朝帰り










その日、木之本家はさくら一人で。
夜に帰ってくる予定だった桃矢もトラブルで遅くなる事を知った。
(もし俺が来てるって知ったら、何がなんでも帰ってきただろうな)
そんな事を考えて、小狼は苦笑する。
ベッドの上で、お互いに生まれた姿のまま抱き合っていた。
さくらの守護獣であるケルベロスは、「野暮な真似はせえへん」と言い残し、ふよふよと夜空を飛んでいった。すこしあとに大道寺から連絡が入り、今夜は泊まらせるとの事だった。
夕飯を二人で作って食べて、一緒に後片付けをして。寛いでいるうちに、どちらからともなく体を寄せてーーーそういう雰囲気になるのに、時間はかからなかった。
熱をわけあって、夢中で貪り愛した。その時の余韻を思い出してか、さくらは頬を染める。
「小狼くん、そろそろ帰る?」
「いや。兄貴はまだ帰ってこないだろ。ケルベロスも泊まるって言うし」
「でも、お兄ちゃんに見つかったら、多分すっごく怒られるよ?」
「……それくらい平気だ」
考えると確かに憂鬱ではあるが、さくらを一人残していく方が嫌だ。
「ね、わがまま言っていい?」
「うん。言って」
即答すると、さくらは目を瞬かせた後、ふふっと笑った。
「まだなんにも言ってないのに。すごく無茶な事だったらどうするの?」
「……?なんでも聞くつもりだけど」
「小狼くん、私を甘やかしすぎだよ?」
さくらの口から言われて、小狼はぐっと言葉をつまらせる。
従姉である苺鈴からもよく同じことを言われる。
さくらは、砂糖菓子のようにあまい笑顔で、あまい声で、「わがまま」を言った。

「朝まで……一緒にいてほしいな」

ぎっ、とベッドがきしむ。
小狼は返事の代わりに、さくらに覆い被さった。






窓の外で、番いの小鳥が仲睦まじく囀り合う。その声で目が覚めた。
「ん………」
目覚めてすぐに、さくらの寝顔があった。自分の腕の中で、気持ち良さそうに眠る。
この腕の中にいれば、こわいことなんか何もない。そう言ってくれているような気がして、小狼は嬉しくなった。
(俺も、よく眠れた気がする。さくらのおかげかな)
ちゅ、とおでこにキスをすると、さくらの瞼がゆっくり開いた。
その目が小狼をみて、ふわりとほころぶ。
世界中で一番可愛くて、一番眩しい笑顔が、朝日の中で咲いた。
「小狼くん、おはよう」






「お兄ちゃん気づいてないみたい。よかったぁ」
「……いや、どうかな。気づいた上でわざと泳がされてる気も……」
「え?」
「いや、なんでもない。じゃあ、帰るな」
服を着て、靴も履いた。
彼女の家に無断で泊まって朝帰り、なんて。堂々と出来るものではない。だから靴はあらかじめ隠しておいたのだ。
まだ夜があけたばかりの早朝、小狼はさくらの部屋の窓をあけた。
帰る、と口にした途端、さくらの表情はシュンとわかりやすく沈んだ。
小狼は苦笑して、窓枠に腰掛け両手を広げた。さくらは目を涙で潤ませると、勢いよく飛び込んだ。
「あと数時間したら、学校で会えるから」
「……でも、クラス違う」
「会いに行く」
「キスしたり、ぎゅってしたり出来ないもん……」
「確かに。でも、こっそりなら出来る」
「……少しでも、離れたくない」
小狼はさくらの泣き顔を覗きこんで、色づいた頬を優しく撫でた。
困った顔で笑う小狼をみて、さくらはますます落ち込んだ。
「ごめんなさい。わがままばっかり」
「そんなことない。今のさくらは、辛いのとか言いたい事とか隠さなくなった。それが俺は嬉しいんだ。もっとわがまま言ってほしいし、もっと甘えて」
そう言うと、さくらの頬が赤くなった。嬉しいのと寂しいのが混ざったような複雑な顔で、頬を撫でる小狼の手に自分の手を重ねる。
「それに、さくらを甘やかすのが俺の役目だと思ってるし」
「えっ……そ、そんなのダメっ。私も、小狼くんのわがまま聞きたい!甘やかしたい!」
必死になるさくらの唇に、ちゅっ、とキスをした。
触れるだけで離れたキス。見つめあって、また口づけた。互いに追いかけるように、深く何度もキスをした。
長いキスが終わって、とろんと蕩けたさくらの瞳。なんて綺麗なんだろうと、小狼はぼんやりと思った。
「じゃあ、甘える。……笑って、さくら」
ーーー俺だけに、笑って。
「……うん。小狼くん、またね。また学校でね」
涙目で微笑んださくらに、もう一度キスをした。
小狼は二階から地面へと難なく飛び降りて、見送るさくらへと手を降る。


はじめての朝帰り。
胸がこそばゆくて、幸せで。いつもの道が、キラキラと輝いて見える。
そして、またすぐに会いたくなる。
(……学校で会ったら、うっかり抱き締めそうだ。自制心、自制心……)
そんな事を考えてついニヤけてしまう小狼を、新聞配達の自転車が追い越していくのだった。


 

 

2018.6.8 Twitterであげたものをブログにて再掲載

 

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それはなんていう病ですか?




