうかも」
ぽつりと落ちたさくらの言葉に、小狼は二、三度瞬きをして、ぷ、と噴き出した。
「その台詞、この世で一番似合わないな」
「むぅ。最初に言ったのは小狼くんでしょ?『俺の寝首をかく気か?』って!あの時、ちょっと怖かったんだよ」
さくらは頬を膨らませて、小狼へと抗議した。
小狼はおかしそうに笑うと、さくらの膨らんだ頬を両手で包んで、ぎゅっと挟む。その顔にも、また笑った。
さくらは、ぼんやりと小狼の笑顔を見ながら、幼き日の少年の事を思い出す。
(あの頃の小狼くん・・・『李くん』は、こんな風に笑ってくれなかったなぁ)
トゲトゲしていて、怒っていて。不用意に近づくと、警戒されて。
だけど、一緒に過ごすうちにだんだんと距離が近くなって。助けたり、助けてくれたり。協力したり、励まされたりして。
一緒にいる事が、不思議じゃなくなった。傍にいる事が、当たり前になった。
いつの間にか、一番大切な男の子になっていた。
懐かしい気持ちに浸っていたさくらだったが、次の瞬間、ぐるんと視界が回ったから驚いた。
やわらかなソファが、二人分の体重を受けて僅かに軋む。小狼はさくらの上に覆いかぶさると、優しくキスをした。
ちゅ、とリップ音を鳴らして離れると、至近距離で笑って言った。
「・・・寝首をかかれるより、寝込みを襲われる方が嬉しい」
「小狼くん・・・。あの、襲ってるの、小狼くんの方だよ?」
「細かい事は気にするな」
小狼はご機嫌に笑って、さくらの唇を塞ぐ。
深くなる口づけに、さくらの心がふわふわと揺れる。首元に手を伸ばして、指先で小狼のうなじをそっと撫でた。刈り上げの部分を擦ると、小狼がさくらの唇をやわく食んだ。
(・・・えへへ。大好き)

あの頃は近づけなかった距離、許されなかった戯れ。なのに、今はこんなに甘い。
小狼のキスにとろとろに溶かされながら、さくらは一緒にいられる幸せを改めて感じるのだった。






おまけ

「寝首をかくとか、小狼くんまだ日本に来たばかりだったのに、よくそんな日本語知ってたねぇ」
「・・・俺は昔から勤勉なんだ」

 

 

2018.12.14 ブログにて掲載

 

