愛するということは、こんなにも。

『どうしてなのかな。こんな終わりしか、なかったのかな・・・。好きなだけじゃ、ダメなんだね』
『ごめんね。ごめんなさい。大好きよ。愛してる。・・・でも、さよなら』
傍にいたい。―――いられない。
逃がしたくない。―――逃がさなければ。
誰にも渡したくない。―――どうか、自分以外の誰かに。
『大丈夫。すぐに忘れる。私も、すぐに忘れるよ。君と出会う前の私に、すぐに戻るよ』


愛なんて知りたくなかった。いつか離れる運命なら、出会わなければよかった。
愛するということは、こんなにも。
こんなにも、苦しいものなのか。

 

 

 

 

Golden Apple ~優しい獣~ 第八章【2】

 

 

 

 

 

「大丈夫だから!連れてって・・・!」
「ダメだ!これ以上心配させる気か?どうせ、お前は足手まといになる。だからここで待ってろ」
「じゃあ、何のためにここまで連れてきたの!絶対に嫌!」
「それはお前が・・・っ」
続く押し問答には、終わりが見えない。どちらも譲る気が無いのだから、それも当然の事。
駅を出て、目的地へのバスに乗ろうとしたその時。さくらの顔色が悪い事に気付いた小狼は、鋭く追及した。
言えるわけがない。あのアジトで、新山にされた事をさくらは小狼に話していなかった。首に残った咬み痕でおおよその想像はついているだろうが、小狼もその話題には触れなかったのだ。
言い澱むさくらを見下ろし、小狼は不機嫌な顔で言い放った。「お前は置いていく」―――と。
そして、冒頭に戻る。
ここまで来て置いてけぼりなんて冗談じゃない、と。さくらも怒った。新山に対しての恐怖心はあるけれど、小狼をあの場所に一人で行かせることの方が嫌だった。足手まといだとしても、離れたくない。身勝手な理由だと分かっていたけれど、聞き分けられなかった。
その時。近くで、クラクションの音が聞こえた。
「こんなところで痴話喧嘩なんて、相変わらず仲が良いのね。京都は寒いのに、凍えちゃうわよ?」
「え・・・っ!奈久留先生!?なんで・・・!?」
現れたのは、担任教師である秋月奈久留だった。なぜ、京都に。そしてなぜ、車に乗って自分達の前に現れたのか。驚くさくらに、奈久留はウィンクをして言った。
「新山のところなら、私達も行くから乗せていくわよ」
「!!」
「お前、何を考えて・・・!」
激昂する小狼の脇をすり抜けて、さくらは奈久留の運転する車の後部座席に乗り込んだ。驚いた小狼がさくらを連れ戻そうと手を伸ばした瞬間、奈久留はサイドブレーキを解除した。
「さ、出発しちゃうわよー。シートベルトしてね!」
「ちょっ、馬鹿!さくら、降りろ!」
小狼の言葉に、さくらは毅然とした顔で首を横に振った。
従順に見えても、ここぞという時には絶対に折れない。その強情さと芯の強さは、長年の付き合いで分かっていた。小狼は諦めたように溜息をついて、隣に座り直す。
走り出した車の中で、さくらは途端に大人しくなった。
「奈久留の運転は荒いですから、ちゃんとシートベルトを付けてくださいね」
さくらは、その時になってようやく気付いた。助手席に、見知らぬ人が乗っていた事。その人物は、優しい笑顔でこちらを見ていた。少し安心して、さくらも笑顔で会釈をする。
すると。隣にいる小狼が怒りを強めた事に気付いて、さくらは身を縮こませた。
「僕は、柊沢エリオルと言います。木之本さくらさん、はじめまして」
「!!私の事、知ってるんですか?」
「ええ。あなたの恋人の事も。・・・李くん、お久しぶりですね」
含みのあるエリオルの言い方に、小狼の纏う空気がぴりと張り詰める。不安気に眉を下げるさくらの肩を抱いて、自分の方へと引き寄せた。わかりやすく威嚇する様子をバックミラー越しに見つめ、エリオルは笑みを深くした。
「大丈夫。あなたの大事な林檎(ノウン)を横取りしたりしませんよ」
「柊沢。お前が何をしようとしているかは知らない。だが、事と次第によっては容赦しないからな。新山と組んで何かを企むつもりなら・・・」
「李くん」
小狼の言葉を遮るようにして、エリオルは言った。しん、と車内が静まり返る。
「僕達一族が望む事は、昔から変わらない。新山和沙をどうするかは、『彼』次第だ」
「・・・それは、どういう」
その時。奈久留がやや乱暴にハンドルを切って、重心が傾いた。思わずしがみついたさくらを、小狼は強く抱き返す。
ハッとして、二人は至近距離で見つめあった。先程のやり取りを思い出して、少しだけ気まずくなる。
「あ、あの。小狼くん・・・ごめんなさい」
消えそうなくらい小さな声で、さくらは言った。
目尻に浮かんだ涙を、小狼の指が拭う。まだ半分、怒ってる。もう半分は諦めてる顔。「しょうがないな」と、心の声が聞こえてくるような気がして、さくらは新たな涙を滲ませた。
ぐん、と。今度は反対にハンドルが切られて、小狼は思わず声を上げた。
「秋月、もう少し丁寧に運転しろ・・・っ」
「あら?まだシートベルトしてないの、二人とも。死んでも知らないわよ~」
「死なせるか!」
咬みつくように言った小狼の言葉に、さくらの胸がじんとした。これから敵地に赴くというのに。ときめいてる場合じゃ、ないのに。
頬が緩みそうになって、きゅっと唇を結んだ。
胸に灯る熱に、さくらはそっと目を閉じた。