パラレル設定のお話です。









とんとん、とんとん。
ちょうど夕飯時、診療所の扉が叩かれた。もう診療時間は終わって、医者もナースも誰もいない。だけど、扉はずっと叩かれていた。
「ひっく……、っく」
「おい、どうした?」
泣きながら扉を叩く少女に声をかけた。振り向いた瞳から零れる大粒の涙に、一瞬どきりと心臓が反応した。
「にゃーが、にゃー、が……」
要領を得ない言葉だったが、その腕に抱かれている小さな命を見て、大体の見当がついた。
「ばか。ここは獣医じゃないから、猫は診てくれないんだぞ」
溜め息混じりにいうと、少女は「ひくっ」と大きくしゃくりあげて、ますます涙を溢れさせた。腕の中で震える猫を抱き締める。
「おい、何やってんだ。早く行くぞ」
診療所の脇に置いておいた自転車に乗って、後ろの椅子を叩いた。早く乗れ、と言うと、少女は戸惑いを見せる。またも溜め息をつくと、一度自転車を止めて、猫ごと少女の体を抱き上げた。そうして、後部座席にのせる。
「しっかりつかまってろ」
短く言って、自転車を漕いだ。一番近い獣医の診療所まで言って、今度は二人で扉を叩いた。
「ありがとう、おいしゃさんのおにいちゃん」





「まだ二年生なのに、もう進路だって!早いよね。卒業後の事なんて考えられないよ」
「……おい。ここは進路相談室じゃないんだぞ」
風邪っぽいの、と言った少女の額を、指でピンと弾いた。
渡された体温計は平熱で、喉も腫れてない。全くの健康体だ。
「学校にいる時は本当に熱っぽかったんだよ?」
「はいはい」
「もー!小狼くん、聞いてないー」
「先生って呼べ」
呆れた口調で言うと、少女はぷうと頬を膨らませた。
少女の名前は、さくら。高校二年生。
対するのは、白衣を着た青年。名前は、李小狼。
二人はご近所さんで、医者と患者という関係。
ーーー幼馴染みというには年が離れている。けれど、さくらは小狼によく懐いていて、まだ学生の頃から、何かと理由をつけては会いに来た。
そして、今。家業を手伝うようになった小狼の元へと、患者としてやってきては、こうしてお喋りをしていく。
「さくら、何か飲んでく?」
「あっ、苺鈴ちゃん!ありがとう!」
「おい、苺鈴」
「いいじゃない。今日ひまだし」
ナースの苺鈴は小狼の従姉妹で、年も同じだった。さくらの事も幼少時から知っていて、面倒を見てくれる。
小狼も口では素っ気ないけれど、なんだかんだでさくらを追い返さないし、こうして話し相手になってくれた。
時計を見て、小狼が言った。
「そろそろ帰らないと、兄貴に怒られるぞ」
「あっ、本当だ!じゃあ、また来るね。小狼くん」
「ばか。ここは病院だぞ。用がないなら来るな」
「はーい」
このやりとりも毎日の事で、笑顔で返事をするさくらに小狼は苦笑した。
立ち上がり、さくらの髪をくしゃりと混ぜる。
「小狼くん?」
目線の高さは変わらない。見上げる大きな瞳も、やわらかそうな頬も。
だけど最近になって、時折大人の女の顔を見せる。たとえば、近づいた時に香る甘さとか、ささやかだが膨らみはじめた胸元とか、しなやかに伸びた脚とか。
不思議そうに見つめる碧の瞳に、小狼はハッとした。
「気を付けて帰れよ」
「うん!」
手を振って、くるりと背を向ける。目の前で揺れる栗色の髪をつい追いかけてしまうのは、仕方ない。
はぁ、と溜息をつくと、傍らで笑い声がした。
「もう、言っちゃえばいいのに」
「…… 苺鈴」
猫のような大きな瞳に、心の中まで覗かれてる気分だ。居心地の悪さに眉をひそめると、苺鈴は笑みを深くした。
「もうわかってるのよ?あの子なんでしょ?」
「何が」
「こんなに可愛くて気立てがいい私をフッた理由。小狼が、ずーっと片想いしてる、大切な女の子」

「!!」

「……苺鈴。余計な事いうなよ」
「何を遠慮してるの?相手が学生だから?」
苺鈴の問いかけには答えず、小狼は白衣を脱いだ。
初めて会った時の、ぐしゃくじゃの泣き顔。それから、頻繁に遊びに来るようになって。最初は怖がってたのに、少しずつ近づいてきた。猫じゃないけど、なんだか小動物を手懐けたような、くすぐったい気持ちになった。
(あれから、何年経った?)
卒業して医者になって、家業を手伝って。いずれは、この診療所を継ぐ。
その時になっても、彼女は来てくれるだろうか。傍に、いてくれるだろうか。
自分の思考を嘲るように笑って、小狼は診療所の扉を施錠した。







次の日。妙に朝早く目が覚めて、一番乗りで診療所に行った。ゆっくりコーヒーでも飲もうと思ったのだ。
しかし。扉の前に座り込んでいる彼女の姿を見つけて、驚いて駆け寄る。
「さくら!?どうかしたのか!?」
膝に顔を埋めて動かないさくらの肩を、小狼は揺さぶった。具合が悪くなったのだろうか。いつからここにいたのか。
青ざめる小狼だったが、次の瞬間、赤くなる。
さくらの手が伸びて、小狼へときつく抱きついたのだ。
「ど、どうした………?」
「小狼くん。どうしよう、私……病気かもしれないよぅ」
泣きべその顔は、久しぶりに見た。ーーーと、そんな事で感動している場合じゃない。
小狼は扉を開けて、さくらを診療室へと招き入れた。




