或る新婚夫婦の憂鬱










その日。さくらの気持ちは、我慢の限界に達した。
「もぉぉ!怒ったんだから・・・!」
「・・・?さくら?」
小狼の顔が、驚きの色に染まる。それを見て少し申し訳ない気持ちを抱きつつも、怒りを止められなかった。
抱きしめようとしていた小狼の胸をおして、拒絶の意を示す。小狼は困惑しながらも離れて、窺うようにそっとさくらの顔を覗き込んだ。そして、ぎょっと目を剥く。
碧色の瞳にいっぱいの涙をためて、さくらは小狼を睨んだ。そうして、ゆっくりと口を開く。
「私、怒ってるんだから!」
「な、なにを?何を怒ってるんだ、さくら。俺、何かしたか?」
全く自覚がない。本気でわからないと言った顔で聞く小狼に、さくらの怒りは頂点に達した。
―――どうしてわかってくれないのか。どうして、自分はこんなに怒っているのか。わからなくて、それがどうしようもなく心をモヤモヤさせた。
だから、さくらは決めた。
「しばらくは、私に触るの禁止!私も、小狼くんに触らない!!」
「え・・・。えっ!?なんで・・・」
「もう決めたの!触っちゃダメなんだからね!」
突然の拒絶に、小狼は困惑した。盛大に抗議をしたいところだったが、さくらの泣きそうな顔を見るとどうしても怯んでしまう。今まさに、抱きしめようと動いた小狼の手を、制するようにさくらが掌を突き出す。
「だめっ」
「・・・・・しばらくって、いつまで?」
不服そうに眉を顰めて、小狼は言った。零れる溜息を境に、二人の間には険悪な空気が流れる。さくらは、ふるふると首を振るだけで答えなかった。
12月の年の瀬。今年もあと二日となった、今日。前触れなく爆発したさくらの怒りにより、二人の間で『接触禁止令』が発令された。






「さくら。年越しの準備、どうする?蕎麦とか食べるって言ってただろ」
窓を拭いていたさくらは、後ろからかかった声に反応してくるりと振り向いた。そうして、笑顔で答える。
「うん。お蕎麦食べるよ。だって年越しは蕎麦じゃないと!あとで、お買い物に行くつもり」
「そうか。じゃあ、俺が買ってくるよ。床掃除終わったから、色々買い出し行ってくる。他に何かあるか?」
「うん。ちょっと待ってね」
あらかじめ書いておいた買い物メモを引出から取り出し、小狼へと渡した。
その時。指と指が触れそうになって、二人の表情がハッとなる。小狼は素早くさくらの手からメモを引き抜くと、動揺を見せない顔で笑った。
「窓掃除、手伝うか?」
「ううん。ここで終わりだから、大丈夫だよ。・・・お買い物、お願いします」
小狼は笑顔で頷くと、部屋を出て行った。気配が完全になくなったのを確認すると、さくらは深く息を吐いた。
一瞬で変わった空気。ぴりりと張り詰めた緊張感から解放された瞬間、脱力してその場に座り込んだ。
さくらは窓に背を預けて、膝に顔を埋める。後悔と寂しさで、心は限界にきていた。全部、自分のせいなのに。今の状況が、苦しくて仕方ない。
(どうしよう・・・)




結婚して、初めての冬。年越しを二人で過ごすのも初めてで、さくらは秋の頃から楽しみにしていた。一緒に年越し蕎麦を食べようとか、初詣に行こうとか。そういう話を、小狼ともしていた。
だけど。年の瀬に、事件は起こった。
さくらが小狼に接触禁止令を出した。それが、昨日の事。小狼は渋々ながらも了承し、それ以上は理由を聞かなかった。さくらも自分で言った手前、小狼から離れていたのだけれど。小狼の方は、すぐにいつも通りの態度を取り始めた。
喧嘩なんかしていなかったみたいに、こちらに笑いかける。呆気にとられるうち、さくらも怒っていたことを忘れて普通に笑い返してしまった。
だけど、一切触れない。
抱きしめたり、キスしたりも無かった。一緒のベッドに寝る時も、優しく「おやすみ」と言ってくれるけれど、それだけだった。
(私が言った事を、小狼くんは守ってくれてる。いつも通りに出来るのは、それが小狼くんにとって簡単だから・・・?)
不安が胸の中を渦巻くも、さくらはすぐに思い直す。もとはと言えば、自分が言い出したことなのだ。小狼は何も悪くない。
(・・・ううん。小狼くんだって全然悪くないってわけじゃないよね。そもそも小狼くんが・・・っ!だから私も怒って、あんなこと。・・・でも。私、それをちゃんと小狼くんに伝えてない)
ぐるぐる、頭の中を回る。一向に答えが出なくて、どうしたらいいのかわからなくなる。普段通りに過ごして、一緒の家で暮らしているのに。触れないだけで、こんなに遠く感じるなんて思わなかった。
さくらは浮かんだ涙を隠すように、膝を抱え込んだ。