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届けてメリークリスマス









ぷるるるる
ぷるるるる
ぷるる……
―――ぴっ。


『―――はいっ!さくらです!!』
耳に聞こえてきた声に、小狼の表情は一瞬で綻ぶ。は、と。音にならずに吐息が落ちる。笑い声は、白くなって空気中に消えた。
今日の香港は、一段と寒い。
小狼は、首に巻いた緑色のマフラーで暖を取りながら、電話の向こうにいるさくらへと話しかけた。
「突然に電話してすまない。今、大丈夫だったか?」
『うん!お電話、嬉しいよ!えっと……ちょ、ちょっと待ってね。あっ、小狼くんご用件話して?』
バタバタと慌ただしい雰囲気が伝わってくる。さくらの呼吸も乱れていて、本当に今電話していいのかと、小狼は少し不安になった。
腕時計を見ると、時刻は夜の八時。時差があるから、今さくらがいる日本は九時頃だ。
「急ぎの用件じゃないから、後でも大丈夫だ。明日にでもかけなおすか?」
『えっ、や、ヤダ!切っちゃダメだよっ!』
勢いよくそう言われて、小狼は両目を瞬かせた。
必死な様子が目に見えるようで、思わず笑みが零れてしまう。小狼が笑っている気配が、電波に乗って伝わったのだろう。さくらもまた、「ふふっ」と、鈴が鳴るような可愛い声で笑った。
日本と香港。二人は今、離れて暮らしている。
クロウカードは、全てさくらカードへと姿を変えた。それに伴って起こった異変や問題も解決し、小狼は祖国へ帰る事となった。
小狼は、これまでに自身が抱いていた想いをさくらへと伝えて。さくらはそれを受けて、戸惑い悩んだ末に、手作りのくまのぬいぐるみと一緒に想いを返してくれた。
二人の気持ちは、同じだった。
離れるのは寂しかったけれど、また友枝町に戻る事を約束して、あの日別れた。
それからは、こうして電話や手紙でやり取りをして、互いの近況を伝えあっている。
きっちりと決めたわけではないけれど、電話は週末にするのがお決まりになっていたので、小狼からの突然の電話にさくらが慌てるのも無理はなかった。
小狼は、眼下に広がる煌びやかな夜景を目に映しながら、腕に抱いた『サクラ』の頭を撫でる。
『小狼くん、今どこにいるの?おうち?』
「いや、外だ。……サクラと、いっしょにいる」
『ほぇっ!?……あ、くまのサクラ?そっかぁ。小狼くんと一緒にいるんだ……そっかぁ……』
一回目の『そっか』は嬉しそうだったのに、二回目はだんだんと尻すぼみに消えていく。その反応に、小狼は「ん?」と首を傾げた。すると、さくらが小さく笑った。
『嬉しいんだ。離れてても、小狼くんがその子を大切にしてくれて。……でもちょっとだけ、サクラが羨ましい。私も、小狼くんの隣にいきたい』
「……っ!!」
『え、えへへ。なんちゃって!わ、私も!シャオランくんと一緒にいるよ!今、ギューってしてる!』
恥ずかしくなったのか、さくらは早口で誤魔化すようにして、そう言った。
小狼は、一瞬ムッと眉根を寄せた。それから、自己嫌悪になる。
とても言えない。―――さくらにギューッとされてるくまのシャオランを、羨ましいと思ったなんて。
途端に、顔が熱くなった。今の自分の顔をさくらに見られなくてよかったと、小狼は思う。
それと同時に、さくらは今どんな顔で笑っているんだろうと、気になった。無理していないか、寂しがっていないか。いつも、考えている。
だけどそれを言ったら、きっとさくらは『大丈夫』と言って笑うから。小狼は、ぐっと堪えて、本題を話し出した。
「電話したのは……来週、クリスマスイブの日。うちにいるか?」
『うん!その日はね、おうちでパーティーするの。知世ちゃんや雪兎さん、他にもお友達を呼ぶんだ!……小狼くんは?その日も、お仕事?』
「ああ。でも、夜には帰る。……その日の夜に、荷物が届くと思うから。受け取ってほしい」
『……!!うん。ありがとう。楽しみにしてる!……あの、あのね。私も、小狼くんのおうちに、贈ったの。……クリスマスプレゼント。あっ、気に入ってもらえるかわからないんだけど!』
心が、ほわりとあたたかくなる。吹きすさぶ寒風にも負けないくらいに。恋心が、全身を熱くする。
小狼は、目を細めて笑った。さくらが選んでくれたプレゼント、中身はなんだろう。気になるけれど、それよりも。贈ってくれた気持ちが何よりも嬉しい。
きっと今、同じ想いを抱いている。
「……ありがとう。届いたら、また電話していいか?」
『うん。待ってる。私こそ、ありがとう。……小狼くん、…………あの。えっと』
「さくら。……大好きだ」
『―――!!』
「……さくら?」
『い、今!私も言おうとしたの。先に言われちゃった。…………小狼くん。私、小狼くんの事……大好き。大好きだよ!』
「!!」
―――かああああっ
頭から火が噴きそうなくらいに、真っ赤になった。
日本と香港、離れているけれど。今だけは、隣にいるみたいに、相手の事を感じられる。気持ちが、伝わる。
お互いの分身であるくまのぬいぐるみを、ぎゅっと抱きしめた。
『小狼くん、お外寒くない?小狼くん寒いの苦手だったよね。風邪とか引かないように気をつけてね』
「ありがとう。俺が寒いの苦手だって、覚えててくれたんだな」
『うん。……こっちもね、今週になってすごく寒くなって……くちゅっ』
「さくら……!大丈夫か?」
電話越しに聞こえた、可愛いクシャミ。しかし、和んでいる場合じゃない。さくらは笑って『大丈夫』と言ったけれど、小狼は風邪を引いたんじゃないかと心配になった。
その時。後ろから、けたたましい声が聞こえた。
『あ―――!?さくらっ!なんちゅう恰好しとるんや!?服も中途半端に!髪も乾かしてないやないか!』
『け、ケロちゃん!シーッ!今、小狼くんと電話してるの!』
『小僧!?そんなん関係あるかい!風呂あがってそのままでいたら風邪ひくで?!』
二人のやり取りに、小狼は大体の状況を把握した。思わず体を乗り出し、声を上げた。
「さくら!!ケルベロスの言う通りだ!風邪引いたらどうするんだ……!!」
『ほえぇ。ご、ごめんなさい。だって、小狼くんとのお電話、中断させたくなかったんだもん……』
さくらの言葉に、寂しそうな声に、「うっ」と言葉が詰まる。小狼は熱くなる頬を抑え、心を鬼にして言った。
「俺は、さくらに風邪を引かれる方が嫌だ。さくらだって、俺が風邪ひいたら」
『やだ……!』
間髪入れずに返ってきた答えに、小狼は小さく笑った。
「うん。じゃあ、電話切るから。ちゃんと服着て、髪乾かすんだぞ」
さくらは、少ししょんぼりした声で「はい」と頷いた。
その声に、小狼の胸も痛んだ。通話を切る瞬間は、いつも辛くなる。だからこそ、小狼は自分がその役目を担うべきだと思っていた。
「また、電話する。さくら」
『うん。待ってるね、小狼くん』
-――どうか。
さくらが、泣いていませんように。笑っていますように。
願いを込めて、通信を切った。
無機質な電子音が聞こえて、耳から電話を離す。小狼は深く息を吐いて、目を閉じた。
遠くなった、彼女との距離。だけど大丈夫。また繋がる。いつだって、気持ちは繋がっているのだから。
(プレゼント、喜んでくれるといいな)
小狼は名前を呼ばれ、振り返る。サクラを胸に抱いて、歩き出した。
(それにしても……。さくら、一体どんな格好してたんだ……?風呂あがって服着ないって、それって……。!!だ、だめだ。俺は何を考えてるんだ……!!)
ぽぽぽ、と赤くなる顔を隠すように、俯いた。
おかげで、いつの間にか寒さも忘れた。香港の夜の街を邁進し、小狼は己の日常へと戻っていく。


次に電話をかける時は、『メリークリスマス』と言ってみよう。さくらの喜ぶ顔を想像して、小狼はこっそりと笑った。

 

 

2018.12.19 ブログにて掲載

 

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アツアツ!パニック!