あたたかい飲み物を用意して部屋に戻ると、さくらが小狼の椅子に座っていた。その首には、見慣れた医療器具がぶら下がっていた。
「なんだ?お医者さんごっこか?」
「……私、もう子供じゃないよ?」
さくらは拗ねた顔で、首から下げた聴診器を見つめた。その横顔はどこか悲しそうで、小狼の胸が痛んだ。
正面に座って、さくらの額に手を当てる。
「熱はない……喉は?見せて」
言うとおりに口を開く。喉も腫れてない。
至近距離でそれを確認した瞬間、小狼は、さくらに真剣な瞳で見つめられている事に気づいた。
(……?こんな顔、初めて見る……)
ぼんやりとそう思った。白状すると、見とれていた。
切なそうに瞳を揺らして、唇を震わせるさくらが、今までになく綺麗だったから。
だから、すぐには気づかなかった。
「ーーーーー………」
やわらかな唇が、自分のそれに押し当てられていた。
驚きに目をみはる。
視界を埋めるさくらの顔が、閉じられた瞼が、長い睫毛が、熱い吐息が。
夢じゃないんだと、教える。
唇が離れて、さくらの顔は一気に真っ赤になった。
(……!)
逃げられる。そう本能で悟った小狼は、立ち上がろうとしたさくらの肩を掴んだ。
真っ正面から見つめると、ふにゃりと泣きそうになって、視線をさまよわせる。
小狼も、顔には出さないが物凄く動揺していた。
だけど、ここで自分が取り乱すわけにはいかない。
唇に残る余韻が心臓をうるさくさせる。さくらのピンク色の唇に、目がいってしまう。
「どうした……?」
優しい声音で聞くと、さくらの目から、ぽろと涙が零れた。
「ごめんなさい……!私、きっと病気なの。昨日、小狼くんと苺鈴ちゃんの話聞いてから、ずっと変なの。胸が痛くて、悲しくて、涙が出て。なのに、小狼くんに会いたくて……」
「さくら?待って。落ち着いて話せ。昨日の話……?」
背中に手を回して、優しく撫でてやる。あとからあとから零れる涙を指でぬぐって、優しく問いかける。
さくらは涙に濡れた目で、小狼を見つめて、言った。
「小狼くんの好きな女の子って、だれ……?ずっと片想いしてた、大切にしてたって、そう言ってた」
「!聞いてたのか?」
「うん……。忘れ物して、取りに来たときに偶然。それが凄くショックで……やだって、思っちゃったの。私以外の女の子を、小狼くんが好きになるなんて……嫌だよぉ」
さくらの、泣き声混じりの言葉を聞いて、小狼は困惑していた。
頭は悪い方じゃないし、回転も早い方だ。だけどこの時ばかりは、冷静に考えられなかった。
頭じゃなく、心が導きだした答え。
唇に残る熱が、なによりもの答えだった。
「………んっ………?!」
小狼はさくらを抱き寄せて、今しがた自分の唇を奪った可愛い唇を、今度はお返しとばかりに塞いだ。触れるだけのキスから、深く合わさる。
慣れなくて苦しそうにするさくらに、呼吸をさせる為に一度解放して。見つめあって、また重ねる。
何度も何度も、繰り返した。
「小狼く……?あ、せんせ……?」
「名前でいい」
「どうしてキス、してくれるの………?」
答えを言葉で伝えるのは、なんとも気恥ずかしい。
小狼はさくらの首にかかった聴診器を指して、唇が触れそうな距離で、言った。
「これで、俺の心臓の音、聞いて。そしたら、きっとわかる」
「………小狼くんも、さくらと同じ?」
「ああ。同じだ」
ーーーただし、病歴はお前よりもずっと長いと思うけど。

同じリズムを刻む鼓動を感じて、二人はまた、唇を重ねるのだった。






「決めた!私、ナースになる!それで、この病院に就職するの!………そしたら、小狼くんの傍にずっといられるよね?」
「さくら………」
「あら。じゃあ私の後輩になるのね!」
「うん。よろしくね、苺鈴ちゃん」


「……それよりも手っ取り早い就職先があるのに」
「ほぇ?なんて言ったの?小狼くん」

 

 

2018.6.27 Twitterであげたものをブログにて再掲載 お題「攻が医者の設定で攻めが長い期間片想いしてきたしゃおさく」

 

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silent scene


 

パラレル設定のお話です。

 

 

 


ーーー誰にも秘密の、一番の楽しみ。




「返却ありがとうございました。こちらは、新しく借りて行かれますか?」
「はい。お願いします」
耳馴染みのいいその声に、心臓の音が大きくなるのを感じた。それを顔に出さないように気を付けながら、パソコンで操作をする。預かったカードを読み込ませると、画面に『李小狼』という名前が出た。思わず、頬が緩む。
返却は3冊。新しい貸し出しの本は、5冊。相変わらず、分厚い本だ。
幼い風貌に似合わず、大人顔負けの本を読んでいる。出会った頃の彼に興味を持ったきっかけとも言える。


(こんな難しい本、読む人いるのかなぁ)
図書館の司書をしていて、そんな事を思うなんて少し不謹慎かもしれない。しかし、蔵書整理の時にいつも思っていた。
長く誰にも読まれていないような古い本や、難しい洋書。それらが置いてある本棚のあたりには、あまり人が来ない。それが、なんだか少し寂しいなと思っていた。
だけどある日から、変わった。一人の少年はその領域に入り浸り、長い時間をかけて本を選び、借りていく。
一度、本を選んでいる時に行き会った事がある。その横顔は真剣そのものだった。分厚い本を何冊も抱えて、閉館まで読みふけり、残りの本は借りていく。一週間に一度、そうやって本を読みに来るようになった。
いつからか、それを楽しみに待つようになった。


