それは甘い20題

 

08. 寸止め

 

 

 

 

 

―――ぴんぽーん。
チャイムの音に、さくらは勢いよく立ち上がった。ぱたぱたと、忙しなく駆ける。光でいっぱいの明るい玄関。扉の奥に、透けて見えるシルエット。どうしたって頬は緩み、心は浮かれる。
小さく深呼吸をしたあと、扉を開けた。するとそこには、同じくらい緊張した面持ちで小狼が立っていた。学校では見られない彼の私服姿に、さくらの動悸が激しくなる。
「おはよう、さくら」
「おっ、・・・はよう!小狼くん。どうぞ!」
思わず上擦ってしまった声に、さくらは赤面する。小狼にも緊張が移ったのか、二人して顔が赤くなる。スリッパを出そうと屈んださくらの後ろから、賑やかな声が聞こえた。
「玄関先でなにモタモタしてんねん、小僧!はよ入らんかい!クッキーが冷めてまうやないか~!!」
緊張感を壊すケルベロスの呑気な声に、小狼とさくらはガクッと脱力する。しかしおかげで、妙な強張りはなくなった。二人は顔を見合わせて同時に笑った。
「お邪魔します」
「はい!どうぞ!」
うららかな日曜日の午後。小狼が、木之本家へとやってきた。
(ほえぇ、どうしよう・・・。緊張、してきちゃったよぅ)