 

 

※注意!アダルティな表現が含まれます。








赤く上気した頬。大きな瞳からは、透明な涙が今にも零れそうになっている。切なそうに眉を下げて、吐息を零す。「しゃおらんくん」と呼ぶ、少し舌っ足らずなさくらの声が、もう駄目だった。
抵抗という抵抗はなかったけれど、さくらは小狼の態度が急変したことに驚いていて、不安そうな声で名前を呼んだ。
抑えが効かない。ベンチへと横たわり、こちらを見上げるさくらの瞳から目が離せない。手首を乱暴に掴んで、身動きを封じる。
さくらの唇から甘い匂いがする。ソフトクリームのバニラと、苺と、チョコレート。
頭の中が、ヨコシマな考えで埋まる。

(なんで・・・なんでだ。今日のさくらは、なんでこんなに可愛いんだ・・・!?)









話は、数時間前に遡る。
晴れた休日。さくらと小狼は、二人でお出かけをした。
向かった先は、新しく出来たアミューズメントパーク。水族館や遊園地、ショッピングモールなどが併設されている、巨大な娯楽施設だった。
予想通り物凄い人混みだったので、はぐれないようにと手を繋いだ。
その時、気付くべきだったのかもしれない。なぜ気付かなかったのかと、小狼は今になって悔やむ。
さくらは朝から上機嫌だった。それも当然だ。ひと月も前から楽しみにして、雑誌やインターネットで情報を集めて、その度に嬉しそうに笑って小狼にも見せていた。
当日はこれに乗ろうね、とか。お昼ご飯は何を食べようか、とか。浮かれるさくらの気持ちにつられるように、小狼もまた楽しみな気持ちを募らせていた。
待ち合わせ場所に現れたさくらの周りには、花が飛んでいた。跳ねるように駆ける足も、地面からふわふわ浮いていた。
―――いや。実際には花も飛んでいないし宙にも浮いていなかったのだけど。そう見える程に、さくらは浮足立っていた。
笑顔が凶悪的に可愛い。見た事のないワンピース、この日の為に新調したのだろうか。ふわふわファーの帽子とか、白いうさぎのショルダーバッグとか。もう反則過ぎる。
可愛い。とにかく、さくらは可愛かった。
(なんだろう。クラクラ、する)
小狼は、口元を手で覆った。顔が熱い。心臓の音が、いつもよりもうるさい。繋いだ手から伝わるさくらのやわらかさが、気になって仕方なかった。
「今日、お天気でよかった。楽しみだね、小狼くん!」
「ああ」
眩しいさくらの笑顔に、小狼は眩暈を覚える。繋いだ手を強く引き寄せて、抱きしめたくなる衝動を抑えた。
まだ今日は始まったばかりだというのに。太陽は、高い位置で燦々と輝いているというのに。こんなに浅ましい、邪な劣情を抱くなんてどうかしている。
ひらひらと揺れるスカートの裾。見え隠れする白い太腿が、全力で誘惑してくるようで。小狼はこっそりと溜息を押し殺して、たくさんの人で賑わうテーマパークへと足を踏み入れた。








