熱帯夜




直接的な表現はないですがアダルティな雰囲気あります。







「小狼くん………は、恥ずかしいから、あんまりじっと見ちゃダメ………」
恥じらう姿と小さな声で紡がれる言葉に、理性の糸は簡単に切れて。
彼女にとっては無意識の誘惑に煽られるまま、夢中で触れた。
そうして、今日も夜が更けていく。








「…………」
(2時か……)
くうくうと小さく寝息をたてるさくらを見ていたら、あっという間に時間が経っていた。リビングのソファからベッドに移動し、それからお互いに夢中で愛し合ったあと、さくらは気を失うように眠りに落ちた。いつもの事だ。小狼はさくらの体を綺麗に拭いてから、自分のシャツを羽織らせた。
シーツを換えて自らも布団に入る。体の気怠さと眠気は十分に感じていたけれど、眠ってしまうのが勿体ないと思ってしまう。
「ん……」
先程までの淫らで扇情的なものとは打って変わって、子供のような幼さを覗かせる寝顔が、小狼は好きだった。つん、と頬をつつくと、僅かに反応を見せる。ダメだと思いつつも、眠るさくらを観察するのが楽しみのひとつだった。
(それに、さくらは一度寝たらなかなか起きない)
だからつい、弄ってしまう。反応を楽しんでしまう。
そうしているうちに、行為が終わってから一時間程が経過していた。
小狼は、ふぁ、と欠伸を漏らした。
(そろそろ寝るか)
隣で安心しきって眠るさくらの顔を見ていたら、こっちまでつられて眠くなる。
今までは日常的に疲労を回復する為だけだった睡眠が、心地いいものに思えてくる。
小狼は微笑んで、さくらの唇に自分の唇を重ねようと、動いた。
その時。
「んん………あっ、ついー」
さくらは眉をひそめて呟くと、ごろんと寝返りをうった。タオルケットを蹴飛ばして露になった白い脚に、思わず心臓が跳ねる。
部屋の温度は適温だ。冷やしすぎないよう、今は除湿をかけている。さくらにとっては暑いのだろうか。
小狼はやれやれとため息をつくと、タオルケットを再びかけようとした。
さくらは冷たい場所を探してか、ごろんと転がる。勢いがよすぎてベッドから落ちそうになったので、小狼は慌てて抱き寄せた。
「さくら、落ちるから……!」
「……やぁ。あついのー」
起きているのかと顔を覗きこむが、そのあとは特に言葉を発せず、やがて寝息に変わった。
小狼はホッと胸を撫で下ろすが、一抹の不安を覚えた。
このまま自分まで寝てしまったら、さくらの寝相を管理できない。不測の事態には反応できるようにしているつもりだが、さくらの無意識の行動となると自信がない。
「……しゃおらんくん………あつぃ……よぉ……」
「…………」
暗に「暑いから離れて」と抗議するさくらに、小狼は明らかにムッとする。
眠っているとはいえ、面白くない。
「……仕方ないな」
ぽつりと呟くと、小狼はリモコンを手に取った。







「ん、………はれ?」
「さくら…………おはよ」
ぼんやりと目を開けたさくらに、既に起きていた小狼は笑って挨拶をした。
今日は学校も休みで特に予定もないから、随分とゆっくりとした目覚めだった。
さくらは、とろんと半分寝ぼけた瞳で小狼を見ると、極上の笑顔を見せた。
「小狼くん、おはよ………。??………ほえぇ、寒い!」
さくらは驚いて、小狼の腕の中に戻った。そうして、暖をとるようにぎゅっと抱きつく。
ごうごうと、エアコンから冷たい空気が流れていた。
「さ、寒くない?お部屋、冷やしすぎじゃない?」
「だって、さくらが暑いっていうから」
「えっ、言ってないよ!」
「言ってた。寝てる時に」
小狼の言葉に、さくらは困った顔をする。寝ていた時の事は覚えてないから、反論のしようがない。
「でもでも、いくらなんでも冷やしすぎだよ。寒いよぉ~」
ぎゅうぅ、と抱きついてくるやわらかさに、小狼は笑みを浮かべる。
「ん。暑いって言われて離れられるよりは、寒いって言って引っ付かれる方がまだマシだ」
「???」
首を傾げるさくらに、小狼は苦笑した。そうして、ちゅ、と音をたててキスをした。
不意打ちに、さくらの頬が赤くなる。触れると、ほんのりと熱い。
「手っ取り早く熱くなる方法、試してみるか?」
意地悪に笑うと、一拍置いて言葉の意味に気づいたさくらが、林檎のように顔を真っ赤にした。「えっち!」と、小狼の胸をぽかぽかと叩く手を握って、もう一度キスをした。
長く唇を重ねながら、昨夜から働き通しだったエアコンのスイッチを切る。


まだまだ続く夏、熱帯夜。
二人で過ごす夜は、少しだけ設定温度を低くして眠ろう。
小狼は、ひっそりと心に決めるのだった。


 

 

2018.8.7 ブログにて掲載

 

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しるし




夫婦なしゃおさくのお話です。









目を覚ましたら、隣に寝ていたさくらの姿がなかった。
今日は日曜日で大学も休み。午前中の予定も無かった筈だ。いつもならすやすやと可愛らしい寝顔で夢の中にいる時間なのに、珍しい。
小狼は手頃のシャツを羽織って、寝室を出た。リビングの扉を開けると、こちらに背を向けて座っているさくらがいた。
「おはよう、さくら。早いな」
「………うん。おはよ、小狼くん」
(……………ん?)
小狼は、さくらの反応に眉根を寄せた。
いつもなら、勢いよく振り向いたあと眩しい笑顔で挨拶をして、ご機嫌に抱きついてきたりするのに。
ちら、とこっちの顔を見るだで再び背を向けた。あまりに素っ気ない。手元の作業に集中しているのか、それ以上の言葉も無かった。
(なんだ?機嫌悪い?でも、さくらが理由を言わずに拗ねるなんて。全然思い当たらないぞ)
小狼は考えながらソファに座り、さくらを見つめた。
そうして、昨日の事を思い出す。
昨日は遅くまで仕事だった。
さくらの方は、大道寺や他の友達と遊びにいく約束をしていた。久しぶりにみんなに会える、と。小狼もよく知る人物達の名前をあげて、出掛けていった。
仕事がちょうど終わった頃、携帯電話にメールが入った。大道寺からだった。
久しぶりにみんなに会えてはしゃいだのか、さくらは酔っぱらって眠ってしまったとの事だった。マンションの前まで車で送られてきたさくらを引き取り、抱き上げてベッドまで運んだ。
(さくらは酔っぱらってたから、俺がメイクをおとして着替えさせて、それだけで何もやましいことは………。いや、誘惑に負けて少しいたずらしたけど。………それがばれたのか?でも、それならこんな回りくどくなく、直接怒りそうなのに)
小狼からの物言いたげな視線に気づいているだろうに、さくらは顔をあげない。
眉はつり上がって、口を八文字にして、いかにも『怒っている』顔だ。わかりやすいのはありがたいけど、理由が思い当たらない。
さくらの手にあるのは、白いシャツだ。多分、自分が仕事で着ているもの。
さくらの横顔は、怖いくらいに真剣だった。
「………なに、やってるんだ?」
「シャツが汚れてたから、染み抜きしてるの」
さくらはそう言うと、とんとんとシャツの表面を叩いた。
小狼はそれを見ながら、「はて?」と考える。
どこかで汚しただろうか。ここ最近はデスクワークが多かったのに。
ーーーその時。
突然に、思い出した。
「あ」
不意に漏れたその一言に、さくらは顔をあげた。
怒っている、というより。泣くのを我慢しているような顔だった。
この顔が一番弱い。
小狼の表情に動揺が走ったのを、さくらは違う風に取ったのか、シャツを手に持ったまま立ち上がった。
そうして、汚れている箇所を小狼に見せる。
ちょうど、左の胸元。そこに、くっきりとピンクの汚れが付いていた。その形は、なんともベタなキスマーク。
さくらは目に涙を潤ませて、小狼を見つめた。
それを見て、ここまでのさくらの行動や表情の謎が解けた。すべて、繋がった。
小狼は、頭を抱えるようにして項垂れると、はぁ、と溜息をついた。
その反応に、さくらは傷ついた顔をする。
「ち、違うよ!ちゃんとわかってるもん!満員電車で見ず知らずの女の人とぶつかっちゃったのかなって!小狼くん、電車通勤じゃないけど……..。それか、困ってる人を庇った時に、抱き締めてついちゃったのかもしれないし。依頼の人が魔除けに付けたおまじないとかかもしれないし……!それとそれと」
「待って、さくら。それずっと考えてたのか?」
朝早く起きて、このシャツを発見して。自分が起きてきて声をかけるまでずっと。あらゆる可能性を想像していたのか。
「小狼くんが、う、浮気とかしないって!わかってるもん!……でも」
ーーー怒ってない。泣いてない。信じてる。でも、それでも。
「小狼くんの近くに、こんなところに触れちゃうくらい近くに、私以外の女の子が近づくの、やっぱり嫌なんだもん………っ」
我慢の限界だった。
さくらの手を掴んで引き寄せる。持っているシャツごと、さくらを抱きしめた。ソファが、ぎし、と小さく軋む。
涙の匂いに、またも溜息がこぼれる。
さくらの肩が、震えた。
至近距離で顔を覗きこんで、涙で濡れたさくらの頬を撫でた。
「う……。小狼くん、今めんどうくさいなって思ってる?」
「うん、少し」
「!!」
がーん、と言う効果音がぴったりな表情で、さくらは言葉を無くす。
小狼は眉をひそめ、溜息まじりに言った。
「さくらの想像、どれも外れてる。かすってもいない」
「え……、そう、なの?」
ひく、としゃくりあげる顔が子供のように幼くて、小狼は苦笑した。
「このキスマークを付けた犯人は電車に乗り合わせたOLでも、依頼人でもない。…………さくらだ」
「ほえ?」
「昨日の夜、酔っぱらってお前がつけたんだよ」
ぱちぱちと涙目を瞬かせるさくらが、その後に盛大に叫び出すだろうと予想する。
小狼は、昨日の事を思い出していた。




