「李・・・、小狼くん?」
「・・・ああ」
彼女の声で、名前を呼ばれる。それだけの事で、なぜか嬉しくなった。
よく考えてみれば、同年代の人とは仕事でしか接点を持たない。当然、本名を明かすこともないから、こうやって家族以外に名前を呼ばれるのは、随分と久しい事だった。
子供のように胸を躍らせて、小狼は真正面にいるルームメイトを見つめる。ルームメイト―――さくらは、未だ驚きが拭いきれない表情で、同じように目の前の人を見つめた。
今現在、正体も性別も偽って、ある失踪事件の真相究明の為、この女学院に潜入している。正体がばれたら、終わり。それ以上の調査が出来ないとなれば、依頼主の信用を失い、家業の名に傷がつくことになる。
だから、秘密は絶対厳守でなければならなかった。
しかし。秘密を知ったさくらは、他の生徒に言いふらすどころか、助けてくれた。何も事情を知らないのに、庇ってくれたのだ。怪しむ生徒達に追及されても、その口を割らなかった。
シャワー室に隠れている間に、小狼は決意した。
「どうして、女装してまでここに来たの?」
さくらの問いかけに、小狼は真剣な顔で向き合う。
すべてを、話すことに決めた。




 

 

 

 

 

ルームメイト 【2】

 

 

 

 

 