午後になっても雪は止まず、痺れるような寒さは強まるばかりだった。白に染まっていく山々を見下ろし、竜胆は息を吐いた。
突然にやってきた、月城雪兎。今は主の命により軟禁している。一緒に連れてきた女は、主の部屋に連れられたまま出てこない。きっと中で血を吸われているのだろうと、竜胆は思った。
雪兎の事を、ぼんやりと思い出していた。主の昔の同胞であり、十年ほど一緒に暮らした事があった。あの笑顔は幼少の頃の記憶にも残っている。穏やかな性格は主とよく似ていて、二人とも俗世間からは離れ、無暗に血を奪う事もなかった。それが、竜胆にとっては少し物足りなかった。
しかし。ある出来事によって、その日常が壊れる。
主は一人の女に執心し、穏やかな吸血鬼から凶暴な獣へと変貌した。次々と女を誘惑し、その純血を奪い首元に食らいつく姿に、竜胆は見惚れた。ぞわぞわと、肌が粟立つ。酷い興奮状態は伝染し、竜胆もその時、何人かの人間の命を奪った。
これこそが、自分が求めていた日常なのだと。歓喜したのも束の間、主はやってきた異邦の吸血鬼達に封印されてしまった。落胆する竜胆に、加羅は言った。
『和沙様がお目覚めになるまで、待っていましょう。大丈夫・・・私達はまだ、林檎(ノウン)に破滅させられてはいない』
『林檎(ノウン)・・・あの、ちっぽけな人間の女の事か?』
『そう。林檎(ノウン)は、私達を不幸にする。破滅の果実なの。あの蜜に、絶対に溺れてはいけないのよ』
そう言った加羅の顔には、憎しみの色が溢れていた。竜胆はその時、林檎(ノウン)の事はよくわかっていなかった。ただ、無力でちっぽけな存在が大事な主を苦しめたのだと思うと、やりきれない思いだった。
それから百年余り。加羅と一緒に待ち続けた。復活が近づいた近年、竜胆は林檎(ノウン)の血を持つ少女を見つけ、その魅惑の蜜の味を知った。忘れていた本能が呼び覚まされる感覚は、他の女の血を吸った時には無い、特別なものだった。あの味を思い出すと、体中の血が沸き立つような興奮を覚える。
竜胆の頭の中に、浮かぶ顔は二つ。泣いている林檎(ノウン)―――さくらの顔と。それを取り戻そうとあがいていた吸血鬼―――小狼の顔だった。
口元が笑みの形に歪む。堪えきれず漏れた笑い声が、高々と空に響いた。
「はははっ!!・・・どうやって遊んでやろうかな。楽しみだナァ・・・。なぁ、加羅」
寒風にふわりと舞い上がった髪が、その表情を隠す。血まみれのまま倒れた加羅は、目覚めないままだ。だが、死んではいない。主に散々痛めつけられ、竜胆に体の一部を潰されても、致命傷にはならなかった。竜胆は加羅の体を主の目に触れないところに運び、彼女自身の蘇生能力によって回復するのを待っていた。
「俺一人じゃ、つまらねぇよ。早く目覚ませよ、加羅・・・」
切なげに響いた声にも、加羅は反応しなかった。竜胆は苦笑すると、雪の中に加羅を隠すようにして、一人その場を後にした。
「―――!」
そして、見つける。
アジトに戻る途中に、遠くから近づいてくる小さな影が見えた。その中に、見知った人物達の顔を見つけて、竜胆は狂気の笑みを浮かべた。