それからも、我慢の連続だった。
今日に限って、さくらはいつもより踵の高い靴を履いていて、何度もよろけた。その度に距離が近づいて、腕にさくらのやわらかな感触が伝わったりして、色々な意味で危うかった。
しかし、小狼にとってはそれ以上に気がかりな事が増えた。
パーク内に入ると、たくさんの人で溢れていた。すれ違う人が自分達を見つめる視線や、見知らぬ男がさくらの笑顔や体に向ける下衆な視線も、何度も感じた。
今日の為にめいっぱいにおしゃれをしてきたさくらは、誰の目から見てもお世辞抜きに可愛かった。だから、視線を集めてしまうのも無理がない。頭ではそう分かっていても、心中で苛々は増した。
「小狼くん。ソフトクリーム、食べよ?」
無邪気に言われて、小狼は笑顔で頷いた。
ソフトクリームのワゴンに並んでいる間も、後ろにいる男がさくらの事をジッと見ている事に気付いていた。
小狼はさくらの腰に手を回して、体を密着させる。そうして、後ろにいる男を睨んだ。男は一瞬怯んだあと目を逸らし、隣にいた彼女らしき女性に叩かれていた。
「小狼くん?どうしたの?」
「なんでもない。ソフトクリーム、どっちにするか決めたか?」
「うん!小狼くんは?」
「さくらが迷って、やめたほうにする。それなら両方食べられるだろ?」
そう言うと、さくらはパアッと表情を綻ばせた。さくらが笑顔になるごとに、周囲からの注目度も上がる。
それでも小狼は、気付かれないように努めた。隣で可愛らしく笑って、今日の日を楽しんでいるさくらを、不安にさせたくない。じりじりと焼けるような胸の痛みを無視して、小狼はひたすらに笑顔を浮かべた。
チョコレートとバニラのミックスソフトと、苺とバニラのミックスソフト。ふたつのソフトクリームを手に持って、食べられる場所を探した。歩きながらでも構わなかったのだが、人が多くて落ち着かない。それに、少しでも人気の少ないところに行きたかった。
小狼が見つけたのは、『近日オープン』という貼り紙がある店舗だった。控えめにロープが張ってあるだけで、忍び込むのは容易い。
小狼は迷った末に、さくらの手を引いてその場所へ入り込んだ。
「ほえぇ・・・。いいのかなぁ」
「見つかったら謝ろう。・・・はぁ。やっと、落ち着けた」
その店舗は中に入り組んでいて、通りからは死角になっている。幸いにも店舗スタッフや関係者の姿もなく、貸し切り状態だった。すぐ傍にある通りには相変わらず大勢の人が行き交っていて、賑やかな声が絶え間なく聞こえてくる。
店舗内は施錠されていたが、テラス席にあるベンチに座る事が出来た。疲労困憊になっている小狼を、さくらは不安そうな顔で見つめた。
「混んでたから、疲れちゃった?ごめんね、私が来たいって言ったから」
「ち、違う。疲れたんじゃない。ただ・・・、人が多いから。二人きりで、ゆっくりしたいと思っただけだ」
ここなら、不躾な視線にさくらを晒す事もない。不特定多数の見知らぬ男達に対する苛々も、いくらか落ち着いた。
しかし。代わりに別の感情が高まっている事に、小狼は気づいた。
「美味しい~!苺、すごく甘くて美味しい!」
「そうか。よかった。チョコレートも食べるか?」
「ありがとう、小狼くん!」
さくらは笑顔で言うと、小狼の差し出したチョコレートのミックスソフトを、ぺろりと舌で掬った。覗いた赤い舌に、小狼の動悸が太鼓のように激しく鳴り出した。
(・・・やばい。二人きりになったら、また)
邪な感情が、大きくなる。先程大衆の目に晒されたからか、独占欲が強くなっている気がする。さくらをひとりじめしているという状況を自覚して、堪らない気持ちになった。
「あっ、小狼くん!大変・・・!」
さくらの声に、ハッとする。持っていたソフトクリームが溶けだして、コーンの上を伝って下に落ちた。慌てて舌で掬う。
見ると、さくらはもう食べ終わっていたようだ。一体、どれくらいの時間考え込んでいたのだろう。
溶けたバニラが小狼の指をとろりと伝ったその時、さくらは思ってもいなかった行動に出た。
「・・・っ!?」
「んー・・・」
さくらの舌が、小狼の指に付いたバニラを舐めた。どんどんと流れてくる甘いバニラを、ぺろぺろと舐める。その光景と感触に、小狼の頭の中は真っ白になった。
「小狼くん、早く食べないと・・・、んっ!?」
小狼の唇はソフトクリームではなく、さくらの唇を塞いだ。甘い匂いが、思考を麻痺させる。戸惑うさくらの舌を捕まえて、吸ったり絡めたりして、夢中でキスをした。
さくらの目がとろんと蕩けるのを間近で見て、体の芯が疼いた。
「だ、め・・・。ここ外、だよ?それに、ソフトクリーム・・・溶けちゃう・・・」
「・・・ああ。一緒に食べよう」
熱に浮かされたように見つめあって、溶けかけのソフトクリームを一緒に舐めた。二人の舌がソフトクリームを通して絡み合い、また唇が重なる。
しなしなになったコーンが地面に落ちると、小狼は勢いよくさくらをベンチに押し倒した。
「さくら・・・」
「小狼くん・・・?どうしたの?今日、変だよ・・・?」
「そう、だよな。俺も、そう思う。でも・・・さくらも変だ。いつも可愛い。けど、今日はそれ以上に可愛くて・・・。会った時からずっと、キスしたくて仕方なかった」
「ん・・・」
小狼は体を倒し、深く口づけた。さくらは抵抗もなくそれを受け入れ、自らも舌を絡める。
甘い匂い、熱い体温、服越しに伝わるやわらかさに、小狼の理性はがらがらと崩れた。
今に始まった事じゃない。今日は最初からだ。会った時から、さくらの可愛さに理性を揺らされ、崩壊寸前だった。
手を繋ぐだけじゃ足りない。隣を歩くだけじゃ、遠い。他の誰の目にも入れたくない。ひとりじめしたい。もっと深くまで、繋がりたい。
心に生まれた情欲は、口づけを交わす程に強くなった。
(今日の俺は、おかしい。さくらも、おかしい。こんなに可愛いなんて・・・、こんなに、理性が保たないなんて。・・・おかしい。・・・・・・おかしい?)
小狼は半信半疑に、さくらの額に掌を当てた。
じゅ、と焼けるような熱さを感じて、小狼は目を見開いた。
「・・・さくら、熱がある!」
「ほえ?」
「かなり熱いぞ。今日、本当はずっと辛かったんじゃないか・・・!?なんで言わないんだ!」
とろんと蕩けるような瞳も、上気した頬も。ふわりと零れる笑顔も。いつも以上に可愛く見える危うさも、全部、風邪を引いているせいだったのだ。
「ごめん。俺が、すぐに気づけばよかった」
朝から感じていた違和感の正体がわかった。自己嫌悪に襲われそうになるが、それどころじゃない。早くさくらを休ませなければと、小狼は体を起こした。
しかし。さくらは離れようとした小狼の袖を握ると、自分からぎゅうっと抱き着いた。
「・・・っ!さ、さくら」
「やだ。帰らないもん。・・・熱、少しだから。大丈夫だから。まだ、帰りたくないよぅ」
弱々しく紡がれた声には、涙が混ざっていた。小狼はうっかり絆されそうになるも、ふるふると首を横に振って煩悩を追い出す。
抱きしめ返したらダメだ。厳しく言って、家に帰さないと。
だけど本当は、離れたくない。そう思うのは、小狼も同じだった。
いやいやとごねるさくらを、宥めるようにキスをする。目元やこめかみ、耳や頬、そして唇に。
さくらは小さく震えながら、小狼からのキスを受け止める。だんだんと口づけは甘くなって。さくらはくすぐったそうに笑って、言った。
「小狼くんの唇も、あついよ?」
「そうか・・・?」
「じわっ、て熱くて、とけちゃいそう。・・・・・・ほぇ?小狼くんも、あつい・・・?」
さくらはハッとして目を開けると、両手で小狼の頬をサンドした。そうして、額と額を合わせる。
体温の差がわからない。わからないのは、二人とも同じくらいに熱いから―――。
「小狼くんも、熱あるんじゃ・・・?そうだよ。顔、赤いもん!」
「!?顔が赤いのはさくらの方だろ・・・!・・・え?嘘だろ。俺も・・・?」
「真っ赤だよ!眩暈とか、頭痛いとかない?」
「そんな事は全然・・・。・・・・・いや、まさか」
―――くらくらと眩暈がしていたのは、もしかして。さくらが可愛くて仕方なくて理性が保てなかったのは、もしかして?
思い当たる節が多すぎて、小狼は呆然とした。目の前にいるさくらは、先程までの駄々っ子が嘘のように、小狼を心配している。
小狼は、ふ、と息を吐いたあと、破顔した。
「何やってるんだろうな、俺達。楽しみにしすぎて熱出すなんて」
それを聞いて、さくらもふにゃりと笑った。
「本当だね。おそろいだぁ」
差し出した手を素直にとって、さくらはベンチから立ち上がった。アイスのせいで手がべたべたなのも、なんだか笑えてきた。
「元気になったら、また来ような」
「うん!・・・えっと。小狼くんのお部屋に、一緒に帰ってもいい?」
「・・・え?」
「だって。今日は夜まで一緒にいよって約束、したでしょ?二人とも風邪ひいちゃったから・・・二人で、一緒に治せばいいんじゃないかなって」
「・・・う、うちにはベッドがひとつしかない、ぞ?」
「うん。知ってるよ」
「・・・・・」
「だめ?」
風邪を引いているのだから。同じベッドで一緒に寝ても、なんらおかしくはない。おかしくはない、のだけれど。
さくらはぴったりと体を寄せて、まだ離れたくないと言外に主張する。そんな顔でそんな風に言われて、断れる自信なんてない。
眩暈がして、体が熱くて。いつもより可愛くて、愛おしくて。
それはきっと、風邪を引いたからだけじゃない。