学院の朝は、早い。夜が明けきらない頃に目覚め、全員が整列し、点呼を取る。それから、聖堂にて祈りを捧げる。終了後、校舎と聖堂の清掃作業。それを終えてからの、朝食となる。
「・・・ふあぁ」
「ミス・木之本。神前で、はしたない」
「わっ。す、すいません」
欠伸を漏らしたさくらを、シスターが咎める。恥ずかしそうに謝る彼女の姿を、小狼は少し離れたところから見ていた。
そうして、一時間目の授業が始まる。ここから午後までは、普通の学生となんら変わらない。
「み、みなさん!席についてください!授業をはじめますよ・・・!」
担任であるシスター・マリーの、やや覇気の無い呼び声を合図に、授業が始まった。
そうして。休み時間になると、小狼の周りにはたくさんの生徒が集まってくる。
「李さん、とても頭がよろしいんですのね」
「李さん、すごく優しいの。背も高くて、さっきも上の棚にあるものを取ってくれたのよ」
「李さんって、どこか謎めいた雰囲気を持っていて素敵だわ」
生徒達の話題は、専ら転入生の事で持ちきりだった。無理もない。彼女達はこの学院から出る事はほとんど無く、娯楽も真新しい話題もない。それほどに、小さな世界で生きているのだ。
小狼は、群がる女子達に愛想笑いを返しつつ、少人数になったところでそれとなく聞き込みをしていた。
「・・・え?御門さんの事?」
「そう。ルームメイトに聞いたんだ。突然いなくなってしまった、御門明日香さんって人。どんな人だった?」
聞くと、ほとんどの生徒は同じ事を口にした。
「すごく優しい人だったわ。みんなに親切で、話も面白くて」
「人気だったの!優しくて格好良くて、背も高くて!そういえば、李さんに似てるかも?」
「最近は体調不良で姿を見かけなくなってしまったけれど。心配だわ・・・。同室の木之本さんから、何か聞いてない?李さんが、御門さんの部屋に入ったんでしょう?」
逆に質問されてしまって、その勢いにたじろぐ。たくさんの人に話を聞けたのは好都合だったけれど、有力な情報を持っている人にはなかなか当たらない。
聞き込みを続けるうち、もう一つの情報が出てきた。
「御門さん。一部の人にはきつく言われてたみたい。・・・ほら、同じクラスの直井さん。目の敵にしてたみたい。え?理由?御門さん成績がよかったから、ライバル視してたんじゃない?」
「泉唯奈ちゃんと揉めてるの、見たよ。なんか普通じゃない様子だったっていうか・・・御門さん、滅多に怒らないのに。その時は余程頭にきたのか、怒鳴ってたもん」
―――直井文乃。
―――泉唯奈。
御門明日香に関わっていた人物として挙げられるのは、この二人だった。
そして。
「ルームメイトの木之本さくらちゃんと、すごく仲が良かったよ。さくらちゃんも、御門さんの事、お姉ちゃんみたいに慕ってて。本当の姉妹みたいだった」
「明日香ちゃんがいなくなって、一番落ち込んでたよ。最近は元気になってきたけど、いなくなってからすぐは、見ていられなかった」
―――木之本さくら。
御門明日香にとって、一番近しい友人。
(やっぱり、この三人か・・・)
休み時間。自習室という人気のない部屋で一人、小狼は、生徒達に聞いた情報を頭の中で整理する。
くるくるとボールペンを回しながら、手元にある小さな手帳に目を落とした。そこには、学院の規律が細かく書かれている。
ここでは、私物の持ち込みは制限される。携帯電話やパソコン、ゲームや漫画と言った、娯楽になるものは禁じられ、用意された書物のみが許されていた。月に一度の物資販売では、生徒一人一人の注文品をシスター達がチェックし、不要と思わしきものや禁じられているものは却下される。
外にいる者とのやり取りは、手紙に限定される。しかし、家族や親戚以外のものは本人の手には渡らない事が多い。
(まるで監獄だな・・・)
その点についても、他の生徒達に聞いてみた。しかし、驚くことに不満を言うものは殆どいなかった。曰く、『最初からなかったものだから、それが普通になっている』との事。
それを聞いて、小狼は納得した。ここは外の世界とは断絶されている。情報も入ってこなければ、必要ともしていない。だから、この体制に不満を持つこともないのだ。
知らないのだから、求める事もない。それを、不幸だとは思わないだろう。少なくても、ここにいる者達にとっては、幸福な事なのかもしれない。
「李さん」
冷たい声で名前を呼ばれ、一瞬、身構える。声で、それが誰なのかは分かる。そろそろ来る頃だろうと思っていた。
「直井さん。どうしたんですか?」
「あなたの、最近の行動は目に余ります。御門さんの事を聞きまわっているそうですね?そして、ここの暮らしについても・・・。他の生徒達に悪影響です。一体、どういうおつもりですか!?」
「ただの気まぐれです。外から来ると、この学院はとても興味深いので。それとも、調べられては困る事でもあるんですか?」
ヒステリックに叫ぶ直井の目を、小狼は真っ直ぐに見た。数秒の睨み合いのあと、直井は僅かに視線を落とす。ずれた眼鏡を直して、小さく言った。
「そんな事、あるわけないでしょう!・・・あの部屋の住人は、皆、問題児ばかりで困ります!」
その言葉に、小狼の眉根がぴくりと動く。立ち上がり、直井へと近づいた。
視線を落としていた直井は、自分に影がかかっている事に気付いて目を上げた。身長差のせいで、見下ろされる形になる。
無言の圧力を感じて、直井はぐっと押し黙った。しかし、負けじと強気に睨み返す。