「・・・さくら。さくら。大丈夫か?」
声がして、さくらはぼんやりと覚醒した。いつの間に眠っていたのだろう。窓の外は、すっかり夕方になっていた。
小狼は買い物袋を手に屈んだ姿勢で、心配そうにこちらを見ていた。さくらが「大丈夫」というと、ホッと胸を撫でおろす。
「小狼くん・・・おかえりなさい」
「うん。ただいま」
いつもなら、手を伸ばして「起こして」と甘えたりする。ぎゅっと抱きしめてくれる手が嬉しくて、ずっとこうしていたいと思う。
触れ合える喜びは、何にも代えられないのだと。こうなってから、気付いた。
なのに。今、二人の間にぽっかりと空いた隙間が、寂しくて仕方ない。
(やっぱり、やだ・・・!)
自分勝手だと罵られてもいい、呆れられてもいい。ちゃんと話をしよう、と。さくらは決心した。
「蕎麦、作り始めちゃうか。もうお腹空いたよな」
「小狼くん、あの・・・っ」
「・・・あ。その前に。ちょっといいか?」
さくらの言葉を遮って、小狼があるものをポケットから取り出した。小狼の持ち物にしては、やけに可愛らしいピンク色をしていた。さくらは、それを見て驚いた顔をする。
「ハンドクリーム?」
「掃除したり洗い物したりしたから、塗った方がいいと思ったんだ。・・・さくら。手、出して?」
小狼にそう言われて、さくらは深く考えずに自分の手を差し出した。小狼は嬉しさを堪えるようにはにかんで、さくらの手に触れた。
外気に冷やされて、少し冷たくなった小狼の手。先程まで眠っていた為か、ぽかぽかとあたたまったさくらの手。二人の手が触れた瞬間、心の中がじんわりとして、さくらは泣きそうになった。
小狼はハンドクリームを手に取ると、さくらの右手を丁寧に塗り始めた。マッサージするように、労わるように、優しく触れる。何度も何度も、繰り返す。
お互いの顔を見れずに、ひたすらに繋いだ手を見つめていた。
さくらはなんだかおかしくなって、笑った。そうして、もう片方の手も小狼に差し出す。小狼も小さく笑って、新たにクリームを出してさくらの左手に塗った。
「ふふっ。気持ちいい」
笑ってそう言うと、小狼は上目づかいでさくらを見つめた。
「・・・あの、さくら」
「小狼くん、さくらの事いっぱい考えてくれたの?」
笑顔で尋ねるさくらに、小狼は面食らった顔をして、数秒後に顔を真っ赤にした。それでもハンドクリームを塗る手は止めず、居た堪れないというように視線を落として言った。
「すごく考えた。さくらがなんで怒ったのか分からなかったから。俺が、ちゃんと考えなきゃだめだと思った・・・。結局、わからないままだ。ごめん」
「私、小狼くんは平気なのかと思ってた」
「平気なわけないだろ・・・!理由はわからなかったけど、このまま・・・さくらに触れられないのは絶対に嫌だって。かなり悩んで」
「それで、ハンドクリーム?」
小狼は、こくりと頷いた。顔はあげないまま、ハンドクリームを塗った手をマッサージしてくれる。その姿が、叱られてしょげている子犬のように見えて、さくらの胸がきゅんとした。
心の中のモヤモヤが晴れて、やっと素直になれる気がした。
「私も、ごめんね。ちゃんと言わないで、一方的に怒っちゃって」
「さくら・・・。理由、教えてくれるか?」
触れている手を、ぎゅっと強く握る。さくらは頬を赤らめて、小狼を見つめた。
「・・・だって。小狼くん、結婚してからいっぱい、いっぱいキスするから・・・。キスだけじゃなくて、それ以上もいっぱい・・・」
「え?だ、ダメだったか・・・?嫌だった?」
小狼の顔が、さぁっと青褪める。
結婚して、一緒に暮らし始めて。二人を隔てる壁はなくなって、このうちの中はまさしく『二人の愛の巣』になった。―――結婚する前も十二分に触れ合っていた二人だったが、一緒に暮らすようになればその頻度は必然的に増えていった。
しかし。それを嫌がられていたとは思ってもいなかった小狼は、途端に不安になる。
「嫌じゃないよっ!!でも・・・、ダメなの!だって、小狼くんにキスされると何も考えられなくなって、ちゃんとお話しようと思ってた事とか忘れちゃって・・・!この前は一緒に行こうと思ってたスイーツバイキングの予約の日を忘れちゃうし、DVD返却も忘れて延滞金がかかっちゃったし、大学のレポートも溜まってくし・・・!私の頭の中、小狼くんばっかりになっちゃうんだもん!!」
一気に捲し立てるさくらの剣幕に、小狼は呆然とした。
「・・・だから、ね。小狼くんに触れられるのが嫌なんじゃないの。でも、このままじゃ私がダメダメになっちゃう気がして」
「ごめん。全然、気付かなかった。無意識で・・・。朝起きた時とか、仕事から帰ってきた時とか、さくらが家にいる事が嬉しくて。さくらが、すごく可愛いから・・・」
言いながら、小狼の顔は赤く染まる。それにつられて、さくらの顔も茹で蛸のように真っ赤になった。
恥ずかしくて仕方ないけれど、この先も伝えなければならない。さくらは意を決して、口を開いた。
「でもね。やっぱり、小狼くんに触ってもらえないのは・・・寂しい。すごく、寂しかった」
「さくら・・・」
「自分で言っておいて、すごく勝手だと思うけど・・・!でも、私」
―――ちゅ。
「・・・っ!」
「あ・・・。ごめん、体が勝手に」
「~~~っ!まだお話の途中なのに・・・!もう!小狼くんのばか・・・っ」
さくらはそう言うと、今度は自分から小狼へと飛び込んで、キスをした。
不意打ちの仕返しに、小狼は目を瞠る。
一日触れていなかっただけなのに、随分と久しぶりな気がした。体と心が恋しがっていたのだとわかる。一度触れたら、箍が外れたように止まらなくなって。二人はお互いに、唇を寄せた。
長いキスの終わりに、ちゅ、と音を立てて触れる。
至近距離で見つめあい、何とも言えない顔で黙り込む。喧嘩のあとの気恥ずかしさと、仲直りの嬉しさと。体に点った確かな熱の行き所を探して、指を絡め強く繋ぐ。
「・・・これからは、ほどほどに。なるべく、気を付ける」
「わ、私も。流されないように、気を付けるね」
―――自信はないけど。
お互いに飲み込んだ言葉に、苦笑を零す。
二人で床に座り込み、お互いの手を繋いだまま話をしている状況は、傍から見るとなかなかに異様だ。
安心したら空腹を覚えて、二人は揃ってキッチンに立った。年越し蕎麦の準備をしているうちに、辺りは暗くなって星が瞬き始める。
今年最後の、夜。大事な人と一緒に笑い合えている事は、最高に幸せだ。さくらは、隣にいる小狼を見て微笑んだ。
「さくら・・・。接触禁止令って、もう解除になった、よな?」
「ん?んー・・・。どうしよっかな」
わざと意地悪に笑って見せると、小狼は複雑そうな顔で眉を顰めた。
「いっそのこと、除夜の鐘で煩悩を払ってもらうか・・・。いや、無理だろうな」
大真面目に言った小狼のセリフに、さくらは声を出して笑った。


