幸せな日曜日









二月の終わり。休日は清々しい晴天になって、少しだけ寒さが和らいだ。
さくらは一度着たコートを脱ぐと、桜色のマフラーを首に巻いて、家を出た。向かうは、駅前の公園。そこで、小狼と待ち合わせをしている。
(今日は、ぽかぽかしてあったかいなぁ)
それだけで、なんだか幸せな気持ちになれる。ともすれば、スキップしてしまいそうなくらい、浮かれる。
いい天気で、学校もお休みで。小狼と二人で会える、日曜日。
目的地が近づくほどに、さくらの心臓の音が大きくなった。浮かれ半分、緊張半分。
待ち合わせ場所に急ぐと、そこには既に彼の姿があった。
「小狼くん、お待たせ!」
駆け寄るさくらに、小狼は優しく笑った。その笑顔も、春の陽気のようにあたたかい。さくらの頬に、熱がともった。
「ごめんね、待った?」
「いや。俺も今来たところだ。今日はあたたかいな」
「うん!コート、脱いできちゃった」
マフラーだけの軽装でも十分なくらい、今日はあたたかい。一足先に訪れた春の気配が、二人の心も浮かれさせた。
行き先は、特に決めていない。小狼はいつもさくらに、「行きたいところはないか?」と聞く。けれど、さくらは小狼と一緒にいられるなら、どこでもよかった。だから、行き先はなかなか決まらないのが常である。
「どこでもいいよ」と素直に返すと、小狼は真面目な顔で考えこむ。どこに行けば楽しいか、さくらが楽しんでくれるかと。彼はいつも、考えてくれる。だから、さくらも一緒になって考える。
こうやって、二人の事を二人で決める瞬間が、さくらは好きだった。
「とりあえず・・・ゆっくり、コーヒーでも飲むか。さっき、公園内で軽食を売っているワゴンを見かけたんだ」
「そうだね。今日は天気もいいし、ベンチに座ってゆっくりしよう」
小狼の提案に頷いて、二人は並んで歩き出す。
公園内は、家族連れや遊ぶ子供達で賑わっていた。自分達と同じように、恋人同士で仲睦まじく歩いている男女の姿も多く見かけた。
小春日和の陽気に誘われるように、みんなどこか浮足立っているように見える。笑みを交わす恋人達を見ていると、なんだか幸せな気持ちになれた。
(私と小狼くんも、そう見えてるのかな)
自分の思考に少し照れながら、半歩先を行く小狼を見上げる。さくらはマフラーに口元を埋めて、こっそりと笑んだ。
軽食を販売しているワゴンに到着し、小狼はコーヒー、さくらはココアを頼んだ。二人はあたたかなカップを手に、ベンチを探す。少し離れたところに、空いているベンチがあった。
そこに並んで腰を下ろすと、ゆっくりと口をつける。
「あまーい」
「よかった」
嬉しそうにココアを飲むさくらを見て、小狼の表情もやわらかく綻ぶ。
ぽかぽか陽気の公園で、並んであたたかい飲み物を飲む。のどかで優しい時間に、ホッと息をはいた。
その時。
「・・・やだ。他の人に見られちゃう」
声が、聞こえた。空耳かと思うくらいに、小さな声。
さくらは不思議に思って、周囲を見回した。
自分達が座っているベンチの周りには、あまり人がいない。遠くから、はしゃいでいる子供達の声が聞こえるくらいで、とても静かな場所だった。
その場所に、ただならぬ息遣いが聞こえる。さくらは、声が聞こえる方を見つめ、そこにあった光景に驚いて固まった。
(ほ、ほえぇぇぇぇっ!!!)
心の中で、叫び声をあげる。うっかり手元が揺れてココアを零しそうになったけれど、なんとか堪える。
さくらの視界に映ったのは、一組の男女。木陰に隠れるようにして身を寄せ合い、くすくすと笑みを零しながら、口づけを交わしていた。
その光景が、ばっちりとさくらの目に飛び込んできたのだ。
(お、お昼の時間から・・・っ!こんなお外で・・・!?公園で??ほえぇっ。ど、どうしようどうしよう・・・!!)
ぐるぐると目が回る。頭から湯気が出そうなくらいに、熱くなった。
なのに、目が離せない。仲良さそうに笑みを交わして、ちゅ、ちゅ、と何度も交わされるキスシーンに、さくらの心臓がばくばくと大音量で鳴った。
(小狼くんも、気づいてるかな・・・?)
気づいていてほしいような、ほしくないような。混乱しながらも、さくらは隣にいる人を盗み見た。
そうして、驚く。
小狼は至極真面目な顔で、白昼堂々とキスを交わす恋人同士を凝視していた。手に持っているコーヒーを飲みながら、視線は真っ直ぐにカップルへと注がれている。
しかし、さくらのように動揺しているようには見えない。まるでテレビを見ているかのように、無感情に視線を向けている。
それを見て、さくらの心臓はまた違う意味で動悸を速めた。
周りの事も、小狼の事も見ていられないくらいに動揺して、さくらは赤い顔で俯く。
先程まであんなに、あたたかな日差しが嬉しかったのに。今は、汗が噴き出すかと思うくらいに暑い。
ぬるくなっていくココアのカップを握りしめて、さくらは自分の動悸を治めようと必死になった。
次の瞬間。
「・・・っ!?」
さくらは、驚いた。
自分の手を、ぎゅ、と握る小狼の手。上から包むように触れて、熱が伝わる。小狼の手も、同じくらいに熱かった。
小狼の視線は、前をみたままで動かない。
どうして、急に。このタイミングで、手を握られるのだろう。さくらは呆然と、小狼の横顔を見つめる。
(もっ、もしかして!私達も、ここで・・・!?そうなの!?小狼くん・・・!!)
繋いだ手から伝わる熱が、さくらの頭をさらに混乱させた。
先程見た恋人たちのキスシーンが、想像の中で小狼と自分に変わって、声にならない叫びが漏れる。
(でも、でも・・・!小狼くんがしたいなら、私は・・・!)
さくらは密かに、覚悟を決める。恥ずかしさと緊張でどうにかなってしまいそうだけれど、嫌なわけじゃない。
嫌なわけが、ない。
こういう場所でするのは初めてだけれど、今なら他に誰もいないし―――そんな事をぐるぐると考えながら、さくらは飲みかけのココアを横に置いた。
繋いだ手を強く握り返して。さくらは、小狼へと体を向けた。
顔を上げて、きゅっと目を閉じる。
「・・・・・え?ど、どうした?」
「・・・ほぇ?」
予想していた感触はいつまで経っても訪れず、さくらが不思議に思い始めたところで、小狼の声が尋ねた。
目を開けたさくらは、頬を染めて戸惑う小狼の顔を、間近で見つめる。
どうしてだろう。思っていた展開とは、違う。さくらは困惑しながらも、そのままの距離で小狼へと尋ねた。
「だって・・・小狼くんが、手をぎゅってしたから・・・」
「え?俺が?」
「だから私、てっきり・・・」
「てっきり・・・?」
鸚鵡返しで尋ねられ、さくらは我に返る。その瞬間、ぼんっと音が出るかと思うくらい、全身が真っ赤に染まった。
(勘違い・・・!勘違い、だったの!?ほえぇぇぇ、恥ずかしいよぉぉ―――!!!)
キスをされると思い込んで、目を閉じて待っていたなんて。こんな、日曜日の長閑な昼下がりの公園で、自分はなんて恥ずかしいことをしようとしていたのか。
動揺して、さくらは後ろへと勢いよく下がろうとした。しかし、手はしっかりと繋がれたままで、離れない。
「ごめん」
突然の謝罪に、さくらは驚いて顔を上げる。
「ごめん・・・。完全に、無意識にだった。隣で、幸せそうに笑ってるさくら見てたら、なんか・・・こう、もっと近づきたくなって」
「え・・・?」
「思うだけのつもりだったのに、無意識に体が動いてた。びっくりしたよな。ごめん」
真摯に謝る小狼に、さくらは目を瞬かせる。
小狼の頬は赤く染まっていて、先程の自分と同様に、恥ずかしそうに目を逸らす。その顔を見ていたら、なんだか胸が苦しくなって、愛おしくなった。
繋がれたままの手が、こんなに嬉しいと思うなんて。
「あ、あのね。私も、勘違いしちゃったの。あそこにいた人達を見てたから、てっきり・・・」
「??なんの話だ?」
「え・・・っ!小狼くん、気付いてなかったの!?」
「色々考え事して、ぼんやりしてた。・・・何があったんだ?」
「なっ、なな、なんでもないのっ!!」
なんてことだ。最初から最後まで、勘違いだった。
さくらは、羞恥で熱くなる頬をぱちぱちと叩いて、前を向いた。先程の恋人達の姿は、そこにはなかった。
ホッと安堵して、さくらは自分の手を見つめる。小狼の大きな掌にすっぽりと治まって、あたたかい。思わず緩む頬をそのままに、隣にいる小狼を見つめた。
その視線に気づいて、小狼も目を向ける。自然と綻んだ笑顔、直後に恥ずかしそうに目を逸らすと、誤魔化すようにコーヒーを傾けた。
さくらの中で、小狼への気持ちが疼いた。
―――どうやったら、近づける?この場所で、今すぐ。大好きな君に、もっともっと近づきたい。
「ね、小狼くん。さっき、色々考え事してたって・・・何考えてたの?」
「えっ・・・。そ、それは」
「お仕事の事?学校の事?それとも・・・」
勇気を出して聞いてみる。手に、じわりと汗が滲んだ気がして、恥ずかしい。それでもじっと、小狼の答えを待った。
さくらの問いかけと視線に、小狼は口元を手で抑えて、眉根を顰める。
「さくらが隣にいるのに、他の事なんか考えられるわけないだろ」
「・・・!」
「お前の事ばかり、考えてる。・・・今も、ずっと」
照れた赤い横顔を見て、さくらは思った。
(・・・キス、したいな。そう言ったら、小狼くん困っちゃうかな)