『さくら。ほら、メイク落とすから。動くな』
『んー……小狼くん、だいすき……』
『あっ、こら』
ベッド上で、酔っぱらった彼女とメイク落とし様のコットンを手に格闘していたら、油断してマウントをとられた。
さくらは左胸の辺りに唇を押し当てて、可愛くて妖艶な笑顔でこう言った。
『小狼くんのここ、ずっとずーっと、さくらのだよって、しるし付けておくの』
とくんとくんと鼓動をうつ、心臓。それめがけて発射された桃色の爆弾は、容赦なく理性を壊しにかかったのだけれど。
最高に罪深い小悪魔は、可愛い寝顔でそのまま夢の中へ行ってしまった。
彼女のもの、というしるしを付けられついでにおあずけを食らわされた男を、一人置いて。




「~~~!?!う、うそ。覚えてない、覚えてない~!!」
「俺はちゃんと覚えてるけど。ついでに言うと、俺の目が届かないところではお前には絶対酒は飲ませないって決めたから」
危なっかしくて飲ませられない。
そう言うと、さくらの顔が戸惑いの色に染まる。
「はうぅ……。ところで、どうして私、ソファに押し倒されてるんだろ……?」
このあとの展開をすでに想像しているのか、さくらは顔を赤くして尋ねる。
小狼は笑うだけで答えずに、さくらの唇にキスをした。
だんだんと熱を帯びて、ふたりの体はソファに深く沈む。
熱い吐息が混ざる。さくらがキスの合間に言った。
「小狼くん。あの、ごめんなさい。勘違いして、勝手に怒って泣いて」
「めんどくさい」
「!!!」
「…………でもそういうところも可愛くて仕方ないんだ。俺の奥さんは」
赤く染まったさくらの頬には、もう涙はなかった。
かわりに、安堵と嬉しさが混ざった、花のような笑顔が咲いた。
眩しい朝の光で満ちたリビングに、さくらの甘い声を響かせる。
今日は日曜日。朝ごはんは、もう少しあとでも構わないだろう。
シャツの染み抜きはーーーこの際、諦めよう。


脱ぎ捨てられたシャツの代わりに。小狼の胸にもさくらの胸にも、おたがいのしるしが赤く刻まれるのだった。

 

 

2018.8.14 ブログにて掲載

 

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君はシュープリーム

 

 

 

 


予定していたよりも早めに仕事が終わり、ついでに手土産もたくさん持たされた。小狼は少し悩んだあと、さくらに電話をかけた。
今日は日曜日。もしかしたら誰かと出かけているかもしれないし、何か他の用事があるかもしれない。だけど、もし会えたら―――。
一縷の望みをかけて、小狼はさくらからの応答を待った。
コール音が途切れると同時に、元気な声が響いた。
『もしもしっ!さくらです!小狼くん?』
「ああ。突然ですまない。今、電話平気か?」
『うん!お電話してくれたの嬉しい!お仕事終わったの?お疲れ様!今日暑かったから、疲れたでしょ?平気?』
「ああ。大丈夫だ」
話しながら、どうしようもなく笑みが浮かぶ。往来でにやけている自分に気付いて、小狼は恥ずかしそうに口元を引き締めた。
「実は、さくらの家の近くまで来てるんだ。お土産をたくさんもらったから、一緒にどうかと思って」
『ほんと!?嬉しい・・・!会えるの、嬉しい!』
受話器越しの声だけで、勿論相手の姿は見えない。けれど、さくらが嬉しそうに笑ってぴょんぴょんと跳ねているのが目に浮かんだ。
無理だ。ポーカーフェイスなんて保てない。小狼はおかしそうに笑って、受話器の向こうにいるさくらに話しかけた。
「じゃあ、今から行くから。多分、10分くらいで着くと思う」
『うん!・・・あ、でも。今、ちょっとお掃除してて。バタバタしてるんだけど、いいかな?』
「それは構わないけど・・・」
『すぐに終わらせるから!待っててね!』
通話を終えて、小狼は笑みを浮かべた。そうして、先程よりも少し早足で、木之本家へと向かう。右手に持った袋には大きな箱が入っていて、歩く度に揺れた。
早く顔が見たい。電話じゃなくて、会いたい。逸る気持ちを抑えきれず、気付いたら小走りで向かっていた。
到着してすぐに、呼び鈴を押した。玄関に近づいてくる足音と、賑やかな声。さくらとケルベロスが、楽しそうに話している声が聞こえた。
そうして、扉が開かれる。
「小狼くん!」
「さくら。突然で、ごめん、な・・・」
笑顔が固まる。言葉が途中で消えていく。小狼は呆然と、目の前の光景を見つめた。
さくらは不思議そうに首を傾げて、小狼を見た。右手には、泡がたくさんついたスポンジを持って、短い髪を後ろで結っている。そうして、ピンク色の可愛いエプロンを付けていた。
問題は、その格好だ。小狼の目には、『エプロン一枚』だけを身に付けているようにしか見えなかったのだ。
とてつもなく刺激的な恰好に、一気に血液が頭に昇る。
「ほぇ?小狼くん!?ど、どうしたの?お顔が真っ赤だよ!!」
「どないしたんや?小僧!いつもに増してけったいな顔になっとるで!!」
―――どうしたもこうしたもない!
思わず叫び出しそうになるのを堪えた。
お昼を過ぎて気温は高くなり、太陽がアスファルトをじりじりと焼いている。
右手にある箱の中身が茹ってしまわないよう、小狼はひとまず、木之本家にお邪魔するのだった。