「来年もよろしくね。旦那様」
「こちらこそ、奥さん」

 

 

~2017.12.31 ブログにて掲載

 

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ひめごと




※ちょっとアダルティな雰囲気あります!
※クリアカード編の初々しい二人が好きな人、中学二年生でキスとか早い!という人にはおすすめしません(汗)









友枝中学校の中には、小さな庭園がある。その中でも、白薔薇がたくさん咲いているその場所が、さくらはお気に入りだった。
校舎から少し離れているから、滅多に人が来ない。だから、誰かに聞かれてはまずい話―――例えばカードの事とか。そういう秘密の話をするのには、最適な場所だった。
中学二年生になると、その場所に行く理由が、ひとつ増えた。


「知世ちゃん。行ってくるね」
「はい。さくらちゃん、行ってらっしゃい」
知世は笑顔でそう言ったあと、さくらへと近づいて耳打ちした。―――「李くんによろしくお伝えください」と。瞬間、さくらの顔が真っ赤に染まる。知世はにっこりと笑って、さくらの背を押した。
教室を出て、白薔薇の庭へと急ぐ。だんだんと歩調が速くなって、早歩きから小走りに変わる。さくらの頬が、自然とほころんだ。
恥ずかしくて、心がそわそわして、落ち着かない。小狼が帰ってきて、二人が再会して。友達以上の『なかよし』な関係になってから、一年が経過した。
二年生に進級してから、二人の距離も少しずつ縮まっている。
「小狼くん!」
「さくら」
先に到着していた小狼は、近づいてきたさくらの気配に笑って。読んでいた本から目を上げて、名前を呼んだ。
あたたかな午後の陽光が、幾重に生い茂る葉の隙間から降り注ぐ。涼やかな風が二人の髪を舞い上げて、熱くなった頬を撫ぜる。
さくらは、どうしても緩んでしまう頬を手で抑えると、小狼の隣に腰を下ろした。
「昨日と違う本だね」
「ああ。もう読み終わったから」
「そうなんだ。今日の本、おもしろい?」
「読んでみるか?」
他愛のないやり取りが嬉しくて、小狼といる時のさくらはいつも以上に笑顔だった。それは小狼も同じで。他の誰も見たことがないような、優しく甘い笑顔で、さくらを見つめていた。
さくらが、小狼の本をぱらぱらと捲る。内容よりも、小狼が今まで触れていたという事実が、さくらの心を高揚させた。
挟まっていた栞を指先で撫でた瞬間。自分よりも大きな手に包まれて、さくらの心臓が大きく跳ねた。
「・・・ごめん。びっくり、したか?」
さくらは顔を赤らめて、ふるふると首を横に振った。
肩が触れるくらいの、近い距離。目の前に、小狼の端正な顔があって、目が離せなくなった。
小狼の手が、さくらの手を握る。大きくて、骨ばっていて。自分とは違う、男の子の手。さくらの恋心を刺激するには、十分だった。
さくらは本を横に置くと、「えいっ」と心の中で気合を入れて、小狼の肩口にポスンと頭を置いた。
「さ、さくら・・・。そんなに近づかれると」
「・・・?だめ?」
「そうじゃなくて。・・・ドキドキしてるの、バレるから」
少しだけ震えた小狼の声に、さくらの心臓もうるさいくらいに大きくなる。触れたところから伝わって、伝染して。もう、どちらの心音なのかもわからない。
「私も、ドキドキしてるよ?小狼くんよりも、もっとドキドキしてる」
「・・・うん」
小狼の胸に身を預けて、繋いだ手にぎゅっと力を入れた。至近距離で見つめあう。数秒だけど、永遠みたいに長く感じた。
小狼が、僅かに動いて。さくらの顔に、影がかかる。
(あ・・・。これ以上、近づいたら・・・。どうしよう。学校なのに、いいのかな)
吐息が唇に触れて、さくらはぎゅっと目を閉じた。心音が、大きくなる。
二人の唇が、触れる寸前。あと数センチという距離のところで、小狼が突然に動いた。
「!?ほえぇ!?」
「・・・シッ」
困惑するさくらの耳に、第三者の声が入り込んできた。
「すごーい!こっちの方、来た事なかったね」
「薔薇、綺麗だね。学校が管理してるんだよね?すごーい」
弾んだ高い声が、静寂を破った。やってきた女生徒数名は、アーチの中をくぐり、見事に咲いた白薔薇を見上げて笑う。