「では、返却は一週間後になります」
差し出した袋を受け取って、少年はぺこりとお辞儀をして帰っていった。
これでまた、一週間会えない。
溜息をつきそうになって、堪える。沈みそうになる表情、頬を両手で叩いて『笑顔!』と言い聞かせる。
「これ、棚に戻してきていいんですか?」
返却された本が積み重なったワゴンを、他の司書の人が押した。ハッとして、立ち上がる。
「私が行きます!」
「え、でも重い本とか多いよ?大丈夫?」
「はい!」
元気よく返事をして、ワゴンを押した。
これも楽しみな仕事のひとつだから、譲れない。
小さくかかるクラシック音楽を聴きながら、館内を進む。途中、絵本コーナーや児童書、時代小説や恋愛小説のコーナーに立ち寄り、それぞれの場所に本を戻していく。
その作業が、好きだった。
そして、最後に。図書館の一番奥のエリア、専門書がたくさん並ぶその場所へと足を踏み入れた。相変わらず人気がなくて一層静かだ。
(・・・ここに、さっきまでいたんだ。今日はあんまり時間なかったのかな?来てすぐに帰っちゃった。5冊も借りていったけど、一週間で読み切れるのかな)
考えるのは、この場所の常連である少年のことばかり。
曇りガラスから、外の陽光が差し込む。やわらかな光の中で、ワゴンの中に残った3冊を手に取った。ぱらぱらと捲って見ても、難しい内容でよくわからない。なんだかおかしくて、笑った。
「大切に読んでもらえた……?よかったね」
小さくそう囁いて、本を胸に抱きしめた。

―――その時。

「……あの」
「ほぇ!?!」
突然に声をかけられて、飛び上がる程に驚いた。
しかも、この声。そもそも、この場所に来る人は限られている。まさか―――。
おそるおそる後ろを振り向いた。
「り、李くん……!?どうして?帰ったんじゃ」
「え?いや、えっと……。用事がなくなったので、もう少し本を読んでいこうと思って。そしたら木之本さんがここにいて、その」
「み、見てた……?」
「……………はい」
その返答に、耳まで真っ赤になった。なんてことだ。秘密を、見られてしまった。しかも、他ならぬ本人に。
(恥ずかしいよぉ)
―――李小狼という名前の、男の子。隣町の中学校に通っている事以外、何も知らない。本が好きで、この図書館を気に入ってくれて。本当に、それだけしか知らない。
なのに、好きになってしまった。
「ごめんなさい……!」
「え?」
謝ると、小狼は戸惑った様子で尋ねた。そうして、おそるおそるというように、近づく。
―――仕事でもいい。一週間に一度でもいい。顔が見られて、声を聞けたら。
そうして、彼が読んだ本に触れて、少しでも共有できた気持ちになれれば、それでいいと思っていた。
だけど、今。状況は大きく変わった。
カウンター越しじゃなく、彼と向き合っている。真っ直ぐに見つめられているだけで、逃げ場を絶たれた気分だ。
胸に抱いた本に力を込めて、羞恥心からぎゅっと目を閉じた。
「あの。ごめんって、なんで……?なんで、謝るんですか?」
「だって。私、李くんの借りた本をこうやっていつも、その……、別に、何か悪いことしようとか思ったわけじゃなくて!ただ、少しでも近づいた気持ちになれたから、だから」
言いながら、自分の行動の異様さに改めて気づいて、青褪める。これはいわゆる、ストーカーというのではないか。
なんて非常識な事をしていたんだろう。気付いて、涙が出るほど恥ずかしくなった。
もう一度謝ろうとしたその時、先に相手が話を切り出した。
「俺の名前、知っててくれたんですか?木之本さん」
「うん。ごめん……。カードで見て、覚えたの。気持ち悪くてごめんね……!」
慌てて謝ると、なぜか相手は焦った顔でふるふると首を振った。
「気持ち悪くなんか全然……!俺だってその、木之本さんの事」
「…………?あれ?そういえば、どうして私の名前……?」
言ってから、胸についている名札の事を思い出した。木之本と書いたこれを見て、彼は名前を覚えてくれたのだろうか。
お互いになんだか気まずくなって、黙り込む。だけど、いつの間にか距離は近づいていた。
その事に気付いて、心臓の音が緊張と期待で高鳴り始める。
「はじめて、だったんです。こんなに自分の好きな本が揃ってる場所。没頭して読みました」
彼の言葉に、こくこくと頷く。
表情は分かりにくいけれど、本棚を物色しているときや選んだ本を捲ったときの嬉しそうに綻んだ目元を、よく知っている。こっそり、見ていたから。
すると、突然に視線が絡まって、頬が熱くなった。真っ直ぐな瞳から、目が逸らせない。
「でも……はじめて、他の事が気になって仕方なくなった。読書にも、集中できなくて」
その言葉に、驚いた。あんなに本が大好きな「本の虫」だった彼が、まさか。
本よりも気になるものとはなんだろう。
聞いてみようか悩んでると、更に一歩、距離が縮まる。
彼との身長差は殆どない。自分が少しばかり高いけれど、視線の高さは同じ。このままもっと近づけば、触れてしまう。
「李、くん……?」
「はじめて、本を口実にしました。冊数を増やしただけ、あなたと向き合う時間が増えると思ったから」
頬が赤い。こんな顔、はじめて見た。
言われている事の意味がわからなくて、戸惑う。
ううん、嘘だ。本当はわかってる。
だけど、夢を見てるみたいで。
「……本じゃなくて、俺に………俺に、その、」
「え?」
「だからっ………!抱きつきたくなったら、俺本体にしてください。いつでも、構いませんから!」
「!?!」
息が止まりそうになる。
悲鳴をあげるくらい驚いたけれど、咄嗟に口を手で塞いだ。
だってここは図書館だ。図書館内ではお静かに。壁にも、そう書いてある。
(心臓、どきどきしすぎて……この音、聞こえちゃう?)
図書館の奥、他の人が滅多に立ち入らないその場所で。
静かに静かに、触れあう時間。
誰にも言えない、秘密のーーー。