(これは、新たな我慢大会か・・・?)


このあとの展開を想像したら、またクラクラしてきた。
小狼は溜息をひとつ吐くと、さくらの手を引いてマンションへと帰るのだった。



 

 

~2019.1.14 web拍手掲載



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ハートのビーム

 

 

 

「ご主人様、おかえりなさいませ!おひとりさまですか~?」
「えっ、いや・・・」
「おひとりさまも大歓迎ですよっ!どうぞ!」
半ば強引に誘われ店内に足を踏み入れると、メイド服に身を包んだたくさんの少女達が、一斉に頭を下げた。
「「「おかえりなさいませ、ご主人様!」」」
―――1月某日。
李小狼は、はじめて「メイド喫茶」なる場所に赴いた。
その目的とは。
「!?!?!??しゃお・・・っ!?」
「―――!!」
フリフリレースを重ね合わせたエプロン、首元を結んだリボン。短いスカートとガーターベルトで繋いだニーハイソックス、覗く白い太もも。頭上にあるヘッドドレスも、悔しいくらいに似合っている。
―――ぴきっ
小狼のこめかみに青筋が浮かんだ。
メイド達の中でも一際可愛い恋人を睨み付けたまま、案内された席に腰を下ろす。小狼は眉根を寄せた険しい表情で、ピンク色のメニューを見つめるのだった。