その様子を、小狼とさくらはこっそりと見ていた。
二人とも顔が赤い。それも致し方ない事。もう少しで、唇が触れるというタイミングだったのだから。
人の気配を察知した瞬間、小狼はさくらを抱き上げて隠れた。白薔薇のアーチの中には、ちょうど死角になる場所があった。ベンチの後ろにある、小さなスペース。茂みの中は二人で入るには狭く、ぎゅうぎゅうに抱き着いてなんとか収まっている格好だった。
「どうして隠れたの・・・?」
「なんとなく・・・」
こっそりと問いかけると、彼にしては珍しい不明瞭な答えが返ってきた。その横顔は照れているようにも、拗ねているようにも見えて。隠れているドキドキと相まって、さくらの胸が苦しくなった。
今、目の前ではしゃいでいる女子生徒達は、おそらく入学したての一年生だ。自分達も、初めてこの場所を見つけた時はあんな感じだったな、と。懐かしさに、胸がじんとした。
しかし、次の瞬間。
さくらは、驚きに目を見開いた。
「・・・っ!ひゃ・・・」
「!!」
思わず声を上げると、小狼がハッとしてさくらの唇を手で塞いだ。
「今、なんか声しなかった?」
「そう?わからなかった。猫とかじゃない?」
すぐ近くにいる女生徒達の声が、二人の心音を速めていく。
こんなところに隠れている事を知られたら、恥ずかしい上にどう言い訳してもおかしな取られ方をされてしまう。小狼は、心の中で早く立ち去ってくれることを願った。
そうして、目の前にいるさくらの様子が変わったことに気付く。小狼が心配そうに覗き込むと、さくらは頬を赤く染めて、涙目になって言った。
「・・・や、なんか・・・変なところ、が」
「え?」
「小狼くんの、足、が・・・」
「!?!」
小狼はその時になって気づいたようで、さくらに負けず劣らず、顔を林檎のように赤く染めた。
二人は急遽狭いスペースに入った為、かなり無理な態勢になっていた。さくらは、座り込んだ小狼の上に跨っている格好になっていて。全身がぎゅうぎゅうにくっ付いている。
その事実だけでも、意識すれば正気でいられないくらいに刺激的だというのに。あろうことか、さくらの足の間に小狼の足が入り込んでいたのだ。
まだ誰も触れた事のない秘密の場所が、小狼の無遠慮な膝小僧に侵入されている。『小僧の分際で!!!』―――小狼の脳裏に、さくらの相棒であるケルベロスの罵倒する姿が浮かんだ。
焦った小狼は、どうにか態勢を変えようと動いた。
「ひゃ・・・っ、だ、だめ。動いちゃ、だめ!」
「―――!!」
二人は真っ赤な顔で見合ったまま、固まった。
さくらは、自分の口から出た声に驚いていた。こんな声、知らない。震える体も、熱くなる指先も。今、胸にこみ上げている感情も、何もかもが初めてのものだった。
「小狼くん・・・」
縋るように見つめた先、小狼が見た事のない顔をしていた。少しだけ切なそうに揺れる瞳と、何かを堪えるように顰められた眉と、ぎゅっと結んだ唇。
赤い顔が、近づく。
「・・・んっ」
先程おあずけになっていた感触が、突然に降った。さくらは反射的に目を閉じて、暗闇の中で唇のやわらかさを追った。ちゅ、ちゅ、と何度も触れたあと、深く合わさる。
息が苦しくて開いた唇から、熱い舌が入り込んできて、さくらは驚いて目を開けた。
「ん・・・、っ、しゃおらん、くん・・・」
「・・・さくら・・・」
「だめ。みつかっちゃ・・・、あっ」
「大丈夫。もう、誰もいないから」
小狼の膝がまたも動いて、さくらは強い刺激に震えた。それが、偶然なのかわざとなのかは分からない。だけど、二人の熱をあげるには十分だった。
隙間なくぴったりと合わさった体と、唇。お互いにぎゅうぎゅうに抱き着いて、夢中になってキスをした。
白薔薇の庭園。秘密の場所で、誰にも見つからないように隠れて、触れ合う。背徳感が恋の熱を上げて、初めての領域へと二人を進ませていく。
「ん・・・っ、小狼くん、小狼くん・・・」
「さくら・・・可愛い。もっとしたい」
「・・・ほえぇ、も、だめ・・・」
眩暈がするくらいに刺激的で、ひたすらに甘い。
薔薇だけが見ていた―――二人の秘め事は、日が沈む頃まで続いたとさ。