おまけ


「でも。だって、年が離れすぎてるし……。同じクラスの女の子とかいる、でしょ?李くん、モテそうだし」
「誰にモテても嬉しくないですし。誰と比べても比べようがないくらい、さくらの方が可愛い。………です」
「……うぅ。ドキドキしちゃうから、そういうことあんまり言っちゃだめ」
中学生の彼からなんと交際を申し込まれた。密かな片想いの相手だったけれど、まさか
成就するとは夢にも思っていなかった。
だから、その先の『お付き合い』となると、足踏みしてしまう。
なのに。そんなことお構いなしに、こっちが躊躇する一歩を軽々と飛び越えて、強く手を引く。『男の子』の顔で、距離をゼロにする。
赤い顔を隠すために開いていた本を、ひょいと奪われる。
読んでないくせに、と。
意地悪に笑う彼に、また翻弄されて。
「まだ俺が子供で頼りないと思うかもしれないけど、すぐ大きくなるから。……年は追い越せないけど、身長ならすぐに追い越します。絶対」
恋愛小説のどんな台詞よりも、胸がときめいて仕方ない。
彼の『絶対』を、信じてしまうのだ。
「好きだ」
「……………」
「そろそろ、観念してください」

ーーー観念して、この手をとってください。

愛おしそうに本に触れていた手が、今は自分だけを抱き締めてくれる。

「………私も、好き。小狼くん」


 

2018.7.9 Twitterであげたものをブログにて再掲載  お題「図書館の司書と使用客の設定で片想いの相手に気付かれないように触れる」

 

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君の声








女の子はみんなお喋りなのだと、知っている。
何と言っても、かしましい姉が四人もいて、幼少期はいつも構われた。従妹の苺鈴だって、放っておけば一人で無限に喋っている。
だから。そういうものなのだと、小狼は思っていた。
(さくらも、大道寺達と一緒にいる時は楽しそうに喋ってたな)
小学生の頃の記憶を手繰り寄せると、彼女はいつも誰かと一緒にいて、楽しそうに笑っていた。教室でも、部活の時も、片思いしていたあの人といる時も。
可愛らしい声で笑う、さくらのその声を。もっと聞きたくて、こっそりと聞き耳を立てていた事は、今も秘密だ。




「小狼くん、ごめんね!待った?」
「大丈夫だ。待ち合わせまで、まだ17分ある。そんなに急いで来なくてもよかったのに」
さくらは、ぜぇはぁと忙しなく息をして、顔の前で手を合わせた。
暇つぶしに読んでいた本を閉じて、さくらへと笑いかける。さくらは息を整えると、頬を赤らめて言った。
「うぅ。だって……いつも待たせちゃうの悪いし。それに、………………早く、会いたかったから」
「―――!」
「でも、小狼くんいつも先に来てるね。どれくらい前から待っててくれたの?」
何気なく問いかけられて、小狼はおさまらない動悸を感じながら、口元を手で押さえる。
こほん、と咳払いをして、バスの時間を見る。
「ちょうどバスが来る。これに乗ろう」
「うん!」
目の前でさくらのやわらかそうな髪と、結ばれたリボンが揺れる。その満面の笑顔に視線は囚われて、遅れて感じるシャンプーの匂いに心臓がばくばくと暴れだした。
並んで座ると、もっと近くにさくらを感じた。走り出したバスの中で、小狼は「落ち着け」と心の中で繰り返す。
ふたりきりのお出掛けは、もう片手では足りないくらいの数になった。だけど、まだ慣れない。
出会って数分で、こんなにドキドキして緊張して、浮かれる。
(落ち着け……。余裕ないところ、さくらには見せたくない)
こっそりと深呼吸をする。
その時。ふと、隣からの視線を感じた。
………じい、と。さくらの大きな両の瞳が、小狼を見つめていた。
「さ、さくら?どうした?」
「…….え?あっ……!な、なんでもない!えへへ」
照れて笑う顔が可愛くて、簡単に誤魔化される。
その時から。確かに、予兆があったのだ。
だけどそれに気づかないまま、バスは目的地に近づいていた。