「な、なんですか・・・っ!?」
「問題児ばかり・・・って、御門明日香さんの事ですか?二人は、よく言い争っていたそうですね。何が原因だったんですか?」
「っ!し、知りません!なんなんですか、あなた!こんな、勝手な事を・・・!きゃあっ」
取り乱した直井は、床に足を滑らせた。バランスを崩して転びそうになったところを、小狼の手が支える。抱きしめられる形になっている事に気付いて、直井は顔を赤らめて小狼の胸を押した。
「離して!!もう、大丈夫ですから!!」
小狼は沈黙のあと、体を離した。威圧した空気を一瞬で消すと、苦笑して言った。
「すいません。怖がらせるつもりはなかったんです」
「・・・っ!私は、怖がってなんかいません!!」
「失礼」
そう言って、小狼は彼女の黒髪に手をやった。乱れた髪を手早く直してやると、直井の顔がみるみるうちに赤くなっていく。怒りのせいか、それとも。
「二人でなんの話してるのー?」
突然に割り込んできたのは、泉唯奈だった。この展開も、小狼は大体想定していた。抱き着かれそうになったのを、ひらりと避ける。
泉の登場で、直井の顔は更に強張る。
「泉さん。なんの用ですか?今、李さんは私と話を・・・」
「シスターが委員長の事探してたから、教えにきてあげただけだよ。早く行った方がいいんじゃない?」
「っ!それは、本当ですか?」
疑い深い直井に、泉はにっこりと笑って「もちろん!」と言った。渋々といった顔をして、小狼と泉の二人を見てから、直井はその場を離れていった。
姿が見えなくなると、泉は憎たらしく舌を出した。それを見て、小狼は小さく笑う。
「今の、嘘だな」
「あはっ。わかっちゃった?だから、今のうちなの!怒った委員長が帰ってくる前に、どこか行っちゃいましょ?」
泉は、小狼の腕を取って上目遣いでねだる。その手をやんわりと外して、聞いた。
「随分、仲が悪いんだな。直井委員長と」
「見たらわかるでしょ?あの人、唯奈と全くタイプが違うんだもん!考え方も全然理解できない。それは、委員長だけじゃなくてここにいる人全員だけど!」
「理解できないって、具体的にはどういうところが?」
問いかけると、泉は小狼の腕に抱き着き、その小柄な体形からは想像できないくらい豊満な胸を、ぎゅっと押し付けてきた。小狼は、必死に平静を保ちながら、返答を待つ。
「だって、ここの人、みんな幸せだっていうの。おかしいでしょ?外から来た李さんならわかると思うけど。ここは、まるで監獄。閉じ込められて自由を奪われてる。そんなの、唯奈我慢できない!」
泉の意見は真っ当だとは思えたが、どうにも芝居くさく感じた。本心からの言葉というよりも、どこかから拾って来た言葉のような気がする。
泉は小狼から離れて、夢見がちな目で空を見つめる。
「外の世界はどんなに素晴らしいだろうって、思うわ!映画やドラマに心ときめかせたり、町に服を買いに出たり。美味しいものを食べたり、楽しいものを見たりするんでしょ?唯奈、知ってるの!外は素晴らしいところなんだって!」
やけに詳しく知っている。その事に、小狼は違和感を感じた。泉は、どこからそんな情報を仕入れているのだろう。小狼は、注意深くその様子を観察した。
泉は軽やかに振り返り、小狼を見た。
顔は笑っているけれど、表情には暗く影が落ちる。ぞくりと、肌が粟立った。
「だからね・・・明日香様の事、許さない。唯奈の事、裏切ったから」
「・・・裏切った?」
聞き返すが、泉は笑うだけで答えない。遠くから聞こえてくる足音を感じ取って、殊更にはしゃいだ。
「委員長、戻ってきたみたい!やっばい、足音がすごい怒ってる!!唯奈、こわーい!」
「泉さん。ちょっと、今の話・・・」
「また、お話しよう?唯奈、待ってるね!」
可愛らしく片目を瞑ると、泉は俊足で駆けていく。彼女の言う通り、近づいてくる足音は直井のもので、顔を真っ赤にして戻ってきた。泉が逃げたことを悟ると、小狼には目もくれずに追いかけて行った。
騒がしいのが去って、小狼は溜息を吐いた。
(直井の、あの取り乱し様は何かあるな・・・。それに、泉の言葉も気になる。やけに外の世界に詳しかったが、この場所でどうやって情報を得ていたんだ・・・?)
もう一度、考えを整理する必要がある。椅子に座り、頬杖をつく。ボールペンを回しながら、思考を働かせる。
その時。
「小狼くん!」
「っ!?!」
名前を呼ばれて、心臓が大きく跳ねた。
勢いよく立ち上がって、周りを見回す。傍から見ると、不審者に近い動きだったかもしれない。それほどに慌てていた。
小狼は周りに誰もいない事を確認して、ホッと安堵の息を吐く。その傍らに、さくらが駆け寄ってきた。
「これ、この学院の見取り図。出来たら欲しいって言ってたでしょ?こっそりコピーしてきちゃった。あと、これが警備システムの詳細で、こっちが」
数枚の紙を広げて、笑顔で話す。小狼は深く溜息をついて、隣に座った彼女を小声で叱った。
「名前で呼ぶなって言っただろ?他の奴に聞かれたらどうするんだ!それに・・・っ、こういうのは、頼んでない」
強めに言うと、彼女―――さくらは、しゅん、と眉を下げる。
悲しそうな瞳に、一瞬絆されそうになって、ふるふると首を振る。今日こそ、さくらのペースに巻き込まれるわけにはいかない。小狼は、ぐっと拳を握って言った。
「昨日も言っただろう。お前に全部を話したのは、俺の誠意だ。調査が終わるまで、ただ黙っていてほしい。ばれるわけにはいかないんだ」