「さくら。そろそろ帰ろう?」
「こんな顔で帰ったら、おにいちゃんになんて言われるかわからないよぉ。ね、小狼くん。私の顔、まだ赤い?」
「・・・少し」
「ふえぇ。小狼くんのせいだよぉ・・・」
「ごめん」
「小狼くんが大好きって、顔に出ちゃってる気がするもん」
「・・・じゃあ、帰らないで。もう少し、一緒にいる?」
「そんな事したら、ずっと家に帰れなくなっちゃうよ!」

 

 

2018.1.27 ブログにて掲載

 

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600秒の逢瀬


 

パラレル設定のお話です。

 

 

 


「あっ、待って知世ちゃん。少しだけ時間ある?」
前を歩くスーツ姿の女性、大道寺知世は、ひとつに結った髪を揺らして振り返る。
声をかけたのは、木之本さくら。些か似合わないサングラスをさげて、窺うように見つめる。
知世は、なんとなく察しがついていた。笑みを堪え、あくまで事務的に答える。
「次の予定は○○局で取材と撮影、そのあとはボイトレレッスンが入っています。分刻みのスケジュールです」
「うん……」
沈みそうになったさくらの肩をぽんと叩いて、知世はこっそり言った。
「10分だけ、ですよ?」
「!!ありがとう、知世ちゃん……!」
さくらはパッと顔を輝かせると、急いで戻っていった。知世は「ふふ」と笑って、携帯電話を取りだし手配する。
売り出し中の人気アイドル、木之本さくら。
彼女の、少しの「休息」の為に。