「わぁっ。すごい、混んでるね」
「さくらが食べたいって言ってたパンケーキ、すごく話題みたいだな。でも、ちゃんと予約してるから大丈夫だ」
今日は、パンケーキの有名な店にふたりでやって来た。
店内は女の子ばかりで、そこかしこから賑やかな話し声や笑う声が響いてくる。その盛況ぶりに気圧される小狼だったが、さくらが喜ぶならと足を進める。予約していたので、すぐに店内に通された。
圧倒的な女子率に若干居心地の悪さを感じていると、正面に座るさくらが無言でこちらを見つめている事に気づいた。
小狼が怪訝そうに首をかしげると、ハッと気づいてメニューを見る。美味しそうだね、と笑う顔も、少しぎこちない気がする。
(どうしたんだ……?俺、何か失敗したのかな)
途端に不安になる。だけどそれを顔には出さないようにして、自分もメニューを見る。
二つの種類の違うパンケーキを頼んだ。店員は少し時間がかかるかもしれない旨を伝えると、忙しそうに駆けていった。
なんとなく、気まずい。
その空気を振り払うように、話しかけた。
「混んでるな」
「うん」
「パンケーキ、楽しみだな」
「うん!」
ガヤガヤとした店内で、お互いの声が聞こえる。いつもより少し大きめの声量で話した。さくらは、テーブルに手をついて身を乗り出した。小狼もそうして、少しでも距離を縮める。
そうして話をしていたけれど、なぜだろう、さくらの顔が少し曇り出した気がする。
いつもよりも、口数が少ない。なにかあったんだろうか。
聞いてみたいけれど、こんな賑やかな場所では切り出しにくい。
悩ましい表情で考えていると、さくらが席をたった。驚く小狼の顔をじっと見つめたあと、さくらは思いもしなかった行動に出た。
「……えっ?」
正面の席に座っていたさくらは、突然に小狼の隣の席に移動した。
狭いソファ席だけど、無理に体をくっつければ座れないことはない。いや、待て。そういう問題じゃない。
さくらは、動揺する小狼を上目遣いで見つめて、言った。
「小狼くんの声、全然聞こえないんだもん」
「……!?そ、そうか?俺はさくらの声聞こえたけど」
「もっと近くで、たくさん聞きたいの」
さくら自身も、自分の行動に照れて動揺しているように見えた。言葉の最後が、弱々しく消える。
小狼の顔は真っ赤に染まっていた。
周りの視線も感じたけれど、それよりもなによりも、さくらの言葉と近い距離が鼓動を激しく打ち鳴らす。
まるで太鼓だ。いや、花火だ。体の中で、どかんどかんと爆発する。
「なにか、お話して?」
「えっ、えぇ……?は、話……?えっと」
そんな、突然に振られると困ってしまう。もともと、得意分野ではない。
しかし、さくらから可愛くお願いされると断れない。断れるわけがない。
うんうんと悩む小狼の脳裏に、いつか聞いた話が浮かんだ。
「あ、ある家の庭に池があって」
「うん」
「そこの息子が、落ちたんだ」
「うん?」
「……ぼっちゃん、って」
「……………」
さくらは、ぽかんとした顔で固まった。続く言葉がない。
小狼の額に、だらだらと嫌な汗が浮かぶ。
(この話ならぜったいに爆笑だよ!って、そう言ったよな?山崎……っ!!)
心の中で友人に恨み節を綴る。
「…………ぷっ」
二人の間にあった静寂が、さくらの声で破られる。
「あははっ、なにそれ!あはははは!小狼くんの冗談、おかしいっ。ふふっ、あはは!」
「…….!」
涙を浮かべて笑うさくらに。安堵するよりももっと、ドキドキして。
その笑顔と笑う声に、五感全部を奪われた。
世界が鮮やかに色づいて。その幸せに、小狼も自然に笑っていた。








ふたりでパンケーキを食べて、街を散策して、たっぷり遊んだ。帰りのバスに乗る頃には、空は茜色に染まっていた。
もう帰らなきゃいけない。その寂しさからか、口数は少なくなった。
それでも、さくらの声が聞きたくて。なにか話題を探しては、話を続けた。
停留所に降りたのは自分達だけだった。とぼとぼ、という表現がぴったりなさくらの後ろ姿に、小狼の胸が痛む。
「さくら」
名前を呼ぶと、勢いよく振り向いた。
顔が赤いのは、きっと夕日のせいだけじゃない。
二人は互いに歩みを進め、近づく。人通りのない道で、言葉もなく見つめあった。
すると。さくらは小さく笑って話し出した。
「あのね。小狼くんとお出掛けするの、いつもすごく楽しみにしてて。でも当日になるとあっという間で。またねって、お別れする時間が寂しくて」
「うん……」
「もっと、小狼くんと一緒にいたいなって思うけど、我儘になっちゃうから。一緒にいる時は、小狼くんの事、もっと見てようって思ったの。小狼くんの声も、たくさん聞きたい」
その言葉を聞いて、朝から感じていた違和感の正体がわかった。
やけに口数が少なくて、様子がおかしいと思っていたけれど。それは全部、自分の為だったのだ。
それを知って、小狼はたまらない気持ちになった。
「俺もだ。さくらの笑顔、たくさん見たい。声も、笑う声も。もっと聞きたい」
「私も……!名前、呼んでほしい!」
「俺だって!」
「私の方が!」
いつのまにか、呼吸が触れるくらい顔が近づいていた。
ハッとして、真っ赤になって。同時に笑った。
小狼は手をさくらの背中に回して、ぎゅっと抱き締めた。
「さくらが俺の名前を呼ぶと、ドキドキするんだ。甘えてるみたいに聞こえて……嬉しい」
「小狼くんの、ね。さくら、って呼ぶ声も。他の人の時よりも優しくて、特別な気がして。すごく好き……」
抱き締めあうと、声はもっと響いて、クリアに聞こえた。


静まり返ったこの場所で。
聞こえるのは、お互いの声と、鼓動だけ。
「さくら」
「小狼くん」
「さくら……もっと、聞きたい」
「うん、私も。小狼くん、小狼くん……」


耳元でささやいて。心臓の音を感じて。
何度も、名前を呼んで。
それから。伝えよう。
この手を離して、帰らなければならなくなる前に。
大好きだって、伝えよう。


 

 

 

2018.7.28 Twitterであげたものをブログにて再掲載  お題「静まり返った部屋で」



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バカップルインお化け屋敷

 

 

※オリキャラ第三者視点のしゃおさです。

 

 

 