「この『what』は関係代名詞で、こっちの単語にかかってくるんだ。訳し方は、まず・・・」
(はぅ。なんだかすごく・・・期待しちゃったけど。今日は、お勉強する為に来てもらったんだよね)
目の前で広げられた英語の教科書に、小狼がペンを走らせる。説明はわかりやすく、苦手なさくらにも根気強く教えてくれる。おかげで、少しだけコツが分かってきたような気がした。
しかし。勉強を始めて早一時間。その間、雑談もなくひたすらに問題を解いていく。少しだけ集中力が途切れてきた頃、さくらは急に、目の前にいる小狼の事が気になりだした。
小狼が自分の部屋に入るのは、多分はじめてで。兄も父も用事で出払っているから、一応『二人きり』の空間なわけで。ケルベロスはクッキーを食べたあとお腹いっぱいになって、引き出しの中で眠っている。
この状況を、嬉しいと思ってしまう自分は不純だろうか。勉強よりも気になる事があると言ったら、小狼は呆れるだろうか。
伏せられた目、長い睫毛。動く唇に、目がいってしまう。どうしても、意識してしまう。
「さくら?」
「ほえっ!」
「・・・?わかりにくいところ、あった?」
途中から、相槌も忘れて見惚れていた。不安そうに尋ねる小狼に、さくらは真っ赤な顔で「そんな事ないよ!」と言った。小狼がせっかく教えてくれているのに、無関係な事に悶々としている自分が恥ずかしくなる。
焦って問題を読み込むさくらを見つめて、小狼は口元に手をやって静かに息を吐いた。その頬が赤く染まっている事に、さくらは気づいていなかった。
「休憩、するか。そろそろ、集中も切れる頃だろ?」
「あ・・・っ。ごめんね、小狼くん」
集中していない事を見透かされて、さくらは謝った。小狼の手が、しょげるさくらの頭をぽんぽんと撫でる。向けられる優しい笑顔に、恋心は加速して。二人はしばし、近い距離で見つめあった。
「の、飲み物!持ってくるね」
さくらはそう言って立ち上がると、階下へと降りた。一人の間に気持ちを落ち着けなければ。キッチンに入ってグラスを用意しながら、さくらは溜息をついた。
(今日は学校じゃないし、小狼くんとお部屋で二人きり・・・。誰かに邪魔される事もない、よね)
ひとときの休憩時間に、もしかしたら―――。と、浮かんだ想像に、頭から湯気が出るくらいに照れた。さくらは恥ずかしい思考を追い出すように頭を横に振った。
「大丈夫か?さくら」
「えっ・・・、小狼くん!?どうしたの?」
「いや。手伝おうと思って降りて来たんだ」
挙動不審な行動を見られていた、と。さくらは落ち込む。だけどそのさりげない優しさが嬉しい。
いつも自分が立っているキッチンに、小狼がいる。その事実に、殊の外ドキドキした。
「ティーポットは?」
「あ・・・。えっと、その戸棚の上なの」
「よし」
小狼は手を伸ばして戸棚の扉を開き、置いてあったアイボリーの陶器を取り出す。自分よりも背の高い小狼の横顔、首筋、喉仏、鎖骨が覗く。
さくらの胸がきゅう、と苦しくなって、知らず体が動いていた。
「・・・!?」
小狼が驚いているのが伝わる。当然だ。突然に抱き着かれたのだから。衝動的に動いてしまったあと、はっ、とさくらは我に返る。恥ずかしくて、顔が上げられなくなってしまった。
小狼は手に持ったティーポットを静かに置くと、腕をさくらの背中に回す。
「さくら・・・?どうした?」
問いかけに、さくらは答えられず、抱き着いたまま首を横に振った。
小狼が、小さく溜息をついた。
(・・・小狼くん、困ってる?)
さくらは不安になった。突然にこんな事をして、小狼が戸惑うのも無理はない。
謝って、離れよう。言い訳はあとで考えればいい。そう思って、腕の力を緩めた。
しかし。そうする前に、もっと強い力で抱きしめられる。驚くさくらの耳に、小狼の溜息まじりの声が聞こえてきた。
「すごく困る。さくらから、こういう事されると」
「!!ご、ごめんなさい!すぐ離れるから・・・っ」
羞恥から涙まで出てきた。さくらの言葉尻にかぶせるように、小狼が耳元で囁いた。
「せっかく、我慢してたのに。・・・多分、勉強どころじゃなくなるから」
「・・・っ!?」
腕の力が緩んで、小狼がさくらの顔を覗き込む。その表情は真剣で、強い瞳に惹きつけられる。さくらは金縛りにあったように動けなくなった。
「さくら・・・」
吐息交じりの低い声に心臓を揺らされ、さくらは目を閉じた。
しかし、唇が触れる寸前に。
―――ぴんぽーん。
「木之本さーん!お荷物届いてますー!」
突然の第三者の声に、さくらは思わず小狼の胸を突っぱね距離を取った。驚いた表情で固まる小狼との間に、気まずい空気が流れる。
しかし。玄関先から催促の声が響き、さくらは逃げるように背をむけた。
(ほえぇ~~~!こんな、こんなタイミングで・・・っ)
「木之本」の印鑑を伝票におして、笑顔で去っていく宅配業者に会釈をする。届いた小包は桃矢宛だった。
「うぅ、お兄ちゃんに邪魔された気がする・・・」
はぁ、と。どうしようもないボヤキと溜息が零れる。
その時。リビングから、小狼がこちらを見ている事に気付いた。さくらは、すぐに駆け寄る。
「ご、ごめんね。小狼くん」
「いや、いいんだ。お茶入ったから、部屋に戻ろう」
小狼はいつもと同じ笑顔で、先程の事などなかったような口調で言った。さくらの方は、色々な動悸が混ざって落ち着かず、冷静な小狼が少しだけ憎らしくなった。溜息ひとつで気持ちを治めると、小狼の後ろに続いて階段を上る。
(せっかく、いい雰囲気だったのにな。また、お勉強モードに戻っちゃうのかな)
再び出そうになった溜息を、寸でで堪える。
部屋に戻ると、勉強道具の隣に淹れたての紅茶のポットとカップを二つ置いた。小狼は腕時計を見て、ぽつりと言う。
「蒸らし時間は、あと2分くらいか」
「そうなんだ!じゃあ、それまで・・・」
テレビでも見ようか、と。リモコンに伸びたさくらの手を、小狼が突然に握った。驚くさくらに、小狼は笑って。自分の方へと引き寄せる。
「・・・!!」
小狼は開いた両足の間にさくらの体を招き入れると、後ろから抱きしめた。
背中越しに伝わる体温や鼓動、顔が見えないという状況に、さくらは動揺する。だけど同時に、小狼の匂いに包まれて幸せな気持ちにもなった。
「あと2分・・・こうしてていいか?」
「う・・・、うん。いいよ・・・?」
自分の声よりも、心臓の音の方が大きく聞こえる。小狼の声が耳元で響くから、いつまでも残って消えない。
これまでも、抱きしめてもらったり、キス・・・も、何度か経験した。だけど。少し状況が違うだけで、気持ちも変わる。
誰もいない、二人きりの部屋。背後から強く抱きしめられて、小狼の腕の中に閉じ込められているような気分になる。
(な、なにか・・・話さなきゃ。変な事ばっかり考えちゃう!)
「あ、あの・・・、いい香り、してきたね。紅茶の・・・」
「ん・・・。でも、今はさくらの匂いがいい」
「ほぇ!?や、ダメ・・・!ひゃあっ!」
小狼は、さくらの首筋へと顔を近づけた。触れたのは、やわらかな唇。その瞬間、変な声が出てしまって、さくらは恥ずかしくなる。
「さくらの匂いが、一番好きだ」
「・・・っ!小狼くん、ずるい」
好きなんて言われてしまったら、抗える筈がない。瞬間、強張っていた体の力が抜けて、さくらは小狼へと身を預けた。
小狼はさくらの頬に触れ、視線を合わせる。潤んだ瞳で、拗ねたように唇を尖らせるさくらに、小狼もまた酷く動揺する。ギリギリのところでとどまっていた理性が、揺らいだ。
「そろそろ、時間だよ・・・?」
「わかってる。でも・・・ごめん、我慢できない」
小狼の余裕のない表情に、さくらは真っ赤になった。無言のまま、小さく頷く。そうして、ゆっくりと目を閉じた。
キスを待つさくらの表情に鼓動を激しく打ち鳴らしながら、近づく。小狼の喉がごくりと上下する。
ここは学校じゃない。邪魔するチャイムも、呼びに来る友人も、注意する教師もいない。二人きりの部屋で、大好きな人と触れ合える。
―――一度触れてしまったら、どうなるかわからない。それでも。
「さくら・・・」
「小狼くん・・・」