こんこん。
楽屋の名前を確認して、さくらの動悸が増す。すう、はあと深呼吸をしていると、扉が開いた。
「はい……。おや、素敵なお客様だ」
「あ、あの!すいません突然に。小狼くんは、いますか?」
「はい、どうぞ」
楽屋に通してくれた紳士的な青年に、さくらはぺこりとお辞儀をした。中に進むと、こちらに背を向けているその人がいた。
「あの、小狼くん……!こんにちは!」
「………」
「今日、私も偶然この局でお仕事で、さっき小狼くんの名前が見えたから会えるかもって思って!知世ちゃ……マネージャーさんに無理いって会いに来ちゃったの!迷惑かもって思ったんだけど、私、どうしても」
勢いで喋り続けるさくらだったが、ふと、相手の反応がないことが不安になった。こちらに背を向けたままで、返事もしてくれない。
その時。後ろから来た青年が「失礼します」と微笑んで、さくらの横を通って小狼へと近づく。
笑顔のまま、小狼の耳からイヤホンを抜いた。
その瞬間、小狼は怒った顔で青年を見た。
「おい、邪魔するな柊沢!用がある時は筆談で」
「すいません、急を要する事態と判断しました」
「なに……」
そこでやっと、小狼の目がさくらの方を向いた。
驚きに見開かれる、鷲色の瞳に見つめられ、さくらは恥ずかしそうに頬を染めた。
ひらひらと手を振って、にこりと笑う。ファンに何千回と送っている『アイドルの笑顔』と比べると、なんともぎこちない。
「さくら……っ!、な、なんで!?」
「ごめんなさい、あの、すぐ移動しなきゃならなくて。でも少しでも、あ、会いたくて」
「!」
「連絡もしなくて、驚かせてごめんなさ」
さくらの言葉は途中で止まる。なぜなら、その手が一回り大きな小狼の手に触れられたからだ。
小狼は無言で、自身のマネージャーである柊沢へと視線を送る。それだけで察したのか、柊沢は笑顔で楽屋を退出した。
扉が閉まると同時に、小狼はさくらを抱き締める。
「…….会いに来てくれて嬉しい。さくら」
「!ほんと……?」
「ああ」
照れくさそうな小狼の顔を間近で見られて、さくらの顔が真っ赤に染まる。嬉しくて、堪えきれない笑みがこぼれた。
「小狼くん、今度映画に出るんだよね?」
「ああ。今、台本読んでいたんだ。俺、周りの音を消さないと集中できないから。それでイヤホンをつけていたんだ」
気づかなくてごめん、と謝る小狼に、さくらはふるふると首を横に振った。
人気アイドルと、人気俳優。二人の恋は、誰も知らない秘密の恋。
こうして人目を忍んでは、連絡したり会いに行ったりしている。少しの時間でも、会えるのが嬉しい。
小狼に抱き締められながら、さくらは幸せに浸っていた。
しかし、はっと気づいて時計を見る。
「もう戻らなきゃ。小狼くん、あのね」
「ん?」
「会えたら渡したいと思って持ち歩いてたの。これ……」
さくらは鞄から、小さな包みを出した。小狼がそれを開けると、テディベアのキーホルダーが入っていた。
「私が今度出すシングルの特典についてくるの。その色だけ、他の人と違うんだ。試用品で……」
「さくらの、髪の色に似てるな」
小狼はそのテディベアを優しい目で見つめたあと、ちゅ。と唇を寄せた。
「ーーー!」
そのしぐさに照れて動揺していると、小狼はさくらの手を握って強く引き寄せる。
そうして、同じように優しく、唇を重ねた。
「……ありがとう。今度お返しする。俺も、さくらに何かあげたい」
「小狼くん……」
「今度は俺が、会いに行くから」
待ってて、と。
耳元で囁いたあと、小狼はさくらを強く抱き締めた。




「ごめん……!知世ちゃん、ごめんね、時間」
「大丈夫。問題ありませんわ!手配済みです。さ、乗ってくださいさくらちゃん」
用意された黒塗りの大きなワゴン車に乗り込んで、さくらは大きく息をはいた。
まだ熱い唇に、そっと指先で触れる。
(もう。十分におかえし、もらってるよ……)
次に会えるのはいつになるだろう。
その時に思いを馳せて、さくらは幸せそうに目を閉じた。



 

2018.5.21 Twitterであげたものをブログにて再掲載

 

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一年の計は・・・?