「ここからは車じゃ上がれないわ。ちょっと大変だけど、歩いていきましょ」
整備されていない山道を無理矢理に車であがってきたが、さすがにこれ以上はいけないというところで奈久留はエンジンを停止した。
車から出た途端、吹雪く寒風にさくらは震えあがる。視界の悪い雪山で、小狼はさくらの手をしっかりと握り、先導するように歩いた。その後ろに、奈久留、エリオルと続く。
「さくら、大丈夫か?」
「うん。大丈夫・・・!でも、これじゃどこを進んでるのかわからなくなりそう・・・真っ白で、何も見えない」
目も開けていられないような雪にも、小狼は臆することなく進んでいく。さくらも、必死でそれに付いていった。だけど酷い吹雪で、前を行く小狼の姿さえも霞む。
その時。さくらの手から、小狼の手が離れた。一瞬で訪れた喪失感にぞわりと悪寒を覚えて、さくらは悲痛な声で名前を呼んだ。
「小狼くん!?小狼く・・・」
「―――来るな!!」
鋭い声で制されて、さくらは足を止めた。白い雪に阻まれた視界の中で、何かが起こっている。さくらは青褪め、胸の前で震える手を握った。
その時。後ろから肩を掴まれる。
「先に行きましょう。さくらちゃん。私達は先に進まないと」
「奈久留先生・・・っ!でも、小狼くんが!」
「気配がする。多分、あの竜胆という男よ。ここにいても、李くんの心配事を増やすだけ。さあ、早く!」
奈久留は強引にさくらを連れて歩き出す。小狼がどこにいるのか、彼の身に何が起こったのかもわからず、ただ不安でいっぱいになった。離された手の喪失感が、消えない。
すると。背中をポン、と叩かれた。振り向くと、隣を歩くエリオルが言った。
「李くんはもう負けません。大丈夫です」
確信を持った笑顔と言葉に、さくらは瞳を揺らす。
心配は募るばかりだ。それでも、信じたい。さくらは彷徨っていた手をぎゅっと握ると、祈るように目を閉じる。そうして、足に力を入れて一歩を踏み出した。
―――ぱたり。
鮮血の赤が、雪の上に落ちる。
小狼は乱暴に傷を拭うと、口の中にたまった血を吐き出した。そうして、目の前にいる男を睨む。
対峙する男―――竜胆もまた、小狼以上に傷を負い、血を流していた。不意打ちの一撃を寸でで避けた小狼は、飛び込んできた竜胆の脇腹を抉った。与えられた傷と痛みに、竜胆は嬉しそうに笑う。
「待ってたぜ。お前が来るのを」
「いい加減にしろ。金輪際、さくらの周りを飛び回れないようにするぞ」
「人を害虫みてぇに言いやがって・・・お前のそういうところ、嫌いじゃないぜっ!?」
ぐん、と体をばねのように捻って、素早く懐に飛び込んでくる竜胆を、小狼は動じることなく迎え撃つ。激しい打撃音は吹雪にかき消され、滴る鮮血もすぐに雪に埋もれていった。