そう。昨日の晩、小狼はさくらに、今回の潜入計画の事を話した。李家が独自に入手した、御門明日香個人の情報は伏せてはいるが、それ以外の概略は話した。
失踪事件についての調査を、最優先する事。その為には、周囲には自分の正体を隠さなければならないこと。
さくらは真剣な表情でそれを聞いた後、秘密を守る事を約束してくれた。
しかし、さくらはそれだけでは止まらなかった。瞳をキラキラと輝かせて、言った。
「私も、手伝う!」
漲るやる気と眩しい笑顔に、小狼は固まった。思わぬ展開に、思考がうまく働かない。そうしている間に、さくらの勢いに押されて、またも距離が近くなる。
「ちょ、ちょっと待て・・・!協力とか、そういうのはいらない!」
「でも、私」
「っ、き、気持ちだけで十分だ。普通の、ルームメイトとして。秘密を守ってもらえたら、それでいい」
その言葉に、さくらはしばらく無言になって、小さく頷いた。






普通の、ルームメイトとして。
そういう意味をこめて言ったはずが、さくらには別の意味で取られていたようだった。
自習室の一画で、小狼とさくらは膝を突き合わせて、小さな声で押し問答をする。
「・・・だって。私、小狼くんのルームメイトだもん。役に立ちたい。協力、したいの・・・!ルームメイトって、そういうものでしょ?」
「そ、そんな事言われても・・・!」
困惑する小狼に、さくらは涙を潤ませて懇願する。その表情や、緩い胸元から見え隠れする景色に、動悸が増した。ペースを乱されている事は、自覚していた。
なのに。彼女に見つめられると、強く抗えない。
「邪魔は、しないから。名前で呼ぶのも、気を付ける。二人きりの時だけにするから。お願い・・・!」
その声が泣きそうに震えたので、小狼は焦ってしまう。
なぜそんなに、こだわるのか。昨日初めて会ったばかりの自分に、なぜこんなに気持ちを向けてくれるのか。
(ルームメイトだから、なのか・・・?)
つめていた息を吐いて、肩の力を抜いた。
机の上に置いてある、数枚の紙。彼女が、自分の為にと入手してきてくれたそれを、手に取った。ざっと目を通して、小さく笑う。
「ありがとう。これは、ありがたくもらう」
「・・・!小狼くん」
「でも、もう十分だ。ここから先は、俺一人でやる」
強い口調で言うと、さくらは黙った。頼むから泣かないでくれ、と。昨日の泣き顔を思い出して、心の中で必死に願った。
さくらは眉を下げて笑うと、「わかった」と言ってくれた。小狼も、安堵の笑みを浮かべた。
「そのかわり、私もお願いがあるの!」
急速に距離を縮めてきた彼女に、小狼は驚く。どうしてこう、いちいち距離が近いのか。心臓に悪いにも程がある。
「・・・ちょっ、近い!」
「ほぇ?・・・あ、ご、ごめんなさい!私、周りに男の子っていたことないから、その、よくわからなくて・・・」
言われてようやく気付いたのか、さくらはボンッと火を噴くように真っ赤になって、そっと小狼から離れた。もじもじと、視線を逸らして俯く。
その様子を見て、小狼の心臓がまたも激しく動悸をうつ。
(そ、そういう反応するとか・・・!ずるいだろ!!)
押せ押せで来たかと思えば、初々しく恥じらってするりと逃げる。これがもしも、わざとだとしたら、相当な悪女だ。そして、自分はまんまとその術中に嵌っている。
小狼は頭の中でそんな事を考えながら、目の前のさくらを見た。
「お願いって、なんだ・・・?」
尋ねると、さくらは弾かれたようにこちらを見た。小狼が怒っていない事を確認して、安心したように微笑む。
「あのね。私の事も、名前で呼んでほしいなって」
「っ!な、名前・・・?」
「そう。さくら、って。呼んで?小狼くん」
他人が聞いたらなんてことないお願いだけれど、小狼にとっては物凄く難易度の高いものだった。本人を目の前にして、まるで恋人のように見つめ合って、名前を呼ぶ。恥ずかしい事この上ない。
しかし。さくらは、待っている。自分の名が呼ばれるのを、待っている。
これを拒否したら、また泣いてしまうかもしれない。それは、なんとしても避けたいと思った。その為なら、自分の羞恥くらいなんだ、と。小狼は、ごくりと喉を鳴らした。
「さ、」
「・・・っ!」
「さ、さ・・・、さく」
―――キーンコーン、カーンコーン
あと一文字。というところで、午後の授業開始の予鈴が鳴り響いた。小狼はどこかホッとしたような顔をして、さくらは明らかに落胆する。
立ち上がって、小狼はさくらへと言った。
「午後の授業が始まる。行こう」
「・・・はぁい」
頬を膨らませて拗ねるさくらを、素直に可愛いと思った。妹がいたらこんな感じか―――と。そう思って、小狼は違和感を感じる。どこかで、自分を誤魔化そうとしている気がした。
彼女といると、震える心臓。苦しくなる胸の内は、誰にも明かせない。
これ以上大きくなる前に、捨てなければならない。―――ここにいられるのは、期限付き。調査が終わり、事件が解決したら。この場所を、去らなければいけないのだから。