新しい年になった。
昇っていく初日の出を一緒に見て、今年もよろしくと笑顔で言い合った。
それから。ぴかぴかの青空の下、二人で初詣に行った。
「あ!さくらちゃんと李くん!あけましておめでとう~!」
「今年も仲良しですわね」
「李!お前新年からうらやましいぞ!!」
地元の神社だと、同級生や知った顔ぶれに出くわす。冷やかされても、小狼はさくらの手を離さなかった。さくらも恥ずかしさはあったけれど、それ以上に嬉しくて堪らなかった。
お参りをして、おみくじを引いて。帰りに、屋台で買ったお好み焼きを半分こして食べた。「ケロちゃんが飛んできそうだね」なんて、笑顔で軽口を言いながら、楽しい時間を過ごした。
そのあと、二人は木之本家に向かった。年越しのお泊りのあとなので、家族に会うのは少し気恥ずかしかったけれど。小狼がきちんと挨拶をしてくれたので、桃矢もあまりうるさくは言わなかった。
藤隆が振る舞ってくれたおせちを食べたあと、小狼はマンションへと帰っていった。
「なんやなんや?さくら、溜息なんかついて。小僧と年越し出来たんやろ?楽しなかったんか?」
「そんな事ないよ・・・。楽しかったから、今すごく寂しいの。もう、会いたくなっちゃった」
ベッドに身を投げて溜息を繰り返すさくらに、ケルベロスは「やれやれ」と苦笑した。やわらかな手で頭を撫でたあと、いつも通り部屋にあるテレビゲームを始める。
二日間、小狼と一緒にいたためか、さくらの乙女心はいつも以上に高まっていた。ベッドの上でごろんごろんと動き回ったあと、今度はしばし硬直し、小さく奇声をあげたりする。昨夜の事を思い出すと、さくらの顔は真っ赤になった。
ぼふん、と布団をかぶって、携帯電話を起動する。
(もう会いたい・・・って、言ったら。小狼くん、なんて言うかな。困るかな)
悩んだ挙句、メール画面に文字を打ち込んだ。
送信したあと、さして時間を置かずに返信メールが来た。さくらは食い入るようにして、画面を見つめる。
『俺もだ。明日、さくらがよかったらまたうちに来ないか?少しやることがあるから、あまり構ってやれないかもしれないけど』
小狼からの返信に、さくらの顔がぱぁぁ、と明るくなる。嬉しさを堪えきれず、足をばたつかせて、急いで返信をうつ。ケルベロスが何事かと飛び上がるが、さくらの浮かれた鼻歌を聞いて、呆れた顔でテレビゲームを再開した。
(やった!また明日も、小狼くんに会える・・・!嬉しいよぉ)