その頃。さくら達はやっとの事でアジトの入り口を見つけ、ホッと息を吐いた。頭の上に積もった雪を落として、暗闇の先を見つめる。
この先にある扉をくぐれば、彼がいる。
忘れたままでいたかった恐怖が、顔を覗かせる。寒さのせいか、恐怖のせいか。さくらは、震える体を抱きしめるようにして腕を回す。
すると、あたたかな重みが肩にかけられた。見ると、エリオルがコートを脱いでかけてくれていた。さくらは驚いて、「大丈夫です」と言おうとしたが、先手を打たれるように口元に人差し指をあてて「静かに」とジェスチャーする。
さりげない気づかいに感謝して、さくらはコートを握りしめた。
(雪兎さんと、苺鈴さんを見つけて・・・小狼くんとみんなで、一緒に帰るの)
決意を新たに、さくら達は前に進んだ。扉をくぐり、音を立てないように注意しながらアジトの中を探った。
人の気配は全く感じられなかった。大きすぎるアジトには、新山と配下の二人しかいないのだから当然なのだけれど。前にも感じた、寂しさや孤独はこのせいかもしれないと、さくらはふと思った。
ある道に入ると、さくらは足を止めた。ここを抜け出すまで幽閉されていた部屋の扉が見えたからだ。さくらの様子に気付いた奈久留が、声をかける。
「大丈夫です・・・。もしかしたら、雪兎さん達がその部屋にいるかもしれません」
さくらは近づいて、ドアノブを回す。しかし鍵がかかっていて、開く気配はなかった。
(私が逃げ出した時、ここは開いてた。誰かが、逃がしてくれた・・・?)
あの時、扉の前に落ちていたシロツメクサ。ポケットの中に入れたそれを思い出した途端、さくらの胸が小さく痛んだ。
頭の中に、見渡す限りのシロツメクサとクローバー。幸せの四葉を探す手と、笑い声。自分の記憶の中には、ない。なのにこんなに鮮明に、思い出せる。
切なくて、あたたかくて、不思議な感覚だった。
あの夢を、見た朝のように。不意に涙がこみ上げる。
(ここにいる時だけ、感じる。これって・・・櫻子さんの・・・?でも、どうして?)
「さくらちゃん、大丈夫?」
奈久留の呼びかけに、さくらは我に返った。心配そうにのぞき込む二人に笑顔を返す。この部屋には、誰もいないようだった。
その時。エリオルが何かを感じ取り、歩き出した二人を止めた。
「何か、聞こえる・・・。呻いているような声・・・」
その微かな音を頼りにして、エリオルは歩き出した。さくら達もそれに続く。迷路のような道を進んでいくと、さくらの耳にも聞こえた。その声の主には、心当たりがあった。
さくらは青褪めて、歩調は駆け足へと変わった。どうか、違いますようにと願いながら、懸命に走る。
重い扉を開くと、その声はクリアになって聞こえた。
「あっ、あぁぁ・・・っ!!いや、いやぁ・・・!!」
「苺鈴さん・・・!!」
ベッドの上で小刻みに震える苺鈴の姿に、さくらは駆け寄った。目の焦点はあっておらず、さくらだと認識も出来ないようだった。苦しみもがく姿は、堂々としたいつもの苺鈴とは正反対で、まるで別人だった。縋るように伸ばされた手を握って、さくらは苺鈴を抱きしめた。
「彼女の体は、最早死を待つしか出来ない。でも、それは彼女が望んだことだ」
「―――!」
「新山・・・。まさかお前、彼女に自分の血を」
エリオルの言葉に、和沙はにっこりと笑って頷いた。そうして、さくらへと視線を合わせると、嬉しそうに笑んだ。
「戻ってきてくれた。櫻子・・・。よかった。やっぱり君は、私のところに戻ってくると思っていたよ」
近付く和沙に、さくらは涙を浮かべた。畏怖や嫌悪、そして憐れみ。様々な感情が混ざって、声にならない。さくらは、ふるふると首を横に振った。