「あのお客さん格好いいね!」
「私、オーダー聞きにいっていいかなぁ?」
「ずるい!私も行きたい!」
バックヤードでは、メイドの少女達が色めきだっていた。一人きりで来店した初めてのお客様。不機嫌な横顔も、彼女達からみるとクールで格好よく見えるらしい。
仕切りのカーテンの隙間から覗いていたさくらは、ハッとして言った。
「だっ、だめです!小狼くんは・・・、あのお客さんは、私が接客します!!」
「え?さくらちゃん?珍しいね」
「あっ、もしかして前に言ってた彼氏だったりして?ここでバイトしてるの内緒にしてるって言ってた・・・」
バイト仲間の中でも同じ年でよく話していた少女が、そう言った。注目される中、さくらは顔を真っ赤に染めて、こくりと頷く。
メイド達は小狼とさくらの顔を交互に見たあと、妙に納得した顔で、ほうと息をついた。
「彼氏さん、怒ってるんじゃない?ご機嫌とってこなきゃ」
「いってらっしゃい!」
優しく背中を押され、さくらはお礼を言ってホールに出た。近寄りがたいオーラを出している小狼を見て、ごくりと息を飲む。
(ほえぇぇ、小狼くん怒ってるー!いつかばれちゃうかもって思ってたけど、まさかお店に来るなんて)
さくらは半泣きになりながら、勇気を出して小狼のいるテーブルへ向かった。




さくらがこのメイド喫茶でアルバイトをし始めたきっかけは、友達の助っ人だった。
繁忙期に人員不足で困っていると相談されて、さくらは手伝うと申し出た。まさかメイドになるとは思っていなかったが、働き始めると瞬く間にさくらは人気者になった。最初は一週間の予定だったが店長に引き留められてしまい、週末だけという約束で、ひと月働くことになった。
小狼には詳しくは話せず、とあるカフェでウェイトレスをしているとしか言えなかった。さくらの下手な嘘に、小狼が気づかないわけがない。それでも、探るような視線から逃れて誤魔化し続けた。アルバイトはあと少しで終わるから、なんとかなるだろうと高を括っていた。
しかし、それは甘い考えだった。
まさかバイト最終日にこうして店まで突き止められ、客としてやってくるなんて。
さくらは、覚悟を決めて話しかけた。
「ご、ご主人様。ご注文はお決まりですか?」
精一杯の笑顔で問いかけると、小狼が眉間の皺を深くした。明らかに怒っている。ピリピリとした空気に逃げ出しそうになるけれど、ぐっと耐えた。
「私のおすすめは・・・っ、この萌え萌えオムライス、です!あと、このラブラブチョコケーキもハート型で可愛いんだよ、じゃなくて・・・、か、可愛い、です」
真っ赤な顔でしどろもどろに話すさくらは、周囲の客の目を釘付けにするほどの愛らしさがあった。
もちろん、小狼も例外ではない。頬を仄かに染めて、しばし言葉を無くす。
ハッと我に返ると、緩みそうになった口許をキュッと引き締めて、眼光を鋭くした。
「その、萌え萌えオムライスをひとつ」
「・・・!はい!かしこまりました!」
仏頂面だとしても、ちゃんと目を見て話してくれた。それだけでも嬉しくて、さくらの表情は明るくなる。
パタパタと駆けていく後ろ姿を見送って、小狼はため息をついた。
「甘すぎるな、俺・・・」








店内は満席で賑わっている。可愛い音楽とカラフルな装飾が落ち着かない。隣の席ではメイドと客が楽しそうに会話している。妙な連帯感と異様な盛り上がりに、小狼は戸惑っていた。動揺を顔に出さないように努めながら、ひたすらに耐えた。
10分程経つと、美味しそうな匂いと共に料理が運ばれてくる。
「おまたせしました!萌え萌えオムライスです!」
さくらが来たことで、小狼は内心でホッとした。
しかし同時に、ホール内がざわめく。他の客もみんなさくらを見ている事がわかって、小狼は再び不機嫌になった。
テーブルに料理を置いた。さくらは緊張した面持ちで、小狼へと話しかける。
「あ、あの。しゃお・・・ご、ご主人様」
「・・・なんですか」
「ケチャップ、私がかけてもいいですか?」
そう言いながら、手には大きめサイズのケチャップが既にスタンバイされていた。
真剣なさくらの顔を見て、小狼にも緊張が移る。
「じゃあ、お願いします」
「はい!」
気合いをいれて返事をすると、キャップを開けた。身を乗り出したさくらと、小狼の距離が近くなる。ドキリと心臓が跳ねた。
黄色いオムライスに、ケチャップで大きなハートが描かれた。
少々かけすぎじゃないかと小狼は思ったが、さくらがあまりに真剣なので途中で止められなかった。
「ふう、出来たぁ!」
「・・・かけすぎじゃないか?」
控えめに突っ込むと、さくらはガンッと衝撃を受けたあと、うるうると目を潤ませて言った。
「ご主人様への、好きの気持ちをハートで描きたかったんです!これでも足りないです!!」
「!?」
公衆の面前で何を言うのか。小狼は顔を真っ赤にして絶句した。
さくらは、周囲の注目を集めている事に気付いて、狼狽える。いつもどおりにしなければと、笑顔を作った。
(うぅ・・・恥ずかしいけど。恥ずかしいけど・・・!お仕事だから、頑張らなきゃ!)
「ご主人様!最後の仕上げに・・・萌え萌えビームで美味しくします!」
「・・・は?」
呆然と問いかける小狼の目を真っ直ぐに見つめ返し、さくらは両手の親指と人差し指でハートを作り、胸の辺りでくるくると回した。
「萌え萌えきゅんきゅん・・・!もっともっと、美味しくなーれ!」
―――ずきゅんっ
その瞬間。小狼の心臓に、さくらの放ったハートのビームが見事に刺さった。
さすがに恥ずかしくなって、さくらはハートを小狼に突き出したまま、目を閉じて震えていた。気まずい時間が流れて、羞恥は限界点を突破する。
その時。
「そ、そ、そっちの可愛いメイドさん、こっちにも萌え萌えオムライスひとつ!」
「俺も、俺も!君に萌え萌えきゅんきゅんされたいです!」
一人が声を上げると、我も我もと周囲の客が一斉に立ち上がった。
「ほえぇぇぇ!?」
対応に追われ半ばパニックになるさくらだったが、くん、と袖を引っ張られて後ろを振り向いた。
先程の不機嫌な顔とは違う。子供のように拗ねた目で、小狼はさくらを見つめていた。ほんのりと赤く染まった頬を隠すように、少し俯き気味に言った。
「・・・俺以外のところに、給仕になんて行くな」
「―――!?」
「『あれ』を、他の男にやる姿なんか見たら・・・何もしない自信がない」
独占欲と嫉妬をこれ以上ないくらいに直球で投げられ、さくらの顔は耳まで真っ赤に染まる。泣きそうに眉を下げて、でも口元は嬉しさで緩んでしまう。
さくらは持っていた銀のトレーで顔を隠し、逃げるようにバックヤードへと走っていった。
「ご主人様は、私じゃ嫌なの?萌え萌えオムライス、想いを込めて美味しくするよ?」
「さくらちゃんは今日はあのご主人様専用のメイドさんなんだよ?我儘言っちゃダメっ。そのかわり、私とゲームしよ?」
さくらに注文しようとしていた男達は、別のメイドの笑顔と言葉でころっと笑顔になった。
異様な空気感とこの場が作り出す非日常は、到底自分とは相容れない世界だと感じた。けれど、溢れんばかりの笑顔を見ていたら、そう悪いものでもないと思える。
ハートを乗せたオムライスを頬張りながら、小狼はそんな事を思うのだった。


その日小狼は閉店まで居座り、数々の萌え萌えメニューを注文した。さくらは結果として小狼専用のメイドとなり、何度も羞恥に耐えながらパフォーマンスを繰り返した。
そうして、惜しまれつつもメイドの仕事を終えたさくらは、待っていてくれた小狼と一緒に帰路についた。
お互いに疲労困憊で、小言も言い訳もする元気がなかった。無言のまま、ゆっくりとした歩調で進む。
(メイドのお仕事ってすごく大変なんだなあ・・・。でも、小狼くんのメイドさんになれたのは、ちょっと楽しかったな)
充足感から、さくらは小さく息をはいた。小狼は何も言わずに、さくらの頭をぽんぽんと撫でた。






―――後日。
「小狼くん、出来たよー!じゃじゃーん!さくら特製オムライス!」
「おいしそうだ」
「ケチャップ、はい!・・・・・?小狼くん?」
じっ、とこちらを見つめるだけで、小狼は動かない。視線が自分の手元にあるケチャップに注がれている事に気付いて、さくらは「あっ」と声を上げた。
かぁぁ、と顔を赤くしたのち、ケチャップで小狼のオムライスにハートを描く。
それでも、小狼は動かない。さくらは、嫌な予感を感じた。
「・・・オプション付きでお願いします」
「ほえぇぇぇ!?」
「さくらが美味しくしてくれるんだろ?」
「しゃ、小狼くんは、ああいうの嫌いなんじゃないの・・・?」
「お前が他の奴にやるのは絶対に嫌だ。・・・でも。たまになら、俺限定でやってくれても」
「・・・・・やってほしいの?」
「・・・・・・・・・・ほしい」


そしてまた、さくらの放ったハートのビームが、小狼の心にビビビと突き刺さる。

『萌え萌えきゅんきゅんっ。もっともっと、好きになーれ♡♡』





2019.1.21 ブログにて掲載
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愛妻の日♡2019

 

 

 

さくらは自宅の扉前で、ごくりと息を飲んだ。こんなに緊張した気持ちで家に入るのは、もしかしたら初めてかもしれない。
(……か、考えても仕方ないよね。普通にしよう、普通に)
いつも通りを意識しながら、さくらは笑顔で扉を開けた。
「ただいまー!」
元気に言うと、リビングの扉が開いて、旦那様である小狼が顔を出した。
「さくら。おかえり」
「小狼くん!ただいま。お仕事してたの?」
さくらは聞きながら、自分の目元を指でさした。小狼が珍しく眼鏡をしていたからだ。
視力は悪くないけれど、パソコンを使うときに小狼は眼鏡をかける。たまにしか見られないので、さくらは未だにドキドキしてしまう。
「ああ。眼鏡、かけたままだった。仕事は終わって、夕飯作ってた」
「そんな、いいのに。せっかくのお休みなんだから、ゆっくりしてていいんだよ?」
言いながらコートを脱ぐと、小狼はそれを当たり前のように受け取ってハンガーにかける。さくらが帰ってくるタイミングがわかっていたように、あたたかい紅茶を出してくれる。
そして、甘い笑顔で言った。
「さくらが帰ってくるの待ってるのも、有意義な休日だった」
「……そうなの?」
「ん」
ちゅ、と。不意打ちに唇を塞がれて、さくらは一拍置いて真っ赤になった。
小狼は、ふっと破顔すると、さくらの頭を撫でた。「ゆっくりしてて」と言い置くと、自分はキッチンに入って夕飯作りの続きを始める。
いつもはスーツで外に働きに出る小狼だが、今日はエプロンを付けてキッチンでご飯を作っている。久しぶりに休みが取れても、どこかに遊びにいく事もなく、家で自分が帰ってくるのを待っていてくれる。
「いただきます!」
とろとろ卵のオムライスをスプーンに掬った。口にいれて、さくらは涙目で言う。
「うぅ、おいひい……」
「台詞と顔が合ってないぞ」
「だってだって!私よりも美味しいんだもん!くやしい!」
「そんな事ないだろ。俺は、さくらの作るごはんの方が好きだ」
「……ほんと?えへへ」
「あ、そうだ。今日はデザートもあるからな」
「やったー!」
冷蔵庫から出してきた手作りのゼリーを幸せそうに頬張るさくらに、小狼も満足そうに笑った。
「今日は寒いからゆっくりお風呂につかろうかな」
「そう思って、新しい入浴剤買っておいた」
「ありがと!……ほぇ?小狼くん、先に入る?」
「いや、さくらと一緒に入る」
「!?!??」
「洗ってやるぞ」
「だ、だいじょぶ!!」
「遠慮するな」
小狼は有無を言わせない笑顔でそう言うと、器用にさくらの服を脱がせて浴室へと誘う。さくらは真っ赤になりながらも、拒絶という拒絶もなく、小狼の手に引かれるまま足を進めた。
すみずみまで丁寧に洗われて、小狼の腕に抱かれてあたたかな湯に浸かったさくらは、出てくる時にはすっかり逆上せてしまっていた。
くったり力なく身を任せるさくらを、小狼は甲斐甲斐しく世話をする。その手はどこまでも優しく、表情はやわらかく、鼻唄が飛び出しそうなくらいに上機嫌だった。
さくらはぼんやりとしながら、自分に触れる小狼を見つめる。
「……ん?どうした、さくら」
「小狼くん。今日、なんの日か知ってる……?」
「今日?1月31日……何かあったか?」
小狼は真剣な顔で考えていたが、特に思い付かなかったのか、困った顔で「わからない、降参だ」と言った。
そして、さくらの熱い頬をそっと撫でて、言葉を続けた。
「しいて言うなら、俺の仕事が休みで、さくらをめいっぱい甘やかすことが出来る日、かな」
「…………ふふっ」
「正解は?」
「んーーー。……ナイショ」
悪戯っ子のように笑うさくらの、その顔に見とれて、小狼は思わず固まった。そのあとに、赤い顔で眉を寄せると、体を傾けた。
重なる影と塞がれた熱い唇に、さくらは目を閉じる。深くなる口づけに、息が上がる頃。小狼は、さくらの耳元で聞いた。
「ここがいい?それとも、寝室がいい?」
「……寝室のベッドがいい」
「わかった。掴まって」
額にかかった髪をさらりと掬って、キスを落とす。
小狼はさくらを軽々と抱き上げると、寝室へと向かった。
閉じられた扉の向こうから、甘い声が零れ落ちる。
月は煌々と輝き、カーテンの隙間から淡く光を注ぐのだった。








翌日。
「さくらちゃん!どうだった?」
「……んーと。やっぱり、知らなかったみたい」
「えー!旦那さん、何も特別な事してくれなかった?」
「いつもと同じだったよ」
さくらは、照れ笑いを浮かべながら、同じ大学の友人達に昨日の事を話した。
そもそもの始まりは、さくらが結婚している事を知っている一部の友人達に言われた事がきっかけだった。
『1月31日は、愛妻の日なんだよ。さくらちゃん、いつもとは違う特別な愛をもらえちゃうかも』
最初はからかい半分の話だったが、新婚の夫婦ならもしかしたらあり得るかもと、友人達もノロケ話を聞く気満々だった。
ーーーしかし。
「それで、ごはんの後はお風呂で、入浴剤を買っておいてくれて……」
「ちょ、ちょっと待ってさくらちゃん!」
「それ、いつもの事?いつもと同じって、いつもそんなにしてくれるの??」
「え?う、うん。昨日は小狼くん、お休みの日だったから」
友人達は揃って目を瞬かせたあと、疲れたように脱力した。
戸惑うさくらの隣で、知世が鈴を転がすような声で、笑う。
「いつもどおりの、さくらちゃんへの愛溢れる李くんですわね」
「と、知世ちゃん!」
「きっと、365日全部が愛妻の日なんですわ」
「はうぅ、恥ずかしいよぉ……」


旦那様に愛されすぎてしまう可愛い新妻は。
その日、友人達に囲まれからかわれ、湯気が出そうな程に真っ赤になった顔を、両手で隠すのだった。

 


2019.1.31 ブログにて掲載**************************************************************************************************************

 

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