(・・・って、思ってたのになぁ)
翌日。さくらは、小狼のマンションの部屋にいた。
約束通り、昼前にここに来たさくらは、用意してきた食材で簡単なお昼ご飯を作った。それを二人で食べたあと、小狼は食器を持って立ち上がって、さくらに言った。
「片付けは俺がやるから、さくらはリビングでくつろいでいてくれ。少し、仕事をしてくるから」
「ほぇ・・・?お仕事?お正月なのに?」
「ああ。どうしても今日明日で仕上げないといけないんだ。ごめん。なるべく早く終わらせるから」
申し訳なさそうな小狼に、さくらは笑顔で首を振る。
―――そうだ。突然に会いたいと言ったのは自分で、小狼はもともとの予定があった。それは分かっていた事なのだから、我儘を言ってはダメだ。
さくらは寂しい気持ちをぐっと奥に押し込んで、書斎に向かう小狼を見送った。
それから、約一時間。さくらは、二杯目の紅茶を淹れにキッチンに立った。その時、書斎の方を覗いてみた。小狼が出てくる気配はなく、しゅんとする。
テレビを見ても、雑誌を読んでも、楽しくなかった。近くにいるのに、顔も見られないし声も聞けない。押し込めていた寂しい気持ちが、だんだんと大きくなっていく。
小狼が書斎に入って、一時間半を過ぎた時。さくらは思い立ってソファから立ち上がり、真っ直ぐに書斎へと向かった。
こんこん、とノックをする。すると、すぐに扉が開いた。
「さくら。ごめんな、待たせて。もうすぐ終わるから」
「もうすぐ・・・?って、あとどれくらい?」
「ん・・・、そうだな。あと30、いや一時間くらいか。もし退屈なら、大道寺に電話して・・・、!?」
小狼の言葉を遮るように、さくらは抱き着いた。小狼は持っていた書類を逃がすように両手を上げて、戸惑いの表情でさくらの頭頂部を見つめる。
「さ、さくら?」
「・・・あと一時間なんて、もう待てないよ」
「っ!」
見上げたさくらの表情を見て、小狼は息をのむ。その頬が真っ赤に染まるのを見て、さくらの胸がきゅんと恋の音を立てた。
寂しかった分、好きという気持ちが大きくなっていく。その気持ちに、突き動かされる。
さくらは、可愛らしく頬を膨らませて、小狼の腕の中から問いかける。
「小狼くん。知ってる?一年の計は」
「・・・元旦にあり?」
「ううん!一年の計はお正月にあるのっ!!お正月にお仕事ばっかりしてたら、一年間ずっとお仕事になっちゃうんだから・・・!私、そんなのヤダよぉ」
さくらの言葉に、小狼は思わず笑った。色々とツッコミどころはあるけれど、こんなに可愛い恋人を前にして、どんな言葉も意味を無くす。
やるべきことは一つ。小狼は嬉しそうに笑むと、手に持っていた書類を机に投げた。そうして、さくらの体を抱きしめ返した。
「そうだな。じゃあ、正月中はずっとさくらと一緒にいないと」
「うん。そうだよ。・・・さくらの事だけ考えてて?」
「考えるだけでいいのか?」
小狼の吐息が、耳元にかかる。さくらは小さく震えたあと、間近で見つめる小狼の瞳を見つめ返した。
「・・・小狼くんの意地悪」
互いに唇を寄せて、我慢していたその距離をゼロにした。
抱きしめ合って、キスをして。堰を切ったように溢れだす想いが、止まらなくさせる。小狼はさくらの体を抱き上げると、そのまま寝室へと向かった。
―――それから。
さくらが一人待たされた時間の、倍以上をその寝室で過ごす事となり。気付けば、窓の外は暗くなっていた。
微睡みから目覚めたさくらは、小狼の肌の感触に我に返る。同時に、今しがたまで愛し合っていた記憶や痕跡を目の当たりにして、湯気が出るほど真っ赤になった。
小狼はさくらの髪を指で梳いて、覗く耳や額にキスを落とした。飽きずにそれを繰り返し、ベッドの上でさくらはひたすらに甘やかされる。
このままでいると、またも熱がぶり返しそうだ。さくらは小狼の胸に頬ずりをして、ぽつりと言った。
「あ、あの。お仕事、邪魔してごめんなさい・・・。今さら、だけど」
我に返ったら、自分の幼さが恥ずかしくなった。
謝るさくらの唇を、小狼が塞いだ。ちゅ、と音をたてて吸われ、僅かに開いた隙間から舌が差し込まれる。
「・・・ん、・・・っ」
おずおずと舌を絡めると、小狼の手がいいこいいこ、と褒めるように髪を撫でる。その感触に、ぞくりと体が反応して。さくらは、自ら舌を差し出してキスに応えた。
「一年の計は正月にあるんだろ・・・?一年中、さくらとこうしていられたらいいのにな」
「小狼くん・・・っ」
「言ったのはさくらだからな?責任もって、俺に愛される事」
さくらが返事をする前に、またも口づけられる。布団が宙に舞って、小狼の体が上に覆いかぶさった。
その重みと熱を全身で受け止めて、さくらは幸福に満たされていくのを感じた。
(今年も一年・・・、ずっと小狼くんと・・・)


寝室から聞こえてくる甘い声は、夜まで途切れることなく続いたとさ。







おまけ


「そもそも、一年の計は元旦にありって・・・そういう意味じゃないぞ」
「ほぇ?お正月にしたことがその年に影響するんじゃないの?」
「もともとは、一年の目標や計画を年のはじめに立てて実行しようって事で。諸説あって、由来は中国の・・・。って、こら。さくら、聞いてるか?」
「むにゃ・・・だって、小狼くんが寝かせてくれないから・・・。・・・くぅ」
寝息を立て始めたさくらに、小狼は呆れる。しかしその無邪気な寝顔に絆され、口元を抑えて黙り込んだ。
「・・・ああ、くそ。・・・早いところ、嫁に来てくれないかな」
今年こそ、と。密かに決意した小狼と。
何も知らずに、幸せそうに眠るさくらと。
「小狼くん・・・だーいすき」

それぞれのお正月の夜が、静かに過ぎていくのでした。

 

 

 

~2018.6.1 web拍手掲載



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