「そろそろおやつの時間やな―――!!!」


大きな音を立てて机の引き出しが開き、中からお風呂スポンジ・・・もとい、封印の獣であるケルベロスが飛び出した。
そうして、目の前にある予想外の光景に、ぱちくりと目を瞬かせる。
「何やっとんのや?勉強するんやなかったんか?」
不可解そうに尋ねるケルベロスに、さくらは慌てて言った。
「しっ、してるよ!勉強!!ね、小狼くん!!」
「・・・ああ」
さくらの持っている教科書は逆さまで、小狼はなぜか大の字になって床に寝転がっていた。明らかに不自然な二人ではあったが、ケルベロスの関心は幸運な事に、おやつの方にあった。
「お茶淹れておいてなんで茶菓子用意しとらんのや!お父はんが用意してたケーキがあったやろ!?」
「わ、忘れてたー。あはは・・・。と、取ってくるね。ケロちゃん手伝って!」
「おう!!」
開けた扉から、ケルベロスは張り切った様子で飛んで行った。さくらはホッと胸を撫でおろすと、部屋の中に戻り、小狼の傍に駆け寄った。
「ごめんね・・・小狼くん」
「もう一人いたの、忘れてた」
「私も・・・」
さくらは小さく笑うと、小狼の頬に触れるだけのキスを落とした。
呆然とする小狼だったが、何かを言おうとすると、階下からケルベロスの急かす声に邪魔される。さくらは「はーい」と返事をして、部屋を出て行った。
小狼は起き上がり、放っておいたままのティーポットに手を伸ばした。カップに注いで、一口飲む。
「・・・苦い」
―――邪魔が入って、残念なのか助かったのか。気持ちは複雑だ。
眉間の皺を指で伸ばしながら、小狼はまた一口、濃くなってしまった紅茶を飲むのだった。


 

 


 

END

 


2018.4.11 了


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