ひゅ~~~
どろどろどろ・・・

「きゃあぁぁぁ!こわぁぁい!!」
―――おざなりの悲鳴とわざとらしいリアクション。ふわふわの髪を揺らして、隣にいる男に抱き着いた。
ゾンビメイクをした俺は、教えられた動きで触れるか触れないかの距離まで近づき、きゃあきゃあと嬉しそうに悲鳴をあげる女を、冷ややかな目で見つめた。
「子供だましじゃん。こんなの怖いかぁ?」
「怖いよぉ!もう、だから嫌だって言ったのにー!」
カップルの会話は大体似たようなもので、身を寄せ合って去っていく後姿を見て思う事はひとつ。『怖いのが嫌なら入ってくんじゃねーよ』という、なんとも冷めたものだった。
(はぁ。最初はおもしれぇバイトだと思ったけど、いい加減飽きたな。結局カップルを盛り上げる為のイベントなんだよなぁ。お化け屋敷なんて)
溜息をついて、また所定の位置に身を顰めた。
世間は夏休み。
ここ、友枝遊園地は今夏新しくリニューアルした。お化け屋敷も大改装し、好評を博している。夏前に、新しいバイトを紹介してやると友人に誘われたのが、このお化け屋敷のおどかし役だった。
最初は人をおどかすのが楽しくて、正直ちょっと嵌った。どうやったら驚くか、とか。ゾンビらしい動きになるかとか、自分なりに研究した。
しかし。夏休みになると、状況が変わった。
次々とやってくる客達、その大半はカップルだった。怖がる彼女に縋られて、気が大きくなる彼氏。よしよしと抱き合っていちゃつくカップル、中には彼氏の方が怖がりで彼女に呆れられる、なんていう特殊なカップルもいたけれど。
俺の渾身のゾンビによって、どのカップルも仲を深めて去っていく。なんとも馬鹿らしい仕事だ。しかも、暑くて過酷。最初のやる気はどこへやら、夏休みを半分も終える頃には、すっかり腐ってしまった。
(あーあ。次のバイトはどうすっかな。なんだかんだ、時給はいいんだよなぁ)
欝々と考えていると、近づいてくる足音が聞こえてきた。次の客が来たようだ。よっこいしょ、とマスクの下で小さく呟き、重い腰を上げる。
暗がりからこの部屋の入り口を覗くと、寄り添うふたつの影が見えた。
「・・・しゃ、小狼くん。いる?ちゃんといる?」
「大丈夫だ。手、繋いでるだろ」
「そ、そうだけど。あの、お化け、お化けもいるよね?」
「まぁ・・・。お化け屋敷だから、いるだろうな」
なんとも間抜けな会話に、思わず肩の力が抜ける。
女の子の声はところどころ震えていて、本気で怖がっているだろうことが伝わった。ぼんやりと光る道を、おそるおそる進みながらやってくる。何かが飛び出してくるかもしれないという、恐怖のせいだろう。
「な、何か聞こえなかった?気のせい?」
(それは気のせいだ。この部屋にそんな仕掛けは無い)
「大丈夫だ。気のせいだよ」
落ち着かせようと、彼氏の方が優しく言う。彼女はそれでも安心できず、小さな物音にも肩を震わせていた。
そんなに苦手ならば、なぜわざわざこんなアトラクションに参加しているのか。
(どうせ、彼氏に抱き着いてきゃあきゃあしたいだけなんだろうけどなー。けっ)
すっかりやさぐれた気持ちで、近づいてくるカップルを見ていた。手と手を繋ぎ、しかしそれだけでは足りないのか、彼女は彼氏の腕にぎゅっとしがみついている。ぼんやりとした青白い光が、一瞬だけその表情を映した。
ほんの、一瞬だけなのに。
涙を浮かべるその顔を見たら、意図せず心臓が鳴った。
(うわ、可愛いな・・・。って、いやいやいや。何考えてんだ俺は!客だぞ。男付きだぞ。しかも今、俺はゾンビなんだぞ!)
自分はおどかす仕事で、相手はおどかされる客。涼を取る為、恋人との仲を深める為にやってきているのだ。仕事をしなければ、と。先程までの惰性を脱ぎ捨て、気合を入れる。
(こんな可愛い彼女がいるなんてうらやま・・・、って違う違う!くそっ、こうなったら思い切りおどかしてやるぞ!すかしてる彼氏の方もびびらせてやるからな・・・!)
何十組と言うカップルを驚かせ続けてきたゾンビスキルを、今こそ見せてやる―――!
そう意気込んで、タイミングを見計らっていた、その時。
(え・・・!?な、なんで?)
驚愕のあまり、体が石のように固まった。
こちらへと向けられる視線には、間違いなく敵意が含まれている。ぞぞ、と背筋に寒いものが走った。氷点下の瞳に睨まれ、指先ひとつさえ動かせなかった。まるで、金縛りだ。
彼女の方は全く気付いていない。相変わらず涙目で怖がって、恋人の腕にしがみ付いてなんとか歩みを進めている。
そもそもあり得ない。こっちは灯りも何も無い暗闇に身を潜めている。常人ならば、隠れている自分達を見つけるどころか、認識する事さえ出来ない筈なのだ。
なのに、なんで。
(なんであの男、俺の事を睨んでるんだ~~~!?!)
「しゃ、小狼くん小狼くん!そこ、何かが動いた気がする~~~!」
「大丈夫だ。何もない。・・・『この部屋は何も出てこない』から、大丈夫だ。さくら」
―――絶対、出てくるなよ。
言外にそう言われているのだと、気付く。
情けない事に、壁に張り付いたまま動けなかった。
2人がやっとの事で通り過ぎていったあと、へたりと座り込んだ。心臓がばくばくと暴れ出し、額には汗が浮かぶ。おどかし役が逆におどかされるなんて、聞いたことがない。
その時ちょうど、ポケットの中の機械が震えた。交代時間の合図だ。よろよろと立ち上がり、ゾンビメイクを施したマスクを脱いだ。