ぽかぽか、小春日和。小鳥の囀りと子供達のはしゃぐ声が聞こえてくる、日曜日の公園。
隣に大好きな人がいて、手を繋いで。少しだけ冷めた飲み物を同時に飲んで、なんでもない事で笑う。
そんな、幸せな日曜日。

 

 

 

~2017.5.23 web拍手掲載

 

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バカップルイン人混み









(あーあ。やっぱり、来るんじゃなかった・・・)
どこを見ても、人で溢れてる。身動きもろくに取れず、軍隊のように前に続いて歩くしか出来ない。
目的地までは、まだあと数キロ。平日であれば、10分かそこらで到着する距離なのに、今日は倍以上の時間を要しそうだ。
帽子を目深に被って、自分の足元を見つめる。
(面倒くさがらずに、平日のうちに買いにいけばよかった。明日締め切りなのに、直前で無くなるなんてツイてない・・・)
普段は外に出ないし、職業柄、曜日感覚もあまりない。久しぶりに外に出たらちょうど休日で、しかもイベントをやっているからか大通りは大混雑で、加えてその大半がイチャつくカップル達で。精神的に、やられる。
(せめて、何かネタになるようなすごい人とかいないかなぁ)
目線を少しだけ上に向ける。
抜けるような青空も、人混みの中だとなんだか小さく見えて、思わず眉を顰めた。こんなにいい天気なのに、どうしてこんなに、自分の心は暗く沈んでいるのだろう。
何度となく零れる溜息が、またも空中に放たれた、その時。
「・・・さくら。さっきから言ってるだろ。余所見をするな。転ぶから」
するりと入ってきた、耳障りのいい声。甘い少年らしさを残しつつも、低めのトーンが鼓膜を心地よく震わせる。導かれるように、その声のした方へ視線をやった。
すると、自分のすぐ隣に。精巧な造りをした、青年の顔があった。深い鷲色の瞳に、思いがけず心臓が跳ねる。
その視線の先を追うと、彼の少し前を歩く、ぴょんと跳ねた栗色の髪が目に入る。ふわり、と。スローモーションのように、天使が笑った。
「はぁい。でも、小狼くんが手を繋いでくれるから、大丈夫だよ」
天使―――もとい、彼女は、可愛らしく微笑んでそう言った。
二人の手はしっかりと繋がれていた。彼女が一歩前を歩いて、彼がそれに付いて行く形になる。
そうしてちょうど、彼と自分が横に並んでいる。
この人混みをすり抜けていくのは困難だと、普通ならわかるのに。気持ちが急いているのか、彼女は果敢に前へと進む。それをやや呆れた表情で見ながら、繋いだ手を引いて彼女を押しとどめる。
彼の目は、甘やかで優しく、見ているこちらが照れてしまう程だった。
(・・・純粋天然培養って感じ・・・。高校生かな?なんか、初々しいなぁ)
バカップルのイチャつき様と大混雑にささくれ立っていた心が、自然と和む。二人が、あまりに似合っているせいだろうか。不快な感じは一切なく、むしろ清々しくも感じた。
帽子の鍔で目元を隠しながら、二人をチラチラと観察する。
彼の方は、よほど心配性なのか、それとも彼女を溺愛しているのか。過保護と言ってもいいくらいに、細かい注意を繰り返す。
通り過ぎるお店に気を取られる彼女に、『ちゃんと前を見ろ』と言ったり、すれ違う男の肩に触れないよう、手で庇ったり。よくよく見てみると、徹底的に彼女を守っている。
それに反して彼女はというと、そんな彼の心配もどこ吹く風で、呑気な笑顔で先を急ぐ。人混みもなんのその、気の進まない彼を笑顔で引っ張っていく。
(心配するのもわかるなぁ。彼女の方、可愛いけどすごく無防備だわ。おっとりしてて世間知らずで、ちょっと頼りなさそう。普段から、彼を困らせてるんだろうなぁ)
そんな一幕を想像して、思わず笑みが零れる。微笑ましくて、可愛らしいカップルだ。
彼らがどこまで行くのかわからないけれど、道が分かれるまでは少しの間、見ていたい。そう思った。
「はぁ・・・。しかし、凄い人だな。さくら、別に今日じゃなくてもよかったんだぞ」
「ダメだよ!先週もそう言って、おうちで一日過ごしちゃったでしょ?誕生日は来週だし、今日絶対に決めるの!」
「・・・はいはい」
彼女の言葉から推測するに、誰かの誕生日プレゼントを見繕いに来たようだった。
拳を握って力説する彼女に向けて、彼は呆れた溜息をつきながらも、その表情はどこか嬉しそうに見えた。
なんだかんだデートする口実になって、喜んでいるのかもしれない。
(ごちそうさまぁ・・・。甘すぎて、さすがに胸やけしそうだわ。でもちょっと、羨ましい)
現実感がない。二人を包む空気は、他とは違う。お互いに、お互いしか見えていないと分かるから。微笑ましくも、羨ましくもなるのだ。
その時。彼が、ぽつりと言った。
「・・・法律的に許されるなら、今すぐお前を抱きかかえて屋根の上を移動したい」
その瞬間、噴き出しそうになった。
(この人、真面目そうなのに。こんな冗談を言うの?)
そうしたら今度は、彼女が返す。
「ふふっ。私もそうしたいけど、こんなに人がいたら、大騒ぎになっちゃうね」
こそ、と。口元に手を当てて囁いた言葉は、残念ながら自分の耳にも届いてしまった。
冗談に冗談で返すとは、この彼女もほえほえしているように見えて、なかなかのものだ。
妙に感心していると、彼が溜息交じりに言った。
「冗談抜きに、そうしたい気分だ。・・・危なっかしくて、心臓がいくつあっても足りない」
そう言った彼の横顔が、物凄く真剣で真っ直ぐだったから、今度は笑う気になれなかった。
胸にずんと重く落ちる言葉を、彼女は容易く受け止めて、天使の笑顔で言った。
「小狼くんがいるから、大丈夫だよ」
先程と同じ言葉だけれど、ただ呑気なだけの言葉とは思えなかった。
今日初めて会ったばかりの他人がそう思うくらい、お互いに信頼して、好き合っているのがわかる。
彼と手を繋いでいるから、彼女は心のままに、前に進んでいけるのかもしれない。傍から見たら無鉄砲で無防備に見える行動も、彼への信頼と思えば納得できた。
そんな二人の関係を、心の底から羨ましく思う。
たくさんの人が、カップルが、この人混みの中で手を繋いでいるけれど。
それとは、比べ物にならない。次元が違う。この二人の繋がりは、もっともっと、強くて深い。
それは、前世からの繋がりか。運命か。廻る世界の中で、彼と彼女は特別な存在で、選ばれた二人なのかもしれない―――。
(・・・・・・なんて。妄想してみたりして?実際は知らないけど、ね)
お得意の妄想と想像力で、むくむくと膨らんだ物語を、一笑してかき消す。
そろそろ、目当ての店が見えてくる頃だ。いい暇つぶしになった。感謝の気持ちを込めて、隣を歩く件の二人に目をやった。
その時。彼がまた、叱るように声を上げた。
「さくら!余所見してるとまた、ぶつかる・・・っ」
すぐ横にある店に気を取られて、正面から歩いてくる大柄の男にぶつかりそうになる。彼は繋いだ手を離して、彼女の細い肩を守ろうと、強く引き寄せた。
しかし、その瞬間。
「・・・っ」
「!!小狼くんっ!」
予想外の事が起きた。
彼女を守ろうとした彼自身が、地面のくぼみに躓いて、前のめりになったのだ。
一瞬バランスを崩したけれど、なんとか持ち直した。最後には彼女をしっかり腕に抱いて、はぁぁ、と息をはく。
しん、と。一瞬だけ、喧噪が途絶える。
彼らに注目していたのは、自分だけではない事に、今更ながらに気付いた。
しかし、当の本人達はそんな外野には気付く事はなく。何事もなかったかのように歩き出しながら、彼女を睨み、低い声で言った。
「さくらの事ばかり見てたせいで、躓いたぞ。どうしてくれるんだ」
「ご、ごめん・・・」
「だから余所見するなってあれほど!いう事聞かないなら、本当に屋根の上に飛び上がるぞ!?」
本気で怒る彼の剣幕に、彼女は苦笑いで「ごめんなさい」と繰り返した。
そのやり取りを聞いていたら、我慢できなかった。
「・・・ぷっ」
空気を震わせた笑い声に、さすがに気付いたのか、彼と彼女が揃ってこちらを向いた。驚いた瞳が、同じくらいに澄んでいて、それもまた可笑しかった。
笑いだしたくなる気持ちを、なんとか飲み込んで。目的の店の前で、足を止めた。
「お互いばかり見ていると、また躓くよ。気を付けてね」
そう言って片目を瞑ると、二人はやっぱり同じ顔で、不思議そうにお互いを見つめた。
「ほぇ・・・?」
「何のことだ・・・?」
呆ける二人に笑って、軽く手を振って背を向けた。一人、店の中に入って、目当ての画材コーナーへと進む。
その時、ポケットの中の電話が震えた。
「―――はい。はい・・・。いえ、今外です。・・・違いますよ。ちゃんと明日中に仕上げます。はい。大丈夫ですから」
電話の向こうで急かす担当者に、苦笑いで答える。ふと、先程出会った二人の事が、頭を過った。
「ねぇ、次の連載。運命の二人が逆境を乗り越えていく話とか、どうかな。主人公は少し頑固で過保護で、ヒロインは無邪気で可愛くて、世間知らず。でも、お互いの事を物凄く信頼してて、どんな困難も乗り越えていくの。面白いと思わない?・・・・・・はいはい。わけわからない事言ってないで、今の原稿仕上げますよ」
そう言って通話を切ると、ふ、と息をはいた。
(彼と彼女は、どんな物語を生きているんだろう。・・・私がそれを知ることは出来ないけど)
―――また、会えたらいいな。
憂鬱になるような人混みの中には、もしかして彼らがいるのかもしれない。そう思えば、ほら、こんなに世界の色は変わる。
抜けるような青空を見上げて、小さく笑った。






「大丈夫だってば。小狼くん、さくらの事ばっかり見なくてもいいよぅ」
「さくらこそ。余所ばっかり見てないで、たまには・・・」
「ほぇ?」
「な、んでもない。・・・母上への誕生日プレゼント、ちゃんと選ばなきゃな」
「うん!」



 

 

2017.3.18 ブログにて掲載

 

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ボーダーライン


 

 


「どうぞ、小狼くん!」
「お邪魔します」
休日の午後。小狼を家に招いたさくらは、上機嫌で自分の部屋へと通した。
いつも賑やかな声を上げる相棒は、今日はいない。父も外出していて、この家には二人きり。
その事実にさくらは鼓動を早め、些か緊張しながら部屋へと入った。
「アイツがいないと静かだな」
「ケロちゃん?ふふっ。今日はね、知世ちゃんのおうちに遊びに行ってるの」
「大道寺が気を使ってくれたんだな。さくらが勉強に集中できるように」
にこやかに話す小狼の言葉に、さくらの笑顔が引き攣る。
(・・・うぅ。これで、勉強じゃなければもっとよかったんだけどな)
小狼は、鞄から数冊の本を出した。どれもが、さくらの苦手とする数学の教科書や参考書だ。
心なしか、今日の小狼は気合が入っているように思える。それに反して、さくらの表情はみるみるうちに沈んでいく。
「来週のテストに向けて、みっちりやらないとな」
彼は、妙な使命感に燃えていた。前回のテストで赤点すれすれだったさくらの為に、時間を割いて勉強を教えてくれるのだから。
それは、嬉しい。嬉しいけれど―――。
綺麗に片づけられたテーブルの上に、お茶菓子を盛った籠を置く。飲み物も準備万端。
部屋には、小狼と自分の二人だけ。
さくらの心臓が、音を立てた。拳をぎゅっと握って、問いかける。
「・・・小狼くん。すぐにお勉強するの?」
「え?」
「せっかく、久しぶりに一緒に過ごせるのに・・・」
しおらしくそう言うと、さくらは小狼のすぐ隣に腰を下ろした。ぴたりと肩をくっつけて、じ、と上目遣いに見つめると、小狼の頬に僅かに赤みが差した。
しかし、すぐに教科書に向き直ってしまう。
「テスト勉強、やりたくないんだな。その手には乗らないぞ」
「ち、違うもん。勉強やりたくないから、じゃなくて」
(・・・ほんのちょっとは、それもあるけど)
「小狼くんと一緒にいるのに、触ってもらえないの、寂しいんだもん・・・」
ぽつりと落ちた言葉に、さくらは一拍遅れて照れた。
自分で言ったことなのに。そこまで、言うつもりはなかったのに。心の奥にある気持ちが、うっかり零れ落ちてしまった。
呆れているだろうか。不安になって、小狼の方を見上げた。
すると、小狼の顔が存外近くにある事に気付いて、驚く。
「・・・そんなの、俺だって同じだ」
「小狼く・・・」
小狼の優しい言葉と一緒に、吐息が唇にかかる。二人を包み込む甘い空気に、さくらは笑んで、目を閉じた。
自分の唇に、小狼の唇が重なる。その瞬間を、待っていた。
しかし。思わぬ方に事態は展開する。
「ほぇっ!?」
突然に、小狼の手がさくらの肩を掴み、距離を取る。何事かと驚くさくらの耳に、ドタドタと近づいてくる足音が聞こえた。
―――バンッ
ノックを省略して勢いよく開かれたドア。そこには、仁王立ちの兄・桃矢がいた。
「・・・なにやってるんだ、お前ら」
据わった目で睨まれ、小狼とさくらは揃って肩を震わせる。
間一髪。ドアが開く寸前に、さくらは急いで小狼から離れ、正面の席に座った。
今しがた、この部屋でキスしようとしていた事は、幸いにもバレていない。
体中が心臓になったみたいに、どくどくと鼓動が鳴る。動揺を精一杯に隠して、さくらは言った。
「何って、お勉強だよ!!今日は小狼くんが数学を教えにきてくれたの!!」
「・・・その割に、お前の手元は片づけられてるな」
「いっ、今から始めるところなのっ!!お兄ちゃん、帰ってくるときは教えてって何度も言ってるでしょ!?」
「こういうのは抜き打ちでやるから意味があるんだろ」
意味不明の発言をしながら、桃矢は小狼を睨んだ。小狼もそれに強気に睨み返すも、一応頭を下げる。
桃矢は小さく舌打ちをすると、あるものをさくらの目の前に置いた。『もちもち苺大福』―――お土産だろうか。パッケージの可愛いキャラクターと目が合って、さくらは呆然とする。
「いいか。俺はすぐ下にいるからな。ちゃんと勉強しろ。・・・変な事するなよ」
「へっ・・・変な事って何!!そんな事しないもん!!」
「いいか。変な気は起こすなよ」
気のせいでなければ、桃矢は自分にではなく、小狼に言っているような気がした。さくらは真っ赤になって、半ば追い出すようにして、桃矢の背中を押した。
階段を下りていく足音をドア越しに聞いて、さくらは脱力して座り込んだ。涙目で、小狼へと謝る。
「ごめんね小狼くん。お兄ちゃん、突然に帰ってきちゃって」
さくらの言葉に、小狼はパッと顔を上げると、バツが悪そうに頭を掻いた。
「あ、ああ。いや、別にお前が謝る事じゃない。今日は、ちゃんと勉強しよう」
「・・・・・今日、は?」
言葉尻を捕らえて問いかけると、小狼の頬が紅潮した。
「っ!!今日、も!今日も、勉強するぞ!!」
「はぁい」
小狼の反応に、思わず笑みが浮かぶ。さくらは残念な気持ちになりながらも、小狼の正面に座った。
それから、一時間ほど。さくらは目の前の問題を、小狼に教えてもらいながら解いた。
時間をかけてなんとか、理解できるようになった気がする。ノートに書き込んだ数式に大きな○をもらえて、さくらはホッと息をはいた。
「少し休憩にするか」
小狼の一言で、さくらは笑顔になった。
んー、と伸びをすると、小狼もつられたように腕を伸ばす。
同じ事をしているのが、なんだか嬉しくて。くすくすと笑うと、小狼も照れ笑いを浮かべた。
(ちょっとだけなら、いいよね)
さくらは、頑張った自分にご褒美をあげる事にした。
おもむろに立ち上がって、お茶を飲む小狼の横に座る。驚いた顔をする小狼に、にこりと笑って。その肩に、こてんと頭を乗せた。
「さ、さくら」
「んー。ちょっとだけ・・・。休憩だもん。いいよね?」
「いいかどうかは、俺には判断しかねるぞ・・・」
そう言って、小狼は階下を気にする素振りを見せる。
視線が自分から逸れた事に、心なしかさくらの眉が下がる。寂しい気持ちが、少しだけ行動を大胆にする。
さくらは小狼の正面に体を滑り込ませると、膝立ちになった。
胡坐をかいて座っている小狼よりも、少しだけ目線が高くなる。見上げる視線が、なんだか新鮮で。さくらは、嬉しくなった。
「さくら、ダメだって」
「シー・・・。大丈夫。ちょっとだけ、だから」
悪戯をする子供のように、さくらは人差し指を唇に当てて、囁いた。小狼は顔を赤くして口籠るが、拒絶する様子はない。
「ちょっとだけ、イチャイチャしよ?小狼くん」
「・・・さくら」
「ね、ちょっとだけ」
そう言って、さくらは小狼へと抱き着いた。というよりも、この態勢だと、さくらが小狼を抱きしめているような格好になる。
小狼はしばらく動かないでいたけれど、さくらの背中に手を回し、抱きしめ返した。
恥ずかしい。だけどそれよりも、触れられる喜びの方が勝った。
久しぶりに小狼のぬくもりや匂いを感じて、さくらはホッと息をはいた。
すると、今度は小狼が動く。さくらの体から離れると、自分の膝の上に座るように誘導する。二人は音を立てないよう、声を出さないように注意しながら、態勢を変えた。
小狼の膝に横向きに座ると、じ、と見つめられる。恥ずかしくて顔を逸らそうとすると、それを阻止するように頬を摘ままれた。
やわらかな頬を、撫でたり摘まんだりして、その感触を楽しんでいるようだった。小狼は、ふ、と息を抜くように笑うと、今度はさくらの髪に指を差し入れる。さらり、と。小狼の指に梳かれて、さくらは小さく震えた。
肩に腕を回され、さくらの顔には影が落ちる。
(あ・・・キス、だ)
小狼はゆっくりと体を倒す。さくらはドキドキしながら、瞼を閉じた。
今度は、邪魔が入りませんように。そう願いながら、やわらかく落ちるキスを待った。
―――ちゅ。
一度触れて、離れる。小さなリップ音が、二人の耳に届いた。
先程おあずけになったからだろうか。一瞬触れただけなのに、さくらの全身が熱くなった。
ねだるように見つめると、小狼は無言のまま、再び唇を塞いだ。
今度は、もっと深く合わさる。角度を変えて何度も、何度も。さくらの手を小狼が捕まえて、指を絡める。吐息も声も、全部飲み込むみたいに、小狼は口づけた。
濃密な吐息が、部屋に満ちていく。秘めやかに繰り返されるその行為は、イケナイ事をしているようで。さくらの胸は、罪悪感と興奮で高まっていく。
小狼の手が、さくらの首筋を撫でる。小さく震えて、その瞬間、さくらは閉じていた目を開けた。
とろとろに蕩けた瞳が、小狼を見つめる。
「ダメ、だよ・・・」
「ん・・・?」
繋いだ手に、ぎゅっと力がこもる。さくらの小さな声に、耳を澄ませるように近づいて、小狼は触れるだけのキスを落とした。
「何が、ダメ?」
「だって・・・、イチャイチャ、じゃないもん」
さくらは真っ赤になって、視線を落とす。小狼に優しく見つめられるだけで、体は熱くなって、胸の奥の方が苦しくなった。
もっと、欲しくなってしまう。
「こんな、続けたら・・・イチャイチャどころじゃなくなっちゃう」
恥ずかしそうに言うさくらに、小狼は困った顔で笑った。
さくらの頬に、ちゅ、とキスを落とす。
「俺はとっくに、ボーダーライン超えてたけど」
「ほぇ・・・?」
「イチャイチャだけで、終われるわけないだろ」
強い言葉と瞳に、さくらの思考は止まる。
このまま、身を委ねてしまおうか。悪い事だと分かっているけど、どうしても我慢できない。この手を、離せない―――。

―――ドタドタドタッ

「さくらっ!」
勢いよく開いたドア。険しい顔で部屋に入ってきた桃矢は、二人を見下ろして眉間の皺を深くした。
「・・・・・なんで、座る場所が変わってるんだ」
桃矢が見つめる先には、テーブルを囲んで座る小狼とさくら。先程は正面に座っていたはずなのに、今は隣に座っている。
怪訝そうにする桃矢に、さくらは自分の前にあるノートを見せて言った。
「正面だと小狼くんが見にくいから、移動したの!ほら!ちゃんと解いてるでしょ!?」
「・・・・・」
「もうっ!お兄ちゃん、邪魔しにきたの!?」
咬みつくように怒るさくらに、桃矢は深く溜息をついた。手に持ってきたジュースのボトルをテーブルに勢いよく置くと、すぐ傍にいる小狼を睨み下ろした。
「くれぐれも、変な気を起こすなよ」
「・・・分かってますよ」
見えない火花が、二人の男の間で弾ける。桃矢は、ふん、と鼻を鳴らすと、来た時と同じように大きく音を鳴らしてドアを閉めた。
遠ざかっていく気配に、二人は揃って溜息を吐いた。
「バレなかった、かな?」
「さぁ、どうかな。お前の兄貴は、お前の事に関しては鋭いからな」
だとしたら、この状況を許してくれている時点で、かなり寛大になったと言えなくもない。小狼は、桃矢が置いていった苺大福とジュースを見つめて、苦く笑った。
「さ、勉強するぞ」
「えぇ~~~」
「えー、じゃない。充分に休憩しただろ」
呆れたように言って、小狼はさくらの額を指で弾いた。少しも痛くないデコピンに笑って、赤らんでいる小狼の頬を見つめた。
「じゃあ、手はこのままでもいい?」
「・・・やりづらいだろ」
小狼の言葉に、さくらは首を横に振る。
テーブルの下で繋いだ二人の手は、桃矢が部屋に乱入した時も離れる事はなかった。
その手にぎゅっと力をこめて、さくらは小さく言った。
「右手だけでも、小狼くんとイチャイチャしてたい・・・」
「っ!!」
小狼の動揺が伝わって、さくらの頬が熱くなった。
(ほえぇ、私、何言ってるんだろう!?ダメ・・・これ以上考えたら、勉強どころじゃなくなっちゃうよぉ。集中しなきゃ・・・!)
さくらはそう決意して、参考書の問題と向き合う。
その時。小狼が音もなく動いて、さくらの耳元で囁いた。
―――『テストが終わったら、めいっぱいイチャイチャしような』―――
「・・・っ!!」
せっかく覚えた数式も解き方も、全部頭から吹っ飛んでしまいそうになって、困った。
耳まで真っ赤になったさくらに、小狼は笑って。繋いだ手をそのままに、二人は身を寄せ合って参考書を覗き込んだ。


―――その後。さくらのテスト勉強がはかどったかどうかは、定かではない。



 

2017.3.11 ブログにて掲載

 

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スイートモーニング

 

 

 

 

さくらは、朝が弱い。
それは、付き合っている頃から知っていたけれど。結婚してからは、それをしみじみと感じる事が増えた。
小狼は、出勤時間の約二時間前に目を覚ます。特にアラームを設定しなくても、体が自然に起きられるようになっている。密かな特技だ。
そうして、隣で気持ちよさそうに眠っているさくらをジっと見つめること、およそ10分。
やわらかな頬や唇を指でつついてみたり、乱れた髪を撫でてみたり。それくらいの事ではさくらは起きないので、安心してその寝顔を堪能する。
(そろそろ時間か)
小狼は名残惜しさを感じつつも、さくらを起こさないようそっと、ベッドから抜け出した。
寝間着姿のまま、キッチンに立つ。一番最初に、コーヒーメーカーのスイッチを入れるのが、独身時代からの癖だ。
それから、冷蔵庫から卵とベーコンを取り出し、フライパンの上で焼く。その間に、野菜を切って盛り付けて、簡単なサラダを作る。昨日の夕飯の残りのミートグラタンをオーブンに入れて、再加熱のスイッチを押した。
フライパンの火を止めて蓋をすると、別室に用意してあるスーツに着替える。シャツは、昨日の夜にさくらが丁寧にアイロンがけをしてくれたおかげで、パリッと形が整っている。少し悩んでから、ネクタイも締めた。
キッチンに戻ると、トースターに食パンを二枚、入れる。
ミートグラタンがぐつぐつと音を立てていい匂いをさせ始めた頃、小狼は寝室へと戻った。
扉を開けて、そこにあった光景に笑みが零れる。
先程自分がベッドを出てから、30分。その間に、さくらはシーツの上を泳いで、およそ90度移動していた。上半身は掛布団にくるまれているのに、下半身は無防備に晒されている。
白いふとももに心臓を揺らされつつ、小狼はベッドに腰かける。さくらの髪を優しく撫でて、いつものように声をかけた。
「朝だぞ。さくら」
「・・・ん―――」
「今日、大学休みだろ?ごはん、俺が作ったから」
ちょっとやそっとでは起きないさくらだが、小狼が名前を呼ぶと、不思議と反応する。ごろん、とひとつ寝返りを打ってから、ゆっくりと瞼を開けた。
とろんとしたその瞳が自分を見つめる瞬間が、小狼は好きだった。
「さくら、起きた?」
「・・・はぁい」
「こら。目を閉じるな」
「だってぇ・・・。んん・・・、まだ、寝てたいよぅ」
甘えるようにそう言って、自分を撫でる小狼の掌に頬ずりする。猫のような仕草に、小狼の心臓は盛大に鳴りだす。
しかし、これも毎朝の事。ごねるさくらをなんとか起きさせると、手を引いてリビングへと連れていく。
半熟の目玉焼きと、ベーコン。サラダと、ミートグラタン。それらをテーブルの上に並べて、最後にきつね色に焼きあがったトーストを、さくらの前に置く。
「いいにおい~」
この時点で、さくらはまだ完全に覚醒してはいない。気を抜くと、目を閉じて舟を漕ぎ始める。
しかし、美味しいごはんの匂いを嗅ぐと、自然と手が伸びる。この辺のところは、あの食いしん坊の相棒を思い出させて、小狼はこっそりと笑う。
「ジャムにする?はちみつ?」
「ん・・・。はちみつー」
「わかった。はい」
用意していたはちみつの瓶から、スプーン一杯分をパンの上にかける。甘い香りに、さくらの頬も緩む。「いただきます」と言って、トーストを齧った。
小狼は、コーヒーを飲みながらさくらの様子を見ていた。半分寝ぼけながら食べているせいで、他のおかずに目がいかない事が多いのだ。
「はい、さくら」
グラタンを一口分フォークで掬うと、息を吹きかけて冷まし、さくらの口元へと持っていく。さくらはそれを当然のように受け入れて、ぱくりと食べる。
「おいしー」
「さくらが作ったグラタンだからな」
「ほぇ・・・?」
「ほら、今度はサラダ」
さくらは、口元に運ばれるまま、小狼の手からご飯を食べる。
もぐもぐと咀嚼する姿さえ、可愛く思えてしまうのは重症だろうか。小狼は、頬杖をついてさくらを見つめる。その視線は、どこまでも甘い。
「さくら。口の周り、ベトベトになってるぞ」
「ほぇ?」
「ほら。こっち向いて」
そう言うと、さくらは素直に顔を向ける。小狼は、さくらの口元をぺろりと舐めた。甘いはちみつの味に、スイッチが入る。
「ん・・・っ」
「さくら、まだ」
「ぁ・・・、ん」
唇についたはちみつも舐めてから、啄むようにキスをする。そうすると、予想通り止まらなくなる。
さくらの髪に手を差し入れて、逃げられないようにすると、更に深く口づけた。
甘いキスに、くらくらして、酔いそうだった。
小狼がさくらの唇を存分に味わっているうち、変化が起きる。
とろんとしたさくらの寝惚け眼が、急速に目覚め始めたのだ。キスをしながら、小狼はそれを確かめる。
さくらの体に力が入って、離れようと身じろぎするけれど、それを許さない。
更に強く抱きしめて、飽きることなく口づけた。
「っ、はぁっ・・・、ふぇぇ、苦しいよぉぉ」
「・・・ん。おはよ、さくら」
「ほぇ?お、おはよう・・・?あれ?私、起きて・・・あれ?」
完全に覚醒した頃には、朝食はほとんど食べ終えている。さくらは困惑しながらも自分の状況を確認し、顔を真っ赤に染めた。
「~~~っ!今日こそ、私の方が早起きして、ご飯作ろうと思ってたのに・・・!!いつも小狼くんが先に起きて、ご飯作ってくれて・・・」
「俺は別に構わないけど」
「でもでも・・・!私、奥さんなのに!奥さんなのに・・・。ごめんね、小狼くん」
自己嫌悪して、落ち込んで。涙を浮かべて、謝る。これも、数日に一度のサイクルで回ってくるパターンだ。
そういう時、小狼はさくらを抱きしめて、ポンポンと頭を撫で、浮かんだ涙を唇で拾う。
「さくらは、ちゃんと奥さんしてるよ。・・・俺にとっては、これ以上ないくらいに幸せだ」
「・・・ほんと?」
「うん。だから、無理して早起きしなくてもいい。・・・寝ぼけてるさくらを見るのも、幸せだし」
ぽつり、と本音が零れる。
さくらは安心したように笑ったあと、ふと何かを考える仕草をする。
そうして、小狼の腕の中から勢いよく顔を上げると、今度は怒りだした。
「も、元はと言えば・・・!小狼くんが、寝かせてくれないから・・・っ!昨日だって、あんなにあんなに・・・!なのに、どうして小狼くんはそんなに爽やかに起きられるの!?ずるい―――!」
「・・・・・」
「っ!なんで笑うの!?もう、もう・・・!さくら、怒ってるんだよ!」
必死になって怒るさくらを見て、小狼の頬は緩む。もう、緩みっぱなしだ。
あどけない寝顔も、寝惚けた顔も。目覚めた時の驚いた顔も、照れた顔も凹んだ顔も、こうやって怒る顔も。全部が可愛くて仕方ない。毎朝同じ事をしているのに、全く飽きないのだ。
(・・・結婚してよかった)
甘ったるいくらい、幸せな朝。毎日のように、小狼はそれを実感する。
にこにこと笑う小狼を見ていたら、さくらの怒りも萎む。赤い顔で黙り込むと、大人しく小狼の胸に頭を預けた。
そうして、ぽつりと言う。
「・・・明日は、絶対絶対、私の方が早く起きるから。だから、その。今日は・・・なるべく早く寝かせてね?」
照れているせいか、最後の方は言葉が小さく消えていく。
黙り込んだ小狼に、さくらは不安になって顔を上げた。
「・・・っ!?」
すると。すかさず口づけられて、さくらは驚く。
先程よりも強い力で、隙間なく抱きしめられる。息もつかせぬ口づけに、さくらは抵抗する間もなく流されて。
力が抜けた瞬間、パジャマのボタンを外されたから、更に驚いた。
「しゃ、小狼く・・・、んっ!んん・・・っ!ちょ、ちょっと待っ・・・!?」
「ん?・・・ああ、時間?大丈夫だ」
「ひゃ・・・っ、や、なんで、触る、の?やぁ、・・・だめだってばぁ!・・・んっ」
抗議も空しく、小狼の手はどんどんさくらの体を暴いていく。止まない口づけは、だんだんと熱を持って。
朝の眩しい食卓で、甘い吐息が零れる。
長いキスで、さくらがとろとろに蕩ける頃。ちゅ、と音を立てて離れると、小狼は唇を舐めて言った。
「こうなることを見越して、余裕もって早めに起きてるから。心配するな」
しゅるり。綺麗に結ばれたネクタイが、片手でいとも簡単に解ける。
その仕草に見惚れている間に、さくらは小狼の腕に抱かれて、寝室へと逆戻り。
だけど抵抗する気も起きなくて。まんまと熱をあげられてしまった体は、何よりも、目の前の人を求めていた。悔しいけれど、心と体は正直だ。
さくらは潤んだ瞳で、小狼へと問いかける。
「小狼くん。お仕事、遅れちゃうよ・・・?」
「大丈夫。さくらを可愛がる時間も、最初から想定済。なんの為に早起きしたと思ってるんだ?」
「・・・っ。うぅ、ずるい・・・」




さくらは小狼の腕に抱かれて、朝の白い光の中、存分に愛されることとなった。
朝食を終えてから、約一時間後。小狼はネクタイを再び締めて、スーツのジャケットを羽織る。
可愛い奥さんのキスで、「いってらっしゃい」と送り出され、小狼は上機嫌で出社する。
それを見送って、さくらは「明日こそ」と決意を新たにした。


しかし、結局。幸せな朝の争奪戦は、小狼の無敗のまま、続いていくのだった。

 

 

~2017.9.20  web拍手掲載

 

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