「動くな。・・・柊沢エリオル。わかっているな。無用な殺生はしたくない。お前たちにとっても、林檎(ノウン)は残しておきたい価値があるのだろう?」
助けようと動いた奈久留とエリオルの動きを、和沙は制する。さくらと苺鈴は、和沙の手の中にある。下手に動くわけにはいかなかった。
和沙はさくらの顎を掴むと、自分の方へと向けさせた。そうして、全身を舐めるように見つめたあと、ぺろりと舌なめずりをする。
さくらの全身が、その瞬間、硬直した。獣に蹂躙される餌は、こんな気持ちなのだろうか。恐怖で動かなくなった思考が、そんな事を考える。
「心配するな。君を私から遠ざけようとした罪人は、もういないよ。加羅は死んだからね」
「・・・加羅さんが、私を・・・?」
「そう。あいつは、昔もそうした。櫻子に要らぬことを吹き込んで、村から追い出した。そのせいで、私は櫻子を失ったんだ。同じ事は繰り返さない。君はもう、私からは離れられないのだから」
和沙の手が、さくらの首に伸びる。襟元を強く掴み、破った。弾け飛んだボタンと衝撃に、さくらは悲鳴をあげる。露わになった首と胸元には、赤い花びらが散らばっていた。
和沙が付けた咬み痕に、まるで上書きをするようにして。小狼が付けた所有の証が、幾重にも刻まれていた。先程の新幹線の中でも、秘密に交わった想い。小狼の真新しい咬み痕が、じんと熱を持つのを、さくらは感じた。
和沙の顔には、もう笑顔は浮かんではいなかった。
それを見ても、さくらは恐怖に委縮する事はなかった。小狼から与えられた傷や痛みが、勇気をくれる。何よりの『お守り』だった。
「どうして君は、私の言う事を聞かないんだ。櫻子・・・。悪い子には、仕置きをせねばならないな」
喉元を強く抑えられ、さくらは苦しそうに眉を顰める。しかし怯むことなく、真っ直ぐに睨み返した。
「私は、櫻子じゃない。あなたの櫻子さんは、もういないよ」
「・・・?」
「あなたも、新山和沙じゃない。私の中にある櫻子の記憶に、あなたはいない。・・・あなたは、誰?」
その問いかけに、和沙は不思議そうに目を丸くした。みるみるうちに、動揺が露わになる。
さくらの首に触れていた手が、小さく震えて。その目は、迷子になった子供のように頼りなく揺れた。
「櫻子さんと一緒にシロツメクサで遊んだ、あの日の和沙さんじゃない。私、夢で見たの。和沙さんは、優しくて穏やかな人だった」
「・・・さい」
「本当のあなたはどこにいるの?加羅さんは、私や櫻子さんじゃなく、『あなた』を助けたかったんじゃないの・・・!?」
「―――うるさいっ!!」
和沙は、激昂して叫んだ。
さくらは咄嗟に、肩にかけていたコートを投げる。視界が塞がった隙に和沙の手から逃れた。
苺鈴を抱いてベッドから抜け出すと、奈久留が駆け寄りそれを助けた。そして、痙攣をおこしている苺鈴の様子を注意深く探り、緊迫の表情で言った。
「すぐに病院に連れて行かないと・・・!このままじゃ、命にかかわるわ」
「奈久留先生!お願いします!苺鈴さんを、死なせないでください!」
「わかってる・・・!エリオル」
呼びかけに、エリオルは強く頷いた。奈久留は苺鈴を抱き上げると、走って部屋を出て行った。
「櫻子を本当に愛していたのは私だ。そして、櫻子も私を愛していた・・・。『私』が、新山和沙だ。アイツじゃない・・・!」
「・・・?」
和沙は長い白髪を掻きむしるようにして、同じ言葉を繰り返した。『アイツじゃない』―――その言葉にどんな意味があるのか、さくらにはわからなかった。
だけど、ずっと心の中にあった違和感が、強くなった。
(そうだ。・・・一番最初にこの人が目覚めた時。あの時の、優しそうな笑顔と涙・・・。櫻子さんの夢に出てくる和沙さんと、同じだった)