「・・・なるほど。警備システムは、確かに完璧だ」
放課後。小狼は、さくらからもらった学院内の見取り図と警備システムの詳細を手に、外周のあたりに来ていた。
学院をぐるりと取り囲むように、高い塀が立っている。そして、その要所要所にカメラが設置されており、常に見張られている。カメラは数メートル置きに配置され、約180度回転する。カメラが向いていない時間、その場所は死角になるが、時間にしておよそ20秒。その時間で、この高い塀を乗り越える事は不可能だ。ましてや、普通の女子高生であれば。
小狼は、どこかカメラの死角になる場所がないか、抜け道はないか、念入りに調べた。しかし。一時間ほどかけてすべてを見回ったけれど、脱出可能な手段は見つからない。
「やっぱり、ここから抜けるのは無理だな」
事前の調査書どおり。そうなると、失踪した御門明日香はまだこの学院内にいる、という事になる。しかし、姿が見えなくなってひと月。誰かに匿われている?それとも、誰かに監禁されている?もしくは、既に命を落として―――。
その考えに行きついた瞬間、さくらの泣き顔を思い出してしまった。小狼は、雑念を追い出すように頭を振るうと、もう一度見取り図を見た。
すると。一部に、鉛筆の薄い線で丸い印が付けてある場所があった。
「・・・聖堂?」
この学院には、学び舎である校舎と、学生寮。シスター達の住居と、聖堂があった。
直井に渡された生徒手帳の中身を、思い出す。ページを捲っていくと、聖堂の使用についての規則が書いてあった。基本的に、生徒であれば自由に出入りが出来る。そう書いてあった。
小狼は少し考えたあと、聖堂の方へと足を向けた。







きぃ、と。音を立てて、大きな扉が開いた。
中は静かで、外とは空気が変わる。生憎の曇り空だった為、薄暗い。晴天であれば、太陽の光がステンドグラス越しに入り込み、さぞ美しい光景になっただろう。
正面にあるマリア像は、慈愛に満ちた表情でこちらを見つめていた。
「小狼くん・・・?」
ふと名前を呼ばれて、驚いた。マリア像の、すぐ近くの椅子に。人影があった。薄暗い中で、その影が動いてこちらを向いた。
「小狼くんも、お祈りに来たの?」
「いや、俺は」
「ふふっ。調査で、だよね。わかってるよ」
さくらは笑って、自分の隣のスペースを開けて、手招きした。少し迷いつつも、そこに腰を下ろす。そうして、さくらと一緒にマリア像を見上げた。
「ここ、私の大好きな場所なんだ。朝の礼拝の時間以外は、滅多に人が来ないの。だからね、マリア様を独り占めしてるんだ」
そう言って、さくらは悪戯っ子のように舌を出して笑った。笑っているのに、少しだけ寂しそうに見えた。小狼はその顔を見つめて、聞いた。
「御門明日香がいたときは、一緒に来たのか?」
「・・・ううん。ここに来るときは、ほとんど一人だよ。明日香ちゃんは、他にもたくさんお友達がいたし・・・。でも、寂しくはないんだ!」
「・・・そうか」
それは、強がりのようにも見えた。だけど、嘘は無いと、直感的に悟る。
この仕事をしているせいか、小狼は人の嘘に敏感だった。だから。直井や泉が、何かを隠して嘘をついているのだと、確信していた。
だけど。さくらの表情や言動に、嘘は感じられない。少しの強がりはあっても、彼女はいつも真っ直ぐだった。
「ここの暮らしを、どう思う?窮屈だと感じた事はないか?」
他の生徒にもした質問を、してみた。さくらにも、聞いてみたくなったのだ。小狼の問いかけに、さくらは悩んだように眉を顰め、一瞬後にぱっと笑った。
「窮屈だと感じた事は、ないかな。みんなといつも一緒だし、小さいころから知ってる。家族みたいなものだから。一人は、寂しくて怖いもん・・・」
「・・・・・」
さくらは立ち上がると、マリア像を見上げて言った。
「ここは、私のお母さんもお気に入りの場所だったんだって」
「お母さん?」
聞き返すと、さくらは嬉しそうに顔を綻ばせた。ポケットの中から生徒手帳を取り出すと、一枚の写真を見せてくれた。そこには、穏やかに笑う長い髪の女性と、その手に抱かれる赤ん坊が映っていた。
「この人がね、私のお母さん。写真を撮ってくれたのは、お父さん。大好きな、私の家族だよ」
「・・・そうか」
「お母さんもお父さんもすごく優しかったんだ。でも、お兄ちゃんは意地悪なの!すっごく意地悪なんだけど、たまーに優しいの。ふふっ。こういう話するの、久しぶり」
そう言って、一瞬だけ悲しそうに瞳を揺らす。小狼の視線に気づいて、気まずそうに笑うと、写真を再び手帳の中にしまった。
「私のお母さん、撫子っていうんだけど、ここの生徒だったの。聖堂の話は、子供の頃にお母さんが話してくれて、すごく覚えてる。・・・だから、私にとってもここは、大切な場所なの」
さくらの話す、そのほとんどが過去の事なのだと、小狼は悟る。ここに来る生徒達は、身寄りのない者が多い。だからきっと、さくらの家族も―――。
小狼は眉根をぎゅっと寄せて、黙り込む。こんな時、どんな言葉をかけてやればいいのか、わからない。言葉が出てこない自分が、情けなかった。
そうしたら、さくらが明るい声で話しかけてきた。
「小狼くんの家族は?兄弟は?」
いつも通りのさくらの笑顔に、安心する。小狼は肩の力を抜いて、笑った。
さくらは、少しだけ体を小狼の方に寄せて、顔を覗き込む。近くなった距離にドキドキしたけれど、引き離そうとはしなかった。
「姉が四人。あと、母上と婆様がいるな」
「わぁ。女の子ばっかりだねぇ」
「そうだ。だから、苦労が多いんだ。ここに来るときだって、大変だったんだ。ウィッグの付け方から化粧の仕方まで、徹底的に叩き込まれた」
「でも、すごいよ!完璧に女の子だもん。綺麗で格好良くて、見惚れちゃった」
「嬉しくない・・・」
「あっ!ここで名乗ってる佳楠(ジェナン)ってもしかして」
「それは、婆様の名前だ。俺は嫌だって言ったのに、拒否権はまるでないんだ」
「ふふふっ」
「・・・笑いごとじゃないぞ」
そう言って、さくらの額をツン、と軽く突いてみた。初めて、自分から気安く触れた事に、内心では緊張していた。さくらは嬉しそうに、小狼が触れた場所を撫でて、笑った。
(よかった。笑った・・・)
今回の調査とは全く関係ない。深く関わるべきではない。
頭の中で、冷静な自分がそう指摘する。
そんな事、わかっている。だけど離れたくなかった。どうしてかは分からない。ここにいる間は、少しでも多く笑顔にしたい。彼女の笑顔が見たい。
小狼は、そう思い始めていた。
「風が、冷たくなってきたな」
そう言うと、さくらも肩を震わせて頷いた。夕方になって、陽も落ち始めた。そろそろ、夕食の時間だ。
小狼とさくらは立ち上がり、聖堂を後にした。








聖堂を出て、校舎の横を通り、寮へと帰る。
曇っていた為、外はいつもよりも暗くなるのが早かった。思い出したようにお腹が鳴りだし、自然と歩調が速くなる。
「今日は、カレーライスだって。私当番だから、小狼くんのはこっそり大盛りにしてあげるね」
まかせて、と胸を叩くさくらに、ありがとうと礼を言った。
その時。カン、と。小さな金属音がした。二人同時に気付いて、何気なく足を止める。
「・・・?これ、なんだろう?」
さくらが気付いて、地面の上に落ちている何かを手に取った。僅かな光を反射するそれは、小さなガラスの欠片だった。小狼も屈んで、それを覗き込む。
―――ざわり。
嫌な予感が、肌を粟立てた。小狼は咄嗟に上を見て、顔色を変える。
「―――!!さくらっ!!」
「え・・・っ?」
さくらの体を抱きしめて、そのまま横に思い切り飛んだ。その瞬間、すぐ近くで大きな破壊音が響き渡った。
頬に感じる痛みに、小狼は眉を顰める。腕の中で震えるさくらの様子を、確認する。頬を撫でると、さくらは怯えた表情で言った。
「小狼くん、頬っぺた、血が・・・」
「俺は大丈夫だ。お前は?痛いところないか?」
「うん・・・!小狼くんが、庇ってくれたから・・・」
そうして、後ろを振り返る。自分達がいた場所に、ガラスの破片が散らばっていた。小狼はそこに跪いて、欠片を手に取る。おそらく、花瓶か何かだろう。
落ちてきた方を、見上げる。そびえたつ校舎は暗く、誰の影も見えない。小狼は舌打ちをした。
(誰かが、狙って落としてきた・・・?俺がこの事件を調べている事に気付いたのか?・・・調べられては困る誰かが、いるのか・・・?)
ざわざわと、木々が揺れる。
やがて訪れる夜の闇に怯えるように、さくらは小狼へと体を寄せた。小狼はそれをぎゅっと抱きしめ返すと、校舎を鋭く睨みつけるのだった。


 


 


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2017.5.29 了

 

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