「あー!目がいてぇ!」
従業員通用口を通って外に出ると、暗闇に慣れた目が一気に太陽の光に照らされた。瞼の裏がチカチカする。何度やっても慣れない。
青空の下で思い切り伸びをすると、先程感じたおかしな恐怖感も薄れ、夢だったんじゃないかと思えた。
しかし、その時。
耳に入ってきた声に、びくりと震えた。
「怖かったー!途中、時計がガタガタってなったよね?」
「ああ。でも、ちゃんとゴールまで辿り着けた。さくら、頑張ったな」
「えへへ。これでもう、お兄ちゃんに馬鹿にされずに済むよ!高校生になってまだお化け屋敷にも入れないのか?怪獣の癖に、って!酷いでしょ?小狼くん」
怒っているのかはしゃいでいるのか、忙しなく動いて喋る彼女を見つめて、彼氏はそれはそれは甘い笑顔を浮かべる。興奮気味の彼女を落ち着かせるように、頭を撫でてやっている。
いつもなら、そんなバカップル横目で見て「けっ」と心の中でこっそり悪態をつくだけに留まるのだが。聞き覚えがありすぎる声に、思わずその姿を凝視していた。
「あれ?パンフレットには、ゾンビや幽霊がたくさん出てきて追いかけてくるって書いてある。・・・でも、全然見なかったよね?」
「きっと大袈裟に書いてあるんだろ。お化け屋敷はお化け屋敷だ」
「・・・うん!そうだよね!目標達成だよね!」
(いやいやいや!本当はゾンビも幽霊もたくさん待機してるし、おどかして追いかけて怖がらせるんだぞ!?他はちょっとした機械の仕掛けくらいで・・・!ぜんっぜん、達成されてないけど!?)
心の中で思い切りツッコミを入れる。
彼女の言葉から察するに、あの彼氏の無言の重圧に負けて仕事が出来なかったのは、自分だけではなさそうだ。
すると、不意にこちらを向いた彼女とうっかり目が合ってしまった。慌てて視線を逸らすも、なぜか彼女はこちらに近づいてきた。
(うわ・・・!この子、明るいところで見ると本当に可愛いな!?)
そんな場合じゃないだろ、と。心の中でもう一人の自分が突っ込む。
彼女は、じぃ、と俺の顔を見上げて、言った。
「あの、額のこのあたり、汚れてます。赤い何かが・・・、はっ、もしかして血・・・!?」
青褪めて、慌てた様子で鞄からハンカチを取り出し、拭いてくれようとした。
出会ったばかりの男を本気で心配してくれている。
そんな彼女を見て、思った。
(ああ。さっき、おどかさなくてよかった。こんな優しい子をおどかして、泣かせたりしなくてよかった)
可愛らしいクマのハンカチが目に入って、慌てて後ろに下がった。
「いや!これは血じゃないから!正確には血糊というか、多分マスクについてた・・・いや、なんでも!」
「ほぇ?」
不思議そうに首を傾げる顔も可愛くて、頬が熱くなるのが分かった。
しかし。その熱は、次の瞬間一気に降下する。
「さくら。一人で勝手に走り出すな。びっくりするだろ」
「あっ。ごめんなさい。小狼くん」
彼女を後ろから抱き寄せて自分の腕の中にしまうと、こちらへと視線を投げる。彼女が一生懸命説明しているが、興味なさげに相槌を打って、じ・・・、と見てくる。
(こ、こえぇ・・・!)
まさか、先程も君に睨まれたゾンビです、とは言えない。
あの時はマスクを被っていたから、万が一顔を見られていたとしても、今の自分と結びつける要素は皆無だ。おそらく、可愛い彼女に声をかけた不届き者と思われているのだろう。
面倒な事になる前に退散しなければ。先程の絶対零度の恐怖を思い出し、俺はそそくさと背を向けた。
「じゃ、じゃあ俺はこれで」
彼女はぺこりと頭を下げて、「私達も行こ?」と彼氏の方を見上げて言った。
こんな可愛い彼女がいて、正直羨ましい。それは嫉妬深くもなるだろう。過保護にもなるだろう。
今までもたくさんのカップルを見てきたけれど、色々な意味で他とは一線を画していた。
そんな事を考えながらとぼとぼと歩き出した俺の背中に、そっと、声がかかった。
「・・・ありがとうございました」
一瞬、固まって。
目を見開いたあと、後ろを振り返った。
既に反対方向に歩き出した二人は、仲睦まじく寄り添って歩いている。こちらに気付いた様子はない。
だけど、確かに。さっきの声は、自分へと向けられたものだった。
「今のって、彼女をおどかさなかった事への・・・?まじで俺だって気づいてたのか?いやいやいや、まさか」
ここまでくると、恐怖や不気味さを飛び越えて笑えてくる。
ポケットの携帯電話が震えた。出ると、友人の声がして、少しホッとする。
「・・・あ?新しいバイト先?あ―――。・・・いいわ。もうちょい、ゾンビやることにしたから。・・・・・別に?ただ、言うほどつまらねぇばっかでもなかったから」


蝉がそこかしこで激しく鳴いている。休憩の終わりを知らせるポケットの振動に、俺は走った。
暑い暑い夏に。熱い熱いカップルに。―――ひとときの涼を。

 

 

 

2018.8.1 ブログにて掲載

 

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