「・・・そう。君も、新山和沙には違いない。林檎(ノウン)である櫻子に惹かれ、その血を飲んだ時から生まれた。君は、和沙の本能が前面に出た新たな人格。『獣』だ」
「―――!」
「雪兎さん・・・!」
現れたのは、雪兎だった。狂乱する和沙に近づくと、悲しそうな表情で見つめた。
和沙は、言葉を発しなかった。目を剥いて雪兎を見つめ返し、身を小さくして僅かに後退する。突き付けられた真実から目を背けるように、長い髪をかき混ぜ、表情を隠す。
「違う・・・」
「分かっている筈だ。加羅が従うのは、主である『和沙』にだけ。それは、今も昔も変わらない。加羅は、君の命令で櫻子を逃がした。そして、さくらちゃんの事も。全部、君自身がやったことだ。和沙」
「違う!!」
雪兎と和沙のやり取りを、さくらは少し離れたところから見ていた。視界が滲んで、息が苦しくなる。さくらは、自分が泣いている事に気付いた。流れ込んでくる記憶が、自分の事のように心を締め付ける。
泣いているさくらを、和沙はただ見つめていた。
「櫻子さんは、あなたを愛していた。だけど、それを和沙さんは拒んだ。幼馴染の男と幸せになれ、って。笑顔で、背を押して・・・。だから櫻子さんも、あなたから離れる事を選んだ。本当は、獣になって自分の血を求める和沙さんも、逃がそうとする優しい和沙さんも、同じくらい愛してたのに。離れたくなんかなかったのに・・・!」
自分から遠ざけようとする和沙と、逃がすまいと縛り付ける和沙と。
二つの人格を作り上げたのが自分自身と知った櫻子は、自責の念に押し潰されそうになりながら、離れる事を選んだ。
その想いを痛いくらいに感じたさくらは、静かに涙を流した。
エリオルは新山の前へと進み出ると、言った。
「封印される前、新山和沙は柊沢の祖先に、自分を封印するようにと頼んだ。封印が解けて再び目覚めるまでに、この気持ちはきっと消える。そうすれば、獣の人格も消える筈だと。泣きながら、頼んだそうだ」
雪兎は頷くと、更に続ける。
「そう。だから、僕たちは約束をしたんだ。もしも封印が解けた時、獣がまだ生きていたら。・・・再び、君を封印しなければいけない」
そうやって、何度でも繰り返す。
恋心が無くなるまで。獣の人格が消えるまで。櫻子を、忘れるまで。―――何度でも。
「だめ・・・っ」
悲痛に叫ぶ声に、和沙はゆっくりと顔をあげた。
泣きじゃくるさくらが、幼い頃の櫻子と重なった。和沙の形相が、変わる。憑き物が落ちたように穏やかになり、さくらへと一歩近づいた。
「・・・どうして、君が泣くの?」
「っ!わ、わからないけど・・・、ダメだって思うの。だって、櫻子さんはあなたを愛してて・・・こんな風な結末を望んでたわけじゃなかった。ただ、一緒にいたいって。なのに、それだけじゃダメだったの?」
「・・・・・」
「どうして、二人で生きていってはダメだったの?どうして・・・!こんな終わり方しか、なかったの?」
さくらの言葉は、そこで止まった。
振り払えないほどの強い力で、抱きしめられていた。背中に回った和沙の手が、震えている。それが伝わると、抵抗しようと動いた体が、止まった。
「和沙・・・!さくらちゃんを離せ!」
雪兎の声が近くで聞こえる。しかし、強く抱きしめられているさくらには、何も見えなかった。お気に入りのおもちゃを取り上げられまいとするように、さくらを抱きしめる力が強くなる。
「雪兎。私だ。・・・本当の、和沙だ。今、獣は大人しくなっているから安心して・・・」
人相や纏う空気が違う事は、誰が見ても明らかだった。穏やかな語り口と笑顔は、元の和沙そのものだった。
なのに、嫌な予感が消えない。雪兎とエリオルは、警戒を解かずに近づく機会を窺う。
「ずっと後悔していた。櫻子と出会った事。獣という人格を作り出してしまった事。櫻子を手放してしまった事も・・・どこかで後悔していた。もう一度、やり直せるなら。何も恐れずに愛したい・・・。初めて、獣と意見が合ったよ」
「和沙。さくらちゃんは、櫻子じゃない。・・・離すんだ」
雪兎の言葉に、和沙は笑顔で首を振った。緊迫した空気に、心臓の音が早くなる。
「まずい。このままさくらさんを連れて行かれたら・・・!」
嫌な汗が頬を伝う。一歩でも動けば、和沙はさくらを攫って行くだろう。本気になった和沙を、ここにいる全員で止められるかどうか。それに加えて、さくらは和沙の手の内にいる。
均衡状態は、しばらくの間続いた。
さくらは、和沙の強い拘束から逃れようと必死にもがくが、びくともしない。和沙はさくらを抱きしめて、その耳元で囁いた。
「櫻子。今度こそ、一緒に・・・私と一緒に」
「―――!」




その時。
竜巻のように風が渦を巻いて、さくらの髪を舞い上げた。触れていた体温が離れ、その拍子に膝から力が抜ける。
傾いたさくらの体を、力強く引き寄せる手。抱かれた瞬間に、さくらの目に涙が浮かんだ。
「小狼くん・・・!」
泣きじゃくるさくらを左手で抱きしめると、小狼は右の拳を再び振り上げた。そうして、先程小狼の一撃を受けてもなんとか踏みとどまっていた和沙の頬に、容赦なく拳を打ち込んだ。
それでも和沙は倒れない。よろめきながら、小狼とさくらを睨み上げた。

「・・・間違えるな。お前の櫻子じゃない。これは、俺のさくらだ」



 

 

 

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2018.2.22 了


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