「ちゃんとショートパンツとTシャツ着てるよぉ。もう、小狼くんのあわてんぼさん」
「いやー・・・。わいはちょっと、小僧に同情するわ」
「そんなものしなくていい」
案の定、自分の勘違いだったと、小狼は溜息をついた。さくらはちゃんとエプロンの下に服を着ていた。しかし、刺激的な恰好には違いない。
客とはいえ、二人が掃除している横で寛ぐ気にもなれないので、小狼も手伝う事にした。残るは、風呂掃除。手分けして、浴槽や壁、床を磨いた。明るい浴室の中に、二人と一匹の声がよく響く。
天井までぴかぴかに磨いて、最後にシャワーで泡を洗い流した。
途中、洗い残しを見つけたさくらが、スポンジを持った手を伸ばす。その拍子に、濡れたタイルに足を滑らせた。
「ほえっ」
「・・・さくら!」
傾いた体を、小狼がすかさず支えた。その際に右手がさくらの胸元を触ってしまい、二人は声も出ないくらい驚いた。
揃って真っ赤になって、少々気まずそうに会話する。
「き、気を付けろ。俺がやるから、スポンジ貸して」
「はぅ・・・。ごめんね?小狼くん」
転びそうになった拍子にシャワーが暴れて、さくらも小狼も半分濡れてしまった。お互いの恰好を見て、頬を染める。
ふよふよと空中を飛びながら何気なく見ていたケルベロスは、その瞬間、突然に顔色を変えた。
「・・・・・っ、アカン!!!」
そうして、超特急で二階へと飛んで行ってしまった。さくらと小狼は、その不可解な行動に首を傾げる。
一分と経たずにケルベロスは戻ってきた。その頭には、見慣れた黒いレンズが装着されていた。掃除を終えた小狼とさくらは、ますます怪訝そうに顔を見合わせて、聞いた。
「ケロちゃん?それって、知世ちゃんがくれたカメラ・・・?」
「おう!今、知世からの指令を受信した気がするんや!小僧とさくらが仲良うしとるとこ、撮り逃したら怒られる!ええから、わいにお構いなくやで~!」
「・・・小狼くん。私、たまにケロちゃんがわからない・・・」
「俺もだ・・・」
とりあえず。掃除も終わったし、休憩しようという事になった。さくらはエプロンを外し、お茶の用意を始めた。そうして、冷蔵庫を開けて箱を取り出す。
小狼が持ってきてくれた手土産は、冷蔵庫で冷やされていた。テーブルの上で大きな箱を広げると、中には魅惑のスイーツがみっちりと詰められていた。
さくらとケルベロスは、キラキラと輝く笑顔で、嬉しそうに笑った。
「「 シュークリームだぁ! 」」
ぴったりと揃った声に、小狼は笑った。
こんがりと焼き目が付いたシュー生地に、白い粉砂糖が降りかけられている。中には濃厚たまごのカスタードクリームがぎゅうぎゅうに詰められていた。
「めっちゃうまい―――!!小僧、でかしたで!!何個でもいけるわー!!!」
ケルベロスは大きな口で次々と飲み込んでいく。小狼はそっと、残りのシュークリームが入った箱を引き寄せる。このままだと、ひとつ残らず食べられてしまいそうだ。
「でも、本当に美味しい!こんなにもらっていいの?」
「ああ。俺一人じゃ食べきれないし、むしろ助かる。今日のクライアントは気のいいマダムなんだが、どうにも子ども扱いされている気がするんだ。『あなたくらい若い子はこういうのが好きでしょう』って・・・」
小狼は複雑そうな顔でシュークリームを口に入れて、指に付いたクリームを舐める。それを見たさくらが、「ふふっ」と笑った。
「小狼くんは、私よりもずっと大人で格好良くて、すっごく頼りになるよ」
「・・・!」
「な、なんて。私に言われても、あんまり嬉しくないかもしれないけど!・・・これ、本当に美味しいね!」
照れ隠しに、シュークリームに齧り付いたさくら。薄いシュー生地が破れて、とろりとカスタードクリームが溢れた。
「ほえ!!・・・あぁ~~~、こぼしちゃった!」
「!!」
さくらの口の端から零れたクリームが、白いTシャツの胸元を汚した。
その光景を見て、小狼は後頭部を思い切り殴られたような衝撃を受ける。
「勿体ない」と悔しそうにするさくらだったが、それ以上に悩ましい事態に陥っている事には気づいていなかった。
「あぁぁ―――。これで最後の一個やぁ、これ食べたら終わってまうー!!」
小狼はさくらの姿を凝視したまま、隣で残りひとつのシュークリームを惜しむケルベロスの首根っこを、ひょいと掴んだ。
そうして、こっそりと隠しておいた箱の中にポイと入れる。
「ん?お?おぉぉ---!?こんなにあるやないか!!食べてええか!?ええな!?食べてまうで―――!!!」
ケルベロスが歓喜に震えていた、その時。
小狼の舌がさくらの唇の端に付いたクリームを舐めとって、そのまま深く口づけた。
口の中に残った甘さごと味わうように、舌を入れて絡める。最初は驚きに固まっていたさくらも、小狼からのキスに瞳を潤ませ、目を閉じた。
「小狼く、ダメだよぅ・・・」
弱々しい『ダメ』の言葉には、拒絶の意思も効力も無い。
小狼は、さくらの胸元に落ちたクリームを人差し指で掬って口に入れると、再びキスをする。広がる甘さに、思考までとろとろに溶かされる。
「・・・しゃお、・・・、んっ」
「黙って、さくら。・・・俺が、全部綺麗にする」
そんな恥ずかしい事を至極真剣な顔で言うものだから、さくらのHPはぐんと減って。恥じらいの表情で、こくりと頷くのだった。




午後の昼下がり。バニラビーンズの甘い香りと二人分の吐息が、部屋に満ちていった。







おまけ。



「ほんまなんぼでも食べられるわ~~~!幸せやぁ・・・・・・ん?」
箱の中で美味しいシュークリームに囲まれ幸せ絶頂だったケルベロスは、ふと聞こえてきた声に、ぴくぴくと耳を動かした。
「―――・・・んっ、・・・らめ、・・・―――ぁッ」
ケルベロスは大きな耳を箱に当てて、息を潜めた。
「さくら、甘い・・・」
「ケロちゃんに、見られちゃうよぉ」
「大丈夫。―――買収済みだ」
小狼の言葉から言知れぬ圧力を感じ、ふるると震えた。
途端に、手にあるシュークリームがズシリと重くなった気がする。同時に、頭上に装着したカメラが急に存在感を主張してくる。
どっちを取るべきか、いや、撮らざるべきか。
脳内で知世の笑顔と小狼の鋭い眼光が回る。両者の欲望に挟まれ、ケルベロスは心中で叫んだ。『どないせいっ、ちゅうんや―――!!!』―――と。


「小狼、くん・・・♡」


聞こえてきたのは、甘く色づいたさくらの声。
ケルベロスは深く溜息をついたあと、シュークリームをばくりと食べた。
「堪忍やで、知世・・・。わいは、おおいなる力に負けたんや・・・・・」
大切な主であるさくらが幸せならば、それが何よりの優先事項である。
決して、シュークリームの美味しさに負けたわけではない。―――多分。


ケルベロスは器用に両耳をぱたりと折りたたむと、無心で食べ続けるのだった。


 

~2018.8.18 web拍手掲載

 

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余裕なんてない ~小狼くんの場合~







「さくらちゃん、おはようございます!」
「知世ちゃん。おはよう」
「・・・あら?元気、ないですね。何かありましたか?」
知世の言葉に、さくらはぎくりと顔を強張らせた。
登校したさくらは、いつもよりも少し元気がなかった。笑顔で挨拶をするけれど、どこか寂しげで、頭頂部の髪も心なしか元気がない。
おそらく、気付いた人はほんの一部だろう。人一倍洞察力があって、ことさくらに関してはそれが万倍にも発揮される知世にとっては、一目で分かる落ち込みっぷりだった。そして、彼女をここまで落ち込ませることが出来る人物は、容易に想像できる。
「李くんと、何かありましたか?」
「えっと・・・何かあったってわけじゃないんだけど。ううん、あったんだけど」
「さくらちゃんが嫌でなければ、話してください。力になれるかもしれませんわ」
微笑む知世に、さくらは瞳を揺らした。うん、と小さく頷いたさくらの手を引いて、教室を離れる。人の少ない廊下の隅で、さくらは口を開いた。
「昨日の夜、小狼くんがうちに来たの。夕飯、一緒に食べようって誘って」
「はい。さくらちゃん、すごく張り切ってましたよね。夜に、ケロちゃんがうちに来ました。野暮な真似はせぇへん・・・と言ってましたわ」
小狼に夕食をご馳走するという約束をしたのはもう一週間も前で、さくらは料理本を見てメニューを決めたり練習で作ってみたり、張り切って準備していた。
大好きな小狼に、おいしいと言ってもらいたい。その一心で。
「うん。お料理はなんとか出来て、小狼くんも美味しいって言って食べてくれたよ。・・・でも、そのあと。一緒に後片付けをしてる時、私、お皿を落としちゃって」
「怪我はしませんでしたか?」
「大丈夫。小狼くんもすごく心配してくれて、慌てて片付けようとしたら「触るな!」って。そのあとの片付けも全部やってくれたんだけど・・・」
しゅん、として、さくらは一旦言葉を止めた。
割れたお皿を拾おうとした時、小狼の剣幕に驚いて、なんとなく気まずくなった。小狼はきっと、心配してくれているから。だから怒ったのだと、頭ではわかっている。
わかっていても、自分の不甲斐なさにさくらは落ち込んだ。
「でも、それだけじゃなかったの」
「そのあと、何かあったんですか?」
「うん。後片付けが終わって、一緒にお部屋でケーキ食べよって誘ったんだけど、小狼くんはもう帰るからって・・・。だから、作っておいたカップケーキはお土産に渡そうと思ったの。小狼くん玄関にいたから、慌てて走って・・・そしたら」
なんとなく、予想がついた。涙目になったさくらに、知世は優しく笑って続きを促す。
「こ、転んじゃって」
「それを、李くんが助けてくれたんですか?」
「うん。でも、そのせいで小狼くんも一緒に転んじゃって。気付いたら・・・、だ、抱きしめられてる格好に、なって」
「まあ」
それは是非録画したかったです―――と。知世は思ったが、口には出さないようにした。さくらは可哀相なくらいに真っ赤になって、頬を両手で覆って何やら呻いた。その時の事を思い出しているのだろう。
「小狼くん、私の下敷きになって背中を打っちゃったみたいで、痛そうな顔してたの。なのに、私の心配ばっかりしてくれて。申し訳なくて」
「さくらちゃん」
「でも、嬉しかったの。恥ずかしかったけど、嬉しくて。でも、気持ちがいっぱいいっぱいになっちゃって。頭ぐるぐるして。でもでも・・・小狼くんはすごく普通で、平気そうで、全然いつもどおりで・・・!そしたら、なんだか悲しくなっちゃって・・・・・」
尻すぼみに消えていく言葉と、潤んださくらの瞳。知世は苦笑して、さくらの背中を撫でた。
恥ずかしいのと嬉しいのと、悲しいのと寂しいのと。たくさんの想いが彼女の小さな胸の中でせめぎ合って、混乱している。慰める事はそう難しくないのかもしれない。だけど、彼女を笑顔にするには、もっと必要なものがある。
知世はそう考え、鞄から携帯電話を取り出した。
ぱちぱち、と涙目を瞬かせるさくらに微笑むと、ある人に電話をかけた。
「あ、李くん。おはようございます。もう学校に来ていますか?」
「―――!知世ちゃん・・・!?」
知世の電話越しに、微かに聞こえる声。それは紛れもなく、小狼のものだった。ますます困惑の色に染まるさくらの表情を見ながら、知世は言った。
「さくらちゃんの事でお話したい事があるので、ちょっと顔貸していただけますか?李くん」
電話越しに、小狼が息をのんだのがわかった。
「ほえぇぇぇ・・・」







「・・・えーと。どういう状況なんだ?これは」
電話で指定された場所へやってきた小狼は、困った顔で頬を掻いた。
目の前には、知世とさくらの二人がいて。さくらは知世の腕にしがみついて、こっちをチラチラと見ていた。目が合うと頬を赤く染めて、知世の後ろに隠れようとする。
小狼はどうしたらいいかわからず、知世に助けを求めるが、無言で笑顔を返されるだけだった。
「二人きりの方が良ければ、私は退散しますが」
「えっ」
「だ・・・、だめぇ!知世ちゃん、ここにいて?」
二人きりは困る、と。言外にそう言われた気がして、小狼は些か傷つく。既に、ここに来た時からさくらの態度に気付いてはいたのだけれど。その原因を探るように思案すると、昨夜の出来事が浮かんだ。
「もしかして・・・昨日の事、か?」
「―――!」
さくらの反応で、自分の予想は当たっていたのだと悟る。さくらはますます恥ずかしがって、知世の後ろに身を隠した。「あらあら」と笑うと、知世は難しい顔で考え込む小狼へ視線を向けた。
「昨日の事で、李くんは何か思う事はありますか?」
「・・・いや。特に、は」
「本当に?」
「・・・・・」
すべてを見透かして、それでいてすべてを赦してくれるような知世の笑顔に、小狼は複雑な気持ちになる。照れ隠しに、やや乱暴に頭を掻くと、知世の後ろに隠れているさくらへと近づいた。
「さくらと、話がしたい」
「・・・!」
「いいか?大道寺」
真剣な顔で聞かれ、知世は笑みを深くする。
「はい。もちろんですわ」




二人きりになって、緊張は増した。昨日の出来事を思い返し、ついでに触れた体温や力強い腕の感触まで思い出して、さくらの思考はますます混迷した。握りこんだ掌が、汗をかく。
「昨日・・・」
「っ!」
「夕飯、美味しかった。帰りに持たせてくれたケーキも、すごく美味しかった」
思わず俯いていた顔を上げると、目の前に小狼が立っていた。鼓膜を震わせる優しい声と笑顔に、さくらの胸はいっぱいになった。
知らず涙が溢れ、さくらは口元を両手で覆う。
「私、ドジで。お皿割ったり、転んだりして、小狼くんに呆れられてないかなって・・・!」
「そんな事気にしてたのか・・・?」
小狼はさくらへと一歩近づくと、そっと手を伸ばした。さくらの目元を優しくなぞる指先。見つめる鷲色の瞳は、どこか苦しそうに見えた。さくらは目を伏せて、たどたどしく、気持ちを吐露する。
「小狼くんは大人で、余裕で。なのに私は、いつまでも子供っぽくて、心配かけてばっかりだから・・・。私ばっかりが意識しちゃうのも、は、恥ずかしくて」
「・・・余裕?そう、見えるか?」
低くなった小狼の声に、また困らせてしまったのかもしれないと、さくらは無意識に身構える。きゅ、と唇を結んで、おそるおそる、小狼を見つめ返した。
瞬間。強く、抱きしめられる。
「余裕なんてない。あるわけないだろ・・・!」
「ほぇ?しゃ、小狼くん・・・?」
名前を呼ぶと、抱きしめる力が強くなった。
さくらは呆然としつつも、小狼の体温にどこか安心していた。自分の両手の行き場がわからなくて、彷徨った末に、小狼の背中に触れる。
その瞬間、僅かに震えた気がした。
「・・・さくらはいつもそうだ。俺がどれだけお前にドキドキさせられてるか知らないから。昨日だって、二人きりなんて聞いてなかったぞ!」
抱きしめたまま、小狼がそう言った。
あまりに突然の事で、さくらは驚いて言葉を失う。そうしている間にも、小狼は続けた。
「兄貴も藤隆さんも帰りが遅い上に、ケルベロスはいるだろうと思ってたら大道寺に預けたっていうし!部屋着は無防備だし、料理の時のエプロンも・・・!そういう状態で自分の部屋に誘おうとするの、どうかと思うぞ!」
捲し立てる小狼の言葉に、さくらの目に再び涙が浮かぶ。
「だ、だめだった・・・?小狼くん、そういうのきらい・・・?」
「嫌いなわけないだろ!!!」
「えぇ?じゃあ、なんで・・・?」
困惑して涙声になったさくらに、小狼は奥歯を噛んだ。勢いよく体を離すと、至近距離でさくらを見つめる。
「好きだから困るんだよ!馬鹿!!」
さくらは、大きな目を瞬かせて、小狼を見つめた。
言ってから、小狼は盛大に照れた。それでも逸らさずに、さくらを見つめ返す。
「小狼くん、顔真っ赤だよ・・・?」
「ああ、そう」
「おでこ、汗・・・」
「仕方ないだろ。恥ずかしいんだ」
「・・・ぜんぜん、」
―――全然、余裕なんてなかったんだ。


「うぅ、」
「っ!?さくら、なんでまた泣くんだよ・・・!」
「だって、・・・っ、ふぇっ・・・。すき。小狼くん、だいすき・・・!」
泣き出したさくらの声と、予鈴が同時に鳴り響いた。
小狼は迷った末、さくらをの手を引いて、教室とは逆方向に歩き出した。泣いているさくらと離れるのも、他の人に泣き顔を見られるのも嫌だったからだ。
使っていない教室にこっそりと身を潜めたあと、さくらを胸に抱いて、小狼は携帯電話を取り出した。数回のコール音のあと、応答した彼女に事情を説明する。
『・・・そうですか。わかりました。体調不良ということで、先生には言っておきます』
「ああ。悪い、大道寺。ありがとう。・・・ところで、何か俺に言いたい事があったんだろ?」
もともと、呼び出された理由がそれだった。知世からどんな叱りの言葉を受けるのだろうと、小狼は密かに覚悟を決める。
すると。知世は、ほほほ、とやわらかく笑って、言った。
『李くんのおかげで、恋に迷う超絶可愛いさくらちゃんが見られましたわ。ありがとうございます』
「へ・・・?」
『お二人が、これからもずっとなかよしでいられるように。私も、協力は惜しみません。また何かありましたら、お声をかけてくださいな』



「・・・敵わないな」
通話を切った小狼の顔を、さくらが覗き込む。誰と電話してるの―――?と言いたげな、不安そうなその顔を見て、小狼の胸がきゅんと鳴った。
そっと近づいて、小狼は触れるだけのキスを落とした。
―――きっと今、二人は同じくらいに真っ赤になって、同じくらい恥ずかしくて幸せな気持ちになっているだろう。
「一時間目、さぼっちゃったね」
「・・・ああ」
「えへへ。一緒だ。嬉しい」
不意打ちの笑顔が可愛すぎて、冷静を保とうとするとまた真顔になってしまう。
こんな余裕がなくて格好悪いところ、恥ずかしくて見せられるものか。―――小狼はそう思いながら、さくらの頬を撫でるのだった。





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余裕なんてない ~さくらちゃんの場合~







彼の不機嫌は氷点下の冷気だ。暑い夏だというのに、教室内は冷え冷えだった。
「おい、李~!そろそろさくらちゃんと仲直りしたかー?」
「・・・・・ま、だ、だ」
―――ピキーンッ
軽く冗談に乗せて話しかけたところ、一瞬にして氷結した。話しかけた果敢な勇者―――もとい、友人の一人は笑顔のまま青褪め、さささ、と忍者のごとく素早く距離を取った。
呆れ顔でそれを見ていた山崎と賀村の傍に来ると、冷や汗を拭う。
「こえぇ~~~。李、今日もピリピリしてんなぁ。凍るかと思ったぜ」
「わかっててちょっかい出すなよ、西」
「いやぁ、つい。怖いもの見たさというか、度胸試しというか」
「それにしても。李くんと木之本さんの喧嘩がここまで長引くなんて珍しいよね。いつもなら、李くんから折れるじゃない。そう出来ない理由があるのかな?」
山崎の言葉に、小狼の肩が小さく震えた。ゆっくりと振り返るその顔は、まるで鬼か般若のよう。纏う空気は実に重苦しい。こんな状態が、もう五日と続いていた。
小狼とさくらが喧嘩をすることは殆どないのだけれど、たまに勃発してもすぐにどちらかが折れて仲直りするのが常だった。喧嘩をすると明らかに小狼の機嫌が降下し、仲直りをしたあとは上機嫌になる。どちらも、近しい友人だけが気づく些細な変化ではあったが。
ここ数日の喧嘩は、余程酷いものなのか、クラスメイト達が全員小狼のピリピリとした空気を感じ取る程だった。その為、小狼の席の周りは遠巻きにされていて、心なしか広く感じる。
山崎は、顎に手をやって「ふむ」と思案する仕草をしたあと、小狼へと言った。
「『木之本さん離れ』する事にしたんだっけ?」
「・・・!なんでそれを・・・。あぁ、三原から伝わったのか」
「僕と千春ちゃんは以心伝心だからね~」
悪気なく笑う山崎に、小狼の眉根の皺が僅かだが緩む。溜息をつく小狼に、山崎は尚も続けた。
「とうとう、李くんの過保護にストップがかけられたんだね。辛いねぇ」
「・・・うるさい。大体、俺はそんなに過保護じゃない。さくらが危なっかしいから目が離せないだけで」
「一般的にそれを過保護と言うんだろうな」
「賀村もうるさいぞ」
過敏に反応する小狼に、賀村は肩を竦めた。
西だけ、いまいち話を掴み切れてない。「説明しろ」と詰め寄ると、山崎は小狼を見た。小狼は嫌そうに眉を顰めたが、何も言わずにぷい、と顔を逸らす。それを了承とみなして、山崎は千春から聞いた事を二人に話した。
「事件は、週末に起きたんだ―――」




日曜日。その日二人は、街に買い物に来ていた。
さくらが、どうしても買いたいものがあるということで、小狼がそれに付きあう事になっていた。雑誌で見たというその店を探して、地図を見ながらぐるぐると彷徨っていたところ、小狼の携帯電話に着信があった。
「悪い、仕事の電話だ」
「うん。わかった」
二人で出かける時は基本的に携帯電話の電源を切っている小狼だったが、この日は仕事の隙間に無理矢理に捻じ込んだお出掛けだった為、予め電話が入るかもしれない事は伝えてあった。さくらは快く了承してくれた。こみ入った話になりそうだったので、小狼は少し離れたところで電話をしていた。
十分程かかっただろうか。通話を終えて元の場所に戻ると、さくらの姿が無くなっていた。
小狼は慌てて探した。人混みをかきわけ、いろんな店を覗いて。汗だくになって探す小狼に、見知らぬ女子が話しかけてきたりしたけれど、相手をする余裕もなかった。
その時。ある店から出てくる人影を見つけ、小狼は思わず大声で呼んだ。
「さくら!」
その声に、さくらはびくりと震えた。一緒にいる店員の男も、驚いた顔でこちらを見た。
小狼は大股で近づくと、さくらを怒った。
「探したんだぞ!なんで、一人で動いたんだ!」
「ご、ごめんなさい。お店見つけたから、小狼くんの電話が終わる頃までには戻ろうと思ってたの。本当だよ?」
弁解するさくらに、小狼は険しい顔のまま溜息をついた。
今になって、心臓が忙しなく鳴りだす。無事な姿を見てホッと安心して、頭に昇っていた血も次第に落ち着く。
―――かに、思えたが。
叱られてしゅんとするさくらに、隣に立っていた男が苦笑して言った。
「まあまあ。彼氏さんもそんなに怒らなくてもいいじゃないですか。来店して十分も経ってないし。彼女がすごく急いでたのは本当だよ。ねえ?」
小狼とは対照的に、店員の男は優しくさくらの顔を覗き込んだ。
ぴき、と。小狼のこめかみに青筋が浮かぶ。
「帰るぞ」
「・・・!ほえっ」
小狼はさくらの肩を抱いて、男から引き離す。
怒気のこもった瞳で睨むと、店員の男はその迫力に気圧される。「ありがとうございましたー」と消えそうな声で送られ、小狼はさくらを連れて店から離れた。
苛々が治まらなかった。ギスギスとした空気を解かないまま、小狼は無言で歩き続けた。人の多い道を抜けた頃、さくらが立ち止まる。
小狼は、そこでやっと気づいた。さくらの目に涙が浮かんでいる事。その表情が、悲しみと怒りの色に染まっていた事に。
「小狼くんは・・・っ、私の事、何も出来ない女の子だって思ってるの?もう子供じゃないんだよっ!一人で買い物くらい出来るよ!」
その言葉に、小狼もカチンとした。先程の、店員の男とのやり取りを思い出して、治まりかけていた怒りがまたも沸く。
「そこに行きつくまでに、散々迷っただろ。俺が隣にいなかったら、誰かに声をかけられてたに決まってる」
想像だけで、怒りがマグマのように熱を上げて噴火しそうだ。
しかし、さくらも負けじと言い返す。
「道に迷ってたらみんな声をかけるでしょ!それの、何がダメなの?小狼くんは、どうしてそんなに怒ってるの!さっきの店員さんにも失礼な態度とって・・・!」
「さくらは警戒心がなさすぎる。優しいだけじゃない人もいるんだぞ!」
「大丈夫だもん!」
「ダメだ!!」
話は平行線の一途を辿った。二人とも、全く譲る気がない。
小狼の怒りのゲージはあがり、さくらの顔はどんどん悲し気になった。
そして、最後に。さくらはこう言ったのだ。




「『小狼くんに頼らなくても出来るから。今日から、全部さくら一人でやるから!』―――と。そういうわけです」
頭を抱える小狼を、賀村と西はじっと見つめた。
最愛の彼女に、独立宣言をされて五日。どこまで構ってもいいのか、どこからが心配してはいけないのか。そのボーダーラインが測れなくて、小狼は碌にさくらに近づけなかった。
話しかけようとすると、キッと睨まれ「大丈夫!」と先手を取られてしまう。過保護禁止令、ついでに接触禁止令まで出された気分だ。
「千春ちゃん言ってたけど、木之本さん本当に一人で頑張ってるみたいだよ。授業とか、部活とか。ちょっと気負いすぎてる感もあるらしいけど」
「ん―――?まぁ、いいじゃん!さくらちゃんだって子供じゃないんだし!一人でどうにも出来なくなったら、李に頼ってくるだろ!」
「それじゃ遅いかもしれないだろ!!」
軽い調子で言った西の言葉に、小狼は勢いよく立ち上がった。そうして、物凄い剣幕で詰め寄る。
「俺が傍にいられないのに、さくらが本当に困った時に助けられるかわからないだろ。その間に、俺以外の男がこれ幸いと近づいたらどうするんだ?」
「待て待て!李、落ち着けって!悪いの俺じゃねぇ!」
「・・・あんなに可愛いのに。心配するなって言う方が無理に決まってるだろ・・・!なのにさくらばっかり余裕で・・・・・・俺だけがこんなに」


「―――あ。木之本さん」


ハッ、として教室の入り口を見ると、さくらが呆然とした表情で立っていた。
小狼とさくらはしばし、声も無く見つめあっていたが、膠着状態はすぐに解けた。さくらは勢いよく踵を返し、走って行ってしまった。
「待て、さくら!」
小狼も駆けだし、その背中を追いかけた。
その後ろから更に続こうとした西を、賀村が止める。
「お前まで行ってどうするんだ」
「だって気になるだろ!」
「確かに、ちょっと気になるね」
三人は顔を見合わせて、こっそりと教室から抜け出した。






「さくら・・・!」
中庭に差し掛かったところで、小狼はさくらを捕まえた。握った手をそのままに、肩で息をする。さくらは小狼に背を向けたまま、呼吸を整えるように胸を手で抑えた。
何を言えばいいのか、小狼は迷っていた。こうしてちゃんと話をするのは五日ぶりだ。喧嘩をしてから、電話もメールもなく、学校で顔を合わせても気まずくて、随分と距離が離れていたように感じる。
だけど、もう限界だった。こんな状態、耐えられそうにない。
ごくりと、喉が鳴る。尻込みしそうになる自分を叱咤して、小狼は口を開いた。
「さくら。・・・ごめん。この前は、酷い事言った。・・・さくらが何も出来ないなんて思ってない。俺がいなくても、大抵の事は出来るって。本当は、ちゃんと分かってるんだ」
「・・・・・」
「俺が、勝手にそう思いたかっただけだ。・・・・・いっその事、俺がいないと何も出来ない女の子ならいいのにって・・・。ごめん」
(・・・本当に、最低だ)
こちらを向かない背中に、心臓が痛みを訴える。
呆れただろうか。嫌いに、なっただろうか。想像しただけで、体温が冷える。絶望の淵に立たされる。
その時。さくらが、ぽつりと言った。
「余裕なんて、ないよ・・・」
「え?」
「さっき、言ってたでしょ?さくらは余裕で、俺ばかりって・・・。小狼くん、全然、全然わかってないよ・・・っ!」
声に涙が混じったのに気づいて、小狼はたまらない気持ちになった。手を強く引いて、さくらを振り向かせる。
大粒の涙がキラキラと零れて、濡れた碧の瞳が自分を映した。
驚く小狼に、さくらは思い切り抱き着いた。そうして、子供のように泣きだした。
「私だって、すごく頑張ったんだよ!小狼くんがいなくてもちゃんとしなきゃって。一人でも大丈夫な、大人の女の子になりたかったから。でも、でも・・・っ。すごく寂しかった!寂しかったよぉ・・・!」
「さくら」
「いつも、小狼くんに、・・・っ、心配とか迷惑とか・・・。そんなの、嫌だったんだもん。だから」
「迷惑なんて、思うわけがないだろ」
強く抱きしめると、さくらの甘い匂いがした。胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「過保護にしたいくらい、お前が大切なんだ。さくら」
「・・・ふえぇ」
さくらは小狼のシャツを濡らすほどに泣いた。小狼はその髪を撫でながら、ごめんな、と優しく謝り続けた。
濡れた頬を両手で包んで、目尻や瞼にキスを落とす。甘やかな触れ合いに、さくらの涙もだんだんと止まって、くすぐったそうな笑みが零れた。
「小狼くんの、ばか」
「・・・ごめん」
「私、子供じゃないよ?」
「それは、誰より俺が知ってる」
「でも・・・小狼くんがいないとだめなの」
「・・・俺もだ」
額と額を合わせて、視線を絡ませる。
離れてる間に、思い知った。お互いに、お互いが必要だということ。何があってもなくても、一緒にいたいと願う心。
些細な事で縺れた糸が解かれて、以前よりも強く結びつく。二人は、同じ笑顔で見つめあった。
さくらの瞼が下りて、頬に赤みがさす。小狼はその赤い目元を指で撫でると、そっと唇を寄せた。
吐息が触れて、唇が重なる。その瞬間―――。
「ちょ・・・!西くん!」
「押すな!」
「だって見えないんだよ!一番いいとこ・・・っ」
どさどさどさっ、と。
芝生に倒れこんだ三人の前に、仁王立ちの影がゆらりと近づく。
「お前ら・・・いつから聞いてたんだ?」
ここ最近ですっかり見慣れたと思っていたけれど、とんでもなかった。震えあがる程の怒気が、ごごご、と地面を揺らす。
怒りを露わにする小狼の後ろに隠れるようにして、赤い顔のさくらがいた。
「李、よかったな!過保護続行許可が下りたようなもんだろ!な、さくらちゃん!」
「木之本さんがいないと李くんがダメになるなのは、ここ数日で立証されたようなものだし」
「まったく。世話がやけるな」
うんうんと頷きながら話す三人に、小狼もさくらも顔が赤くなった。
「余計なお世話だ。大体、お前らに世話を焼いてもらった覚えはない!」
一気にその場は賑やかになって、さくらの可愛らしい笑い声が響いた。
小狼も照れてはいるものの、ピリピリとした空気はいつの間にかなくなって、表情も晴れやかだった。
それを見て、山崎や賀村、西は、密かに安堵の息を吐く。
やっと、いつもの日常が帰ってきた―――と。


「まあまあ。落ち着いて、李くん」
「お前は本当に、木之本さんの事になると・・・」
「余裕なさすぎるぞ」
「うるさい!」


今日も、友枝町は平和です。

 

2018.8.26 ブログにて掲載



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Everyday






気候がだんだんと秋めいて、街路樹が枯色に染まり始めた、9月の終わり。
千春や奈緒子の発案で、みんなでどこかに遊びにいこうという話になった。さくら達は二つ返事で了承し、その場にいなかった小狼にも電話をかけた。「その日なら多分大丈夫だと思う」という、受話器越しの返答に、さくらは満面の笑顔になった。
そんなわけで。休日、いつものメンバーで街に出かける事になった。








「さくらちゃん、その帽子可愛いね!」
「千春ちゃんのスカートも、チェック柄で可愛いよ」
「知世ちゃん、今日は編み込んでお団子にしたんだ?」
「そうなんです。奈緒子ちゃんも、眼鏡の淵の柄が紅葉になってますね」
「本当です、気付きませんでした!素敵ですね」
「秋穂ちゃんのブーツもモコモコしてて可愛いね~」
待ち合わせ場所で会って早々、女子達は秋の装いにキャッキャとはしゃぐ。それを、一歩離れたところから見ていた男子二人。山崎が溜息まじりに、隣にいる小狼へと言った。
「李くん・・・」
「なんだ?」
「その長袖シャツ、秋っぽいね!」
「・・・山崎。無理して女子のテンションに合わせなくていいんだぞ」
にこやかに親指を立てた山崎に、小狼は呆れ顔でそう言った。
今日の予定は秋らしく、『美術館巡り』と『スイーツバイキング、秋の和栗フェア』になっていた。さくらはスキップしそうなくらいに浮かれていて、誰が見てもご機嫌な様子だった。
目的地へと向かう途中、さくらは知世達と離れ、後方を歩いていた小狼の隣へと寄った。前方では、相変わらず女子達が楽しそうに話に花を咲かせている。
「いいのか?楽しそうだったのに」
「ん?・・・うん。だって・・・・・・小狼くんも一緒にお出掛けできるの、嬉しいんだもん」
最後の言葉は、隣にいる小狼にだけ聞こえるような小さな声で言った。人差し指を立てて「シー」という仕草をするさくらに、小狼の頬が赤く染まった。
小狼の隣を歩いていた山崎が、いつの間にか早足で千春の隣に移動したのは、おそらく気をつかったからだろう。少しだけ気恥ずかしさを感じながらも、小狼も嬉しさを隠しきれず、さくらへと笑った。
「今日、すごく楽しみにしてたんだぁ」
「ああ。さくら、好きだもんな」
「うん!やっぱり秋は芸術だよね!今日の為に、お父さんに本を借りて予習してきたんだよ。有名な画家さんの作品とか、歴史とか」
さくらがそう言うと、小狼は驚いた顔で目を瞬かせた。
「さくらが楽しみなのは、そのあとのスイーツバイキングじゃないのか?俺はてっきり・・・さくらは栗が好きだから」
「・・・っ!そ、それも大好きだけど!栗さんも大好きだけど!!・・・もう、小狼くんの意地悪!」
「えっ。俺は意地悪で言ったつもりじゃ」
「さくらの事、食いしん坊だって思ってるでしょ?」
「まぁ、それは少し・・・」
「小狼くん!」
さくらはポカポカと両の拳で小狼の肩を叩いた。全く本気じゃない攻撃なので、痛みよりもくすぐったさが勝る。小狼は、声をあげて笑った。さくらもつられたように笑って、二人の周りは花が飛びそうな甘い空気になる。
それを背中で感じながら、友人達は苦笑した。
「もうすっかり秋になったと思ったけど・・・まだまだ暑いねぇ」
「李くんとさくらちゃんはいつでも常夏なのよ」
「おほほほほ」
道中そんなやり取りをしながら、一行は美術館へと向かうのだった。






美術館は大きな公園の中にあって、そこでは家族連れやカップル、ペットを連れた人達で賑わっていた。広大な芝生の道を踏みしめて歩いていくと、遠くに大きな建物が見える。そこが、美術館になっていた。
「気持ちいいね。こんな日は、芝生の上にごろんって寝ちゃいたい」
「そういえば、知ってる?昔は芝生は貴族や位の高い人しか入っちゃいけないという条約があってね、庶民が芝を踏むと大変な罰が下ったそうなんだよ。その罰っていうのが」
「はいはい。山崎くん、嘘はいいから」
山崎のホラ話を遮る千春と、それを残念がるさくら達。いつもどおりのやり取り、いつもと変わらぬ光景に、さくらは笑んだ。
―――その時。
突然の違和感に襲われ、小狼とさくらは同時に辺りを見回した。
一切の音が無くなる。張り詰めた緊張感の中、さくらは驚きに目を瞠った。周りの風景が、ノイズのように乱れたかと思った次の瞬間、声が聞こえた。
「気持ちいいね。こんな日は、芝生の上にごろんって寝ちゃいたい」
「そういえば、知ってる?昔は芝生は貴族や位の高い人しか入っちゃいけないという条約があってね」
聞きなれた―――というより、先程と同じ事を繰り返している。確かに聞いた声。見た景色。進んだはずの道が、数分前に戻っていた。
「えっ!?」
思わず声を上げると、友人達が足を止めてさくらの方を見た。
「さくらちゃん。山崎くんの嘘だよ。もう!さくらちゃん信じちゃうでしょ!」
「あははは」
みんな笑っていた。さくらと小狼以外は、誰も違和感に気づいていない。
不安そうにするさくらに近づいて、小狼は言った。
「何か、おかしい。・・・カードの気配はするか?」
「うん・・・!でも、どうしよう。皆が見てるのに。・・・あ、そうだ!」
さくらは友人達がこちらを見ていない事を確認すると、木の影に身を隠した。小狼もそれを追いかける。さくらは服の下に隠した封印の鍵を取り出し、小さな声で詠唱する。
「ここにいるすべての者に眠りを与えよ・・・!『転寝(スヌーズ)』!」
ふわふわとした毛玉のようなものが、光と共に公園中を飛んだ。その光に触れた途端、魔力のない人々は眠りに落ちた。山崎達もその場にゆっくりと崩れ落ち、芝生の上に寝転がった。
空が真っ黒に染まり、ノイズのように魔力の帯が走る。チカチカと危険信号のように瞬く眩しさに、さくらは思わず目を瞑る。小狼も剣を召喚し、背中合わせに立った。
「小狼くん・・・っ、これ、なんだろう?周りの風景が、変だよ・・・!」
「・・・多分、魔力がなんらかの理由で暴走しているんだ。空間に歪みが出来ている。正常な状態じゃない」
小狼の緊迫した声に、息をのむ。さくらは不安になりそうな心を叱咤し、きゅ、と唇を結んだ。
そして、考える。先程起こった事象、ノイズのイメージ。
―――どこかで見たことがあるような気がする―――。
「・・・!わかった!これ『巻き戻し』だ!ビデオテープのノイズだよ!」
「そう言えばさっき、少し前に時間が戻っていたな。・・・そうだとすると、この状態の説明がつく。カードとカードの力が拮抗してるんだ。この場を巻き戻ししようと思っても・・・」
「そっか!『転寝(スヌーズ)』のカードがみんなを眠らせてるから、出来ないんだね。だから、カードの力がぶつかって、空間が歪んじゃったの?」
小狼は依然として険しい表情のまま頷く。原因がわかっても、解決方法がわからない。さくらは焦っていた。
ノイズと光が強くなる。何も知らずに眠っている知世達を見て、さくらの不安な気持ちは膨らんだ。なんとかしなきゃ、と。強く思ったら、足が勝手に走り出していた。
気付いた小狼が、さくらの名前を呼んで制止するが、止まれなかった。
(カードがいる場所がわかれば・・・!捕まえれば、この歪みも消える筈・・・!)
杖を握りしめて、さくらは走った。魔力が発生している場所を探ろうとするが、混乱と歪みのせいで分からなかった。
その時。
足元がぐにゃりと歪んで、さくらの体はバランスを崩して傾いた。ぽっかりと口を開けた闇に、吸い込まれる。為す術もなく落ちていく。闇に飲まれる。
足元に広がる深い暗闇に、さくらの肌がぞわりと粟立った。
(落ちる―――!!)
「・・・風華、招来!!」
ふわりと、あたたかな風がさくらの体を掬い上げて。ハッと気づいた瞬間には、さくらは小狼の腕の中にいた。
頬に落ちた冷たい雫は、小狼の汗だった。荒く息をして、見た事も無い顔をして、小狼はさくらを抱きしめた。頬を撫でて、匂いを吸い込んで。
存在を確かめるように触れた手は、微かに震えていた。
「小狼くん・・・」
整わない呼吸のまま、小狼はさくらを見つめる。さくらの目に、涙が浮かんだ。
「小狼くん、ごめんなさい。私、なんとかしなきゃって・・・」
「ああ。わかってる。・・・でも、俺もいるんだ。ひとりじゃない」
「・・・はい」
痛いくらいの抱擁に、さくらは頷いた。不安と焦りは消えて、代わりに勇気がわいてくる。
小狼とさくらは、互いの顔を見つめたあと、再び抱きしめ合った。隙間なくくっついた体から、鼓動や体温が伝わる。さくらは幼子のように身を預け、深く息を吐いた。
「・・・転寝(スヌーズ)の魔法を、解いてみる。みんなが起きちゃう前に、カードを固着する」
「それしか方法はない・・・か。わかった。俺も、全力でサポートする」
「うん!」
杖を持つさくらの手を、小狼の手が強く握る。さくらの瞳には光が戻って、口元には笑みが浮かぶ。―――ぜったいに、だいじょうぶ。―――目を閉じて、思う。
『転寝(スヌーズ)』の魔法を解除すると、暗い空が生き物のようにうねった。激しいノイズが走り、時間を逆行させる魔力が動き出す。
「・・・見つけたっ!」
さくらは走り出すと、魔力の源となっている渦に向かって、杖を振り上げた。
「主無き者よ、夢の杖のもと我の力になれ!―――『固着(セキュア)!!』」
さくらの足元を中心として魔法陣が光り、生まれたばかりの魔力は杖の先に集まる。眩い光が小さなカードへと生成され、やがてそれが全ておさまると、周りの景色は元通りに戻っていた。
さくらはカードを手に取ると、深く深く、安堵の息を吐いた。ハッとして、慌てて杖を鍵へと戻した。
「よかったぁ・・・」
緊張の反動か、一瞬、気が抜ける。さくらはやわらかな芝の上で足を滑らせ、「あ」と思った時には、視界いっぱいに青い空が映った。
倒れそうになった体を、大きな手が支える。
「小狼くん!」
「さくら。おつかれさま」
小狼は優しく微笑んで、さくらの頭を撫でた。よしよし、と労う掌が嬉しくて、さくらは子供のように喜んだ。
そうして、勢いよく小狼の胸に飛び込む。
「・・・!」
「小狼くん、ありがとう!」
「いや、俺は何も」
謙遜する小狼に、さくらはふるふると首を振った。涙目で笑うさくらの顔を見て、小狼は頬を染める。おずおずと、小狼もさくらの背中に腕を回すと、強く抱きしめた。

「・・・あっ!」
さくらは、小狼の肩越しにそれを見つけて、思わず声を上げた。
頭から湯気が出る程に真っ赤になって、震える声で小狼へと呼びかける。
「しゃ、小狼くん、小狼くん・・・!」
その呼び声に応えるように、小狼は抱きしめる力を強くした。
さくらは戸惑った。抱きしめてもらえるのは嬉しい。出来るなら、この腕の中でもっと甘えていたい。
―――だけど、気付いてしまった。
『転寝(スヌーズ)』の魔法はとっくに解けて、眠りから覚めた友人達がこちらを生温かな瞳で見ている事に。知世に至っては、いつの間にやら右手にカメラを装着して、嬉々として録画している。
「あ、あの。これは、これはね・・・!」
懸命に説明しようとするさくらに、山崎や千春、奈緒子は、笑顔のまま首を横に振った。『何も言わなくていい』と、無言で微笑まれ、さくらはますます居た堪れなくなる。
(小狼くんからは見えないから、気付いてない?み、皆が見てるのに~~~!!)
ほえぇぇぇ、と心の中で悲鳴をあげながらも、無理矢理に引き剥がす事はしなかった。そんな事、出来る筈がない。
結果的に、さくらは小狼の腕の中に大人しくおさまる。ふしゅー、と頭から湯気を噴きながら、幸せな体温に包まれて、目を閉じる。
やがて気を利かせてか、他の友人達は先に行ってるからとジェスチャーして、一足先に美術館へと向かった。
「小狼くん・・・?」
「ん?」
「あの、みんなが・・・」
「うん。わかってる。でも、あともう少し。・・・もう少しだけ」


魔法が解けて、いつもどおりを取り戻した、平和な日曜日。
仲睦まじく抱き合う可愛らしいカップルと、それを見守る人々で、和やかに時は過ぎていきましたとさ。

 

2018.9.23 ブログにて掲載


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