それは甘い20題

 

06. 視線

 

 

 

 

 

―――怒らせてしまったのかもしれない。
小狼は、憂鬱な顔で溜息をついた。読み始めた本の内容は、気付けば頭から飛んでいる。ふと思い出しては考え込んでしまう。
意味なくページを捲ったあとに、ハッと気づいて、小狼は本を閉じた。今日はもう、読書は諦めた。
生憎の雨で、室内は薄暗い。窓の外では、弱い雨がしとしとと降り続いていた。
今日は土曜日。授業は午前中で終わって、それから各自委員会という日程だった。所属する図書委員は先程解散になって、小狼はそのまま図書室に残った。いつもそうだ。委員会がある土曜日は、読書をしながらさくらを待っている。読書に集中しすぎて、声をかけられても気づかずに、逆に彼女を待たせてしまう事も多くある。
けれどさくらは、少しも嫌な顔をしない。
『真剣にご本読んでる小狼くん、見てるだけで楽しいもん』
そんな言葉を、可愛い笑顔で言ってくるものだから、心臓がいくつあっても足りない。思い出しただけで、どくんどくんと忙しなくなる有様だ。
小狼は頬杖をついて、降り続く雨の音を聞いていた。ここは専門書のエリアで、図書室の中でも滅多に人が来ない。静かで、本の匂いがