丑三つ時の頃。自分の姿さえも隠してしまうような暗闇の中で、静かに息を吐いた。
大気の中の脈動を、確かに感じる。問いかける声に答えるのは、この世界に確かに存在する、目には見えない者達。
異なる世界からやってきた己が、この場所に受け入れてもらうまで、一年の歳月がかかった。
「・・・やっと、この日が来た」

 

 

 

 

名もなき世界 【後編】

 

 

 

 

さくらがこの世界にやって来てから、ひと月が経った。
「撫子!ちょっと、手伝ってもらっていい?」
「は、はい!」
朝御飯の食器を洗っていた時、同部屋の姐さんが慌ただしく駆けてきて、そう言った。
さくらはやりかけの仕事を片付けると、急いで部屋に戻って支度をした。
「ごめんねぇ。お客さんが飛び入りで。撫子の年の頃も付けてくれと我儘を言うんだよ」
「いえ!私でよかったら!」
妓館に来てから特に世話をやいてくれた人の頼みとあっては、断る選択肢はない。
鏡の前で髪を整えて、香を耳のあたりに付ける。「支度終わりました」と言うと、姐さんは驚いた顔をした。
「化粧、教えただろ?しないのかい?」
「あっ・・・。えっと、ジェ、佳楠様が・・・化粧はするなって」
「・・・なるほど」
怒られるかもと覚悟したが、妙に納得した顔で、しかも何やら同情的な目で見られてしまった。
それ以上は触れられる事なく、客の待っている部屋へと赴く。
扉を開けると、朝から既に酔っぱらった様子の大男が、酒を煽りながら待っていた。
妓館に来るお客は大体が貴族か役人で、その中でも二人の妓女を指名できると言うのはかなりの上客だ。
姐さんといっしょに部屋に入ったさくらを見て、にやりと笑う。その笑みに、思わず鳥肌がたった。
(だ、ダメダメ。お客さんだもん。頑張らなきゃ)
とは言っても、自分はあくまでおまけなのだから、姐さんの手伝いをする気持ちだった。
男はさくらを手招きした。さくらは新しいお酒を手に、そっと隣に座った。
「まあ、そう緊張するな」
「ほぇっ・・・」
肩を掴まれ、無理矢理に抱き寄せられる。その拍子に、持っていた徳利から酒が溢れて、男の膝を濡らした。
「あー!何をしているんだ!汚れたぞ!」
「ご、ごめんなさい!今拭きます」
慌てるさくらだったが、男は手を離すどころかますます強く引き寄せる。困惑するさくらの代わりに、姐さんが立ち上がった。
「ちょっと待っててくださいね、代わりのお酒と拭き布を用意しますから」
お客を怒らせては大変だ。だから機嫌をとっておけ、と。視線で言われた気がした。
さくらは青くなりながらも、こくこくと頷く。
息がかかるほどの距離は、正直に言うと、逃げたくなるくらいに辛い。だけど、一宿一飯どころじゃない恩がある。
さくらは精一杯の笑顔で、男に話しかけた。
「お、お酒がお好きなんですね!」
「ん?んん~?」
「何か食べ物、頼みますか?お酒だけじゃ飽きちゃいますよね」
「んん~。安心しろ。可愛いお前がいれば十分肴になる」
鼻息がかかる。男のすぼめた唇が、さくらのピンク色のそれに触れようと近づくのを、笑顔で阻止する。しかし、男の力は強い。
強引に近づいた唇を徳利でガードするも、取り上げられて放られた。溢れたお酒の匂いに、くらくらと目眩がした。
「ふふふ。可愛い唇、塞いじゃうかなぁ~」
「ほぇぇぇぇ!!!」
もうダメだ、と思った瞬間。
パンッ、と勢いよく扉が開いた。
「まあまあまあ!うちの子が大変な粗相をしてしまって!」
「申し訳ありません!」
「すぐにお拭きいたしますね」
女将を先頭に、妓女達が着物の裾をひらひらと舞い踊らせながら、五人、六人と部屋に入ってきた。そして男を取り囲むようにして、甲斐甲斐しく世話をする。
呆然とするさくらは、強い力で引っ張られて、男から離される。
(・・・!!小狼くん!?)
怒った顔の小狼が、騒ぎに乗じてさくらを部屋から連れ出した。そうして、迷いない足取りで別の部屋に入ると、早口で何かを唱えた。
さくらは、緊張が解けたのもあって、その場にへなへなと座り込んだ。小狼もすぐ傍に腰を下ろして、さくらの顔を覗き込んだ。
「こ、こわかった・・・。小狼くん以外の、人に・・・キス、されるかと思って」
「・・・馬鹿さくら」
ムッとした顔のまま、小狼はそう言って、さくらの頬を掌で包んだ。息も触れるほどに近づいたその時、小狼はもう怒っていなかった。
仕方ないな、というように笑って、さくらの唇に優しくキスをする。
甘いやり取りに、頬が緩む。
しかし、その時。ハッと気づいて、さくらの顔は青ざめた。
「間違えちゃッ・・・!しゃお、じゃなくて、佳楠様!」
ここがどこか、一瞬だけ忘れてしまった。慌てふためくさくらに、小狼は笑って、ちゅっ、と音をたててキスをする。
「・・・もう大丈夫だ、さくら」
「え・・・?あれ?名前・・・、いいの?」
「ああ。もう、『アイツ』には見えないようにしたから」
小狼の言葉の意味は、さくらにはわからなかった。
だけど、極上の甘い笑顔で、両手を広げて待つ小狼を見たら、勝手に涙が溢れた。
「~~~っ」
ポロポロと涙を落としながら、さくらは小狼の腕の中に飛び込んだ。
「小狼くん、小狼くんっ・・・!しゃおらんくん・・・!」
「・・・あー。やっとだ。さくら。やっと、お前の名前が呼べる」
「・・・っ、寂しかったよぉ!」
「それは俺の台詞だ」
苦く笑って、小狼はさくらの頬を撫でた。涙でぐちゃぐちゃになった顔を、愛おしそうに見つめる。
それから二人は、離れていた寂しさを埋めるように、ただただ抱き合っていた。






「・・・見えなくなった。なぜだ?まさか・・・」
目を閉じれば、望むものが映しだされた。この国にあるものならば、すべて自分のものに出来る。
なのに。この万能の心眼が、突然に見えなくなった。ある人物のみ、魔力が遮断されている。
それが出来る人間は、この国にはいない筈―――だった。
神官は底から沸き上がってくる感情に、震えた。口角が歪み、堪えきれない笑みが零れた。
「さて。二人のうち、どちらにしようか・・・」










小狼はさくらの身体をすっぽりと腕の中に閉じ込めて、これでもかと甘やかした。
こめかみや瞼にキスをしながら、小狼はこれまでにあった事を話してくれた。
「さくらが来ても、しばらくは傍にいられない。それはわかってたから、事前に準備してた。この世界で一番安心してお前を預けられるところは、この妓館だったから」
「うん。みんな、良くしてくれてる。小狼くんのおかげだよ」
小狼は複雑そうに笑った。
妓館という商売の事を考えると、苦渋の決断だった。だけど、嬉しそうに笑うさくらを見ていると、間違いではなかったのだと安堵する。
小狼は無言のあと、口を開いた。
「一年、この世界で過ごした。元の世界に帰る方法を探しながら。・・・さくらが来なければいいと思ってた。危険だからな」
「うん・・・」
「でも。あの日、異世界からの贈り物がオークションに出品されると聞いて、体が震えた。さくらに会えると思ったら・・・」
それ以上は言葉にならず、小狼は黙って俯いた。さくらは堪らない気持ちになって、小狼を抱き締めた。今度はさくらから、小狼の頬や唇に、キスをする。
このままずっとイチャイチャしていたいけれど、そういうわけにもいかない。さくらは、これからの事を小狼へと切り出した。
「単刀直入に言うと、この国では使える魔法が限られている」
「え・・・!?」
驚きの事実を知らされ、さくらは固まった。小狼はその反応に呑気にも笑って、続けた。
「一年かけて少しずつ、影響を与えられるだけの魔法が使えるようになった。今、部屋に結界をはった。そうしないと、この国にいる限り、奴にすべてを見られているからな」
ちっ、と舌打ちする小狼の顔を見て、さくらは相当苦労をしたのだろうと察した。
「この世界の精霊は頑固な上、あの妖に支配されている。手懐けるのに苦労した」
「え・・・?妖って・・・」
「神官だ」
さらっと言われて、さくらはまたも次の言葉を見失う。
話の展開が早い。だけど、言われる事実を疑う気にはなれなかった。彼女へと感じた恐怖心も、妖と言われれば納得できる。
「奴は長い間、妖術で国を支配している。『異世界からの贈り物』は、奴の生け贄として器を奪われていたんだ」
「えっ!じゃあ、異世界から来た人が神官になるんじゃなくて・・・妖に、体を乗っ取られていたということ?」
さくらの顔が青ざめる。
女将から聞いた話とも、辻褄が合う。神官になった途端に人が変わったようだったと言った。妖に取り憑かれて人格がなくなれば、それも必然だろう。
「奴の魔力は国中を支配している。この国一帯に結界が張ってあって、その中にいる以上は行動も会話も奴に見張られているし、魔力も制限される。逆らう意思を奪い、死なない程度に国民から魔力と生命力を吸いとって。おそらく、そうやって何百年もここで生き永らえているんだ」
「・・・っ」
さくらの脳裏に、この国で暮らす人達の姿が浮かんだ。女将や姐さん達。貴族や役人。みんな、普通に暮らしているように見えるのに。
見えない支配は、気づかぬまま何百年も続いていく。これから先も、変わらずに。
「そんなのダメ・・・っ!あの神官さんを止めなきゃ!」
「そう言うと思った。どちらにしろ、元の世界に帰るには奴をどうにかするしかない。あと・・・多分カードも奴の手にある」
「!」
「俺は、いつもと同じようには戦えない。この世界には札も羅針盤もないからな。・・・でも、やり方を変えればいいだけだ。多少の無茶をしてでも」
小狼の目には、強い決意が見えた。さくらは不安を抱きながらも、頷く。
首にかかった封印の鍵を握って、カード達の事を思った。
「・・・でも。私、魔法が使えなかったらどうしよう」
小狼が術を使えるようになるまで、一年の歳月を要したという。もしかしたら自分はもっと時間がかかるかもしれない。
その間に、カード達に何かがあったらどうしようと、さくらは弱気になった。
しかし。小狼はあっさりと、それを否定した。
「それは大丈夫だ、多分」
「ほぇ?そうなの・・・?」
「ああ。俺の使う術は、自分の魔力と、自然の中にある力を必要とする。この世界では勝手が違っていたから、時間がかかった。でも、さくらの魔法は違う」
さらりと、頬を撫でる大きな掌。小狼はさくらの額に自分のそれをコツンと当てて、言った。
「想いがすべてだ。それは、どの世界にいても同じに」
「小狼くん・・・」
「いっしょに帰ろう、さくら」
こぼれた涙は、再会の嬉しさからなのか、降り積もった寂しさからなのか、よくわからない。
さくらは、小狼の胸で子供のように泣いた。











その日の夜。皆が寝静まったあと、さくらはこそこそと起き出した。
そうして、隠しておいた制服に着替えると、音を立てないように妓館を出た。
(お世話になりました)
静まり返った建物に、さくらは深く頭を下げて、走り出した。
目指すのは、国一番に高い塔。そこに、神官がいる。
―――『塔の入り口近くで待ってる。誰にも見られないようにな』
明かりのない道を、さくらは駆けた。色々と考えてしまうと、怖くて足が竦みそうになる。
(うぅ、暗いよぉ。小狼くん、どこだろう?)
随分と塔に近づいてきた。さくらは一旦立ち止まって、周囲を見回した。
その時。微かな足音が、聞こえた。小狼かと思って喜んだのも束の間、その足音は四方から聞こえて、少しずつ近づいてきていた。
「・・・っ」
どこかに身を隠さなければ。そう思って駆け出した瞬間、強く腕を捕まれる。さくらは痛みに顔を歪ませた。振り解こうとしても、びくともしない。
役人と思わしき服装の人間達に囲まれて、さくらは身動きが取れなくなった。
「神官様のもとへ」
「さあ、行こう」
虚ろな瞳には、なんの感情も見えない。これも、神官の使う術なのだろうか。
(小狼くん・・・っ)








塔の中に入る時。視界を隠された。暗闇の中をぐるぐると歩き回されて、やっと目隠しが外れた時。目の前に、神官がいた。
「・・・ようこそいらっしゃいました。歓迎しますよ」
まるで玉座に座る王様と、裁きを待つ罪人のようだ。さくらは縄で縛られ、跪かされる。その状態でありながら、見下ろす神官を睨んだ。
「カードを、私のカードを返してください・・・っ」
「そうだ。あれがなんの役にたつのか、教えてくれないか。残念ながら、私では扱えないようだ」
覗き込む神官の瞳は、心の中まで見られてしまうような恐れを感じた。
だけど、さくらは逃げなかった。果敢に神官を見つめ返すと、言った。
「・・・では、お教えします。神官様。私のカードを、ここに持ってきてください」
(小狼くん・・・小狼くんはきっと、私を追いかけてくる。ううん。もう既に、『ここ』にいるかも)
ひとりじゃない。そう思う事が、さくらの何よりの力と勇気になった。
やがて、数人の役人がカードを持ってやってきた。さくらはホッとした後、縄をほどいてほしいと神官に頼んだ。
しかし。神官は笑って、それを拒否した。
「でも、縄をほどいてくれないと、カードの使い方を教えられません」
「ダメだよ。縄をほどいたら君は逃げるだろう?」
目を細めて笑う神官の顔が、ゆらりと揺れた。
さくらは酷い目眩を覚えて、そのまま倒れた。これが、『神官の支配』による術。意識は、かろうじて失っていなかった。
「やっと効いてきたみたいだね」
その時。さくらは、気づいた。
(この、魔方陣・・・どこかで見たことが)
さくらのいる場所。石造りの床に掘ってある魔方陣の模様。さくらの記憶の中で、それは合致した。
(あの鏡の裏に掘ってあったものと、同じ・・・!)
その時。神官の声が、やけに近く聞こえた。
「よかった。お前は、この札の魔法を使う術を知っているようだ。それなら問題ない。・・・その身体を明け渡してもらえれば」
「・・・!?」
「とても良いものを見つけた。お前の体も魔力も、私のものだ」
伸ばされた神官の手に、ぞくりと震えた。なぜだかわからないけれど、触れられたら終わりだ。そう思ったから、さくらは渾身の力で起き上がり、神官から距離をとった。
「往生際が悪いな?逃げられるわけがないのに」
役人がさくらを取り押さえる。神官は腰を下ろすと、手に持ったカードを見せつけるように広げ、笑んだ。
「この不思議な札からは、私が今まで見たこともなかったような魔力を感じた。だが、どうやらこれだけでは使いようがないらしい。だから少し予定を早めて、『神官交代』を行う事にしたんだ。どちらにしようか迷っていたが、やはり若い女の方がいい」
「・・・!今までにもこうやって、異世界から魔力を持つ人を呼び寄せて、身体を乗っ取っていたの!?この世界にきた女の子の身体を奪って、この国の人達の生命エネルギーを奪い続けて・・・!どうして、そんな事ができるの!」
さくらの涙ながらの言葉に、神官は笑みを深くした。そうして、冷たく言い放った。
「この世には、奪うものと奪われるもの。その二種類しかいない」
「・・・違う!」
「お前は、奪うものになれる。私と一体化することにより、神になれるのだ」
神官は手を伸ばして、さくらの頭部を掴んだ。
―――否。それは、幻のように一瞬で消えた。
「なに・・・!?」
今しがた目の前にいたさくらの姿が、忽然と消えた。狼狽える神官は、思わず立ち上がって周囲を見回した。
「・・・狐につままれるっていう感覚、わかったか?」
「!!お前は・・・!」
役人の一人、さくらを取り押さえていたその男が、マスクを取った。不敵に笑うのは、この世界へのもう一人の来訪者。
「・・・来たか、佳楠。いや、その名は本当のものではないな?」
「親切に名を明け渡すわけがないだろう?」
強気に応じる小狼を、神官は笑顔で迎え撃つ。手にした神杖が、シャン、と音をたてた。
「ふん。お前を捕らえずに泳がせていたのは、利用価値があると思っていたからだ。だが、邪魔をしようと言うなら容赦はしないぞ」
神官の笑顔からは、いつもの余裕が消える。
なぜならば。
小狼の隣で、杖を構える少女、さくらがいたからだ。
小狼は役人になりすまし、さくらを取り押さえるふりをして、その縄をほどいていた。
そして今。さくらは神々しいほどの眩い魔力を纏って、神官と対峙する。
「私は、あなたを許さない・・・!何百年もずっと、無関係の人の人生を奪って、この国の人を騙して、支配してる。そんなの、絶対にダメっ!」
妓館の女将や、姐さん達の顔が浮かぶ。見知った人達に似た、あの人達の笑顔。たとえ別人でも、この世界で懸命に生きる人達に変わりない。
「・・・ふふ。もう、勝った気か?」
神官は神杖を揺らした。シャン、と音が鳴る。
その瞬間に、さくらはまた強い目眩を覚えて、膝が落ちた。しかし、それを小狼が支える。
「しゃお、・・・っ!」
「あいつの目を見るな。奴の妖力は強い。この国の中では特にな」
「でも」
「大丈夫だ。さっきのやり方でいい。俺が、傍にいる」
小狼はさくらの背後に立ち、腕を回して抱きしめた。また目眩がしても、足に力が入らなくなっても、小狼が支えてくれる。
さくらは、「うん!」と頷くと、神官へと向き合った。
「さっきのは・・・『幻』のカード」
「・・・!?」
「今度は、『風』はどうですか!?」
さくらはそう言って、杖を振るった。神官の持つカードの中から、一枚のカードがふわりと浮き上がる。
「汝、近づく者を風の壁に閉じ込めろ・・・!『風(ウィンディ)』!!」
竜巻のように渦を巻いて、神官を閉じ込めた。呼吸さえも遮られ苦しそうに呻く神官だったが、再び神杖で地面を叩き、風は押さえ込まれた。
「・・・っ!」
「生ぬるい・・・!お返しをしてやろう」
神官が神杖を高く振るうと、風が渦を巻いて大きくなった。さくらが作った『風(ウィンディ)』とそっくりの、いやそれ以上の威力を持つ竜巻が、二人を襲う。
「・・・!ただの風じゃない!!」
小狼はそう言うと、さくらを守るように抱き締めた。鋭い風の刃が、容赦なく襲いかかる。赤い血が飛び散るのを見て、さくらの顔が青褪めた。
「大丈夫だ・・・っ!致命傷にはならない!」
「でも!」
さくらには意地でも傷はつけないとばかりに、小狼は身体を丸めた。
それを見て、神官は笑みを深くする。
「せいぜい盾になるがいい。だが、いつまでもつかな?」
(どうしよう!なんとかしなきゃ、小狼くんが・・・!なにか、なにか・・・っ)
「・・・っ、『反射(リフレクト)』!!」
さくらの声に反応したカードが、神官の手から離れ、発動した。さくらと小狼を襲った竜巻は、反射のカードの力により神官へと跳ね返る。
神杖がシャンッと音をたてた瞬間、竜巻は消えた。
「小娘が・・・っ」
怒りの表情が、だんだんと人間離れしていく。
怯えるさくらに、「大丈夫だ」と言って、小狼は杖を持つ手に自分の手を重ねた。流れる血が、さくらの心を熱くする。
さくらは零れそうな涙を、ぐっと堪えて、神官を睨んだ。
「それなら・・・!・・・汝、不届き者に雷の鉄槌を与えよ!『雷(サンダー)』!!」
どこからともなく暗雲が立ち込めて、強烈な光の柱が一点へと目掛けて落ちた。神官はそれを間一髪で避けるが、さらに第二波、第三波の雷が頭上で唸りをあげた。
「・・・!」
神官は神杖を投げて、自分も後方へと高く飛んだ。その拍子に、胸元からこぼれたカードが、勢いよく散らばる。
神杖は避雷針のように降ってくる雷を引き寄せる。
ドン、と大地を震わせる衝撃が落ちて、その場は白い光に包まれた。
光が収まった頃に、さくらはゆっくりと目を開けた。
そして。そこにあった光景に、驚愕した。
「・・・っ、よくも、私にこんな辱しめを・・・!」
神官の顔は、狐そのものになっていた。神杖を失い、そして今カードも失った。
カード達は、絶対的な意思のもと、主であるさくらへと寄り添う。
魔物の本性を隠しきれなくなった神官の前に、小狼は進み出た。
「もう十分だ」
「なに・・・?」
「お前を滅する。その準備が整った」
小狼が指を鳴らすのと同時に。その場の空気が変わった。
さくらは、小狼が強い結界を張ったのだとわかった。
「あ、ぁ・・・!?な、ん、だ、こ、れ、は・・・!??」
「お前がこの世界の周りに作った結界と同じだ。ただし、この結界内はお前のような魔物を滅する力が働く」
「ぬぁ、あ・・・っ!ゆ、許さん!!!」
倒れこみながら、獣の手が、鋭い爪が、小狼を捕らえんと伸ばされる。しかしそれは届かない。砂のように儚く消えていく己の姿を見て、魔物は絶望的な悲鳴をあげた。
「お前のような小物に、なぜこんな力が・・・!」
「・・・確かにお前の妖力は強い。だが、この国全部を覆う結界は相当に魔力を使うだろう?そっちに力を注ぎすぎたお前と、この部屋に全魔力を注いだ俺との差は歴然だ。俺達を甘く見たのが、お前の敗因だ」
「おのれ、おのれ、許さん・・・っ」
何百年―――何千年と、座り続けたその玉座から、妖の存在が退けられる。
「貴様の匂い、忘れぬぞ!!いつか見つけ、出して、・・・―――っ!!!」
耳を塞ぎたくなるような断末魔のあと、魔物の気配は無くなった。
さくらはハッとして、小狼へと駆け寄った。小狼は、力が抜けたように膝をついて、苦しそうに息をしていた。
「大丈夫だ。すこし、無茶をした・・・、だけ、だ。この世界に干渉していた奴の力は、時期に消える」
「・・・っ!」
「泣くな、さくら。頑張ったな」
「小狼くんもだよぉ」
強く抱きしめると、さくらの体温と鼓動を感じる。小狼は、ホッと安堵の息をはいた。
退魔の結界は、そうそう使えるような魔法ではない。正直、成功するかどうかもわからなかった。魔物が消滅するのが早いか、術が切れるのが早いか。
賭けに近い勝負は滅多にしない小狼だったが、この時ばかりは無茶をした。
「・・・元の世界に帰りたいっていう、想いの勝ちだな」
「うん・・・!」
お互いに健闘を称えあって、抱き合った。
しかし。ふと、気づく。
「いや・・・奴を倒せば帰れるっていうのは、甘かったか・・・?」
「ど、どうしよう?」
この世界に呼び寄せた妖がいなくなって、災いは消えた。しかし、元の世界に帰るのはまた別の話だ。
小狼は真剣な顔で思案しながら、ぽつりと言った。
「・・・うん。まあ最悪、俺はお前がいれば」
「ほえぇ!?で、でも。みんな心配してるよ?」
「わかってる。・・・だから、帰る方法を見つけるまで、この世界で暮らすのも悪くないなって」
「!!」
「さくらがいれば、『ぜったいに大丈夫』だからな」
不安を吹き飛ばすような小狼の笑顔に、さくらの胸はきゅんとする。
そんな場合じゃないのに。この世界で小狼ともう少しいっしょにいるのも、悪くないな、なんて。思ってしまった。
「妓館に住まわせるのは何かと心配だし、新居を見つけないと。広さと、寝室が重要だな。女将に相談して・・・」と、ぶつぶつと呟く小狼の声が妙に浮かれていたような気が、したような気のせいのような。
その時。
「・・・帰れます。あなた達を、元の世界に・・・帰す方法・・・あります」
「えっ!あ、あなたは・・・!!」
魔物が退魔結界により滅んだあと、小さく丸まっていたその影が、ゆっくりと動いた。
着ている服装を見て、さくらは「まさか」と思った。
「神官様・・・?じゃなくて。もしかしてクミンさん、ですか?」
「・・・はい。あなた方のおかげで、魔物から解放されました。私の命ももう長くはない。その前に、あの術を・・・。私はずっと見ていた。あの魔物が異世界から魔術師を呼び寄せる術。その逆も、今この場所であれば出来る」
クミンの姿は小さく萎んで、顔もすっかりお婆ちゃんになっていた。息も絶え絶えに、例の魔方陣へとにじり寄り、手を添える。
「さくら、行こう」
「・・・!」
小狼はさくらを抱き上げると、魔方陣の中心へと身を置いた。クミンの呪文に呼応するように、魔方陣が光を放つ。
クミンは悲しそうな顔で、陣の中にいるさくら達に言った。
「ただこの術は不安定で・・・二人がいっしょに、元の世界に戻れる保証は、ありません・・・離ればなれになって、違う世界にいく、可能性も・・・」
「ええっ!?」
さくらは不安そうに小狼を見た。小狼は眉を顰めたあと、さくらをぎゅっと抱き締めた。
「大丈夫だ。絶対に離さない」
「・・・!うん!私も、もう離れない。絶対、絶対、大丈夫だよ!」
強大な魔力が、次元の針を再び動かした。
周りにある景色が、この世界の気配が、遠くなる。
こみあげる想いに、さくらの目に涙が浮かんだ。
「あの!クミンさん・・・!もし、妓館の女将さんに会えたら・・・!ありがとうって、伝えてください!あと、私の本当の名前は―――」
一面、眩しい光に包まれた。さくらの声も、心臓の音も、小狼の息づかいも、消えて。無音の世界の中に落ちていった。












「おい。おい?お前ら、なにやってるんだ?ここで。おい」
「ん・・・?」
「あー、起きた。死んでるのかと思っただろ。まったく」
目を開けたら、茜色の光が見えた。さくらはぼんやりとそれを見たあと、ぱっと目を開けた。
埃っぽい匂い。古びた骨董品。本物と見紛いそうな蛇の顔。さくらは、自分の頬をつねった。ちゃんと痛い。
ハッとして、隣を見た。同時に目覚めただろう小狼が、驚いた顔でさくらを見ていた。伸びた髪も怪我も、元通りに戻っている。
―――いっしょに、帰ってこられた。
実感が涙になって溢れる。再び頬をつねったさくらに、小狼は苦笑した。
かぁ、かぁ、と。カラスの少し間の抜けた鳴き声が聞こえる。
「あの。ここのお店の人ですか?」
「ああそうだよ。びっくりしたよ。帰ってきたらあんたらが床に倒れてるから。イチャつくなら他でやりな」
「今って、西暦何年何月何日ですか」
「はぁ?」
怪訝そうにしながらも、男は教えてくれた。それを聞いて、さくらも小狼も顔を見合わせて黙りこむ。
「あの日のまま・・・時間、経ってない?」
「そうみたいだな」
要領を得ない二人の会話に、男は首をかしげた。店じまいなのか、商品を片付けながら言った。
「なんだなんだ。二人して昼寝して夢でも見てたんだろ?それとも、ファラオの呪いで頭が変になったか?」
冗談混じりの言葉に、さくらはきょとんとする。まだ、記憶に新しい。数時間前まで、自分が暮らしていたあの世界。
(夢だった・・・?)
「・・・夢だったかも、なんて。そんないい感じで終わらせるつもりはないぞ。なんせ、一年以上かかってるんだからな?」
「え?」
「えっ?」
小狼は笑顔だったが、目が笑ってない。片付け途中の男の首をつかむと、耳元で言った。
「今から正式な書類を申請して徹底的に調べるからな。この店の事も、店の商品も。ひとつ残らずだ」
「えぇっ!?な、なんでですか!別に、わ、悪いことや不正な事は・・・、し、してませんよ!?」
「知るか!」
店主の狼狽えように、小狼は呆れた。さくらと目があって、苦笑する。
「・・・まったく」
「ふふっ」
さくらの目尻に浮かんだ涙を、小狼の手がそっと拭って。二人はなんとも言えない顔で見つめあったあと、笑った。
そうして、お互いに現実感を取り戻すように、強く抱き合ったのだった。












「クミン様、神官をおやめになってすぐに逝ってしまわれましたね。何やら、今まで妖に操られていたなど、信じられない」
「そうですね。でも・・・少し前の神官様よりも、すごく人間味があって、最後までお優しいお方でしたわ」
お墓に花を供えて、女将は立ち上がった。
抜けるような青空。一瞬、彼女の声が聞こえた気がした。
「佳楠様と撫子、やっぱり二人で駆け落ちですかねぇ。あのまま神官になってたら結婚できなかったわけだし」
「・・・さくらちゃん、ですわ」
「え?」

私の本当の名前は―――。

「いつかまた、会えたら。その時は、私の名前も呼んでくださいね。さくらちゃん」













「・・・え!あの鏡、無くなってたの?」
「ああ。どこを探しても見つからなかった。店主も覚えがないそうだ。他の商品も全部調べたが、魔道具の類いやおかしな術が仕込まれたものは無かった」
なんとも納得がいかない幕切れだ。
あの場所で起こった不思議な出来事は、本当に夢だったんじゃないか。数日経った今、記憶もだんだんと薄れていく。
「ほんと、不思議なところだったね。そういえば、みんなのそっくりさんもいたよね!」
「・・・ああ。今でもふと、山崎の顔を見ると殴りたくなる」
「なっ!なにがあったの?小狼くん」
「色々とな」
苦虫を潰したような表情で何やら不穏に呟く小狼に、さくらは苦笑した。
思い出すのは大変な事ばかりなのに、なぜだか笑みが浮かぶ。優しくしてもらった記憶。何もわからない中で懸命に日々を過ごした。
さくらは、澄み渡った青空を見上げて、ぽつりと呟いた。
「私と小狼くんに似た人も、もしかしたらいたのかなぁ」
「・・・かもな」
「あっちの世界でも、仲良しだといいな。ね!」
小狼は笑って、返事の代わりに触れるだけのキスを落とした。路上だったので、さくらは真っ赤になって周りを見るが、誰にも見られてないようだ。
抗議をしようとしたさくらだったが、小狼の真剣な目に見つめられて、固まる。
ぎゅっ、と手を取られて。距離は近くなる。指を絡めて、頬と頬を擦り合わせる。
路上なのに。誰かが通るかもしれないのに。いつもなら遠慮する場所で、小狼は意味ありげに触れながら、言った。
「とりあえず。一年離れてた分、さくら不足なんだ」
「・・・ほぇっ!?」
「明日から連休でよかった。ああ、許可はとってあるから。心配するな」
その笑顔は、見覚えがあった。あの世界に落ちて、はじめて『佳楠』に抱き締められた時と、同じ―――。
(私、どうなっちゃうん、だろ・・・?)
想いが溢れる。頬が、勝手に緩む。
さくらは小狼の手に引かれて、ふたりだけの世界へと足を進めた。


名もなき世界への扉は、いつの日かまた開く―――かも、しれない。


 

 

END

 

 


「魔術師の闇オークションもの」「異世界に飛ばされちゃうしゃおさ」「さくらちゃんが健気に頑張るお話」の三つのリクエストをもとに書いてみました!

長髪の着流し小狼が書けて個人的に楽しかったです・・・♡魔法のことなどかなり捏造してますが、雰囲気で楽しんでもらえたら幸いです♪


 


2020.5.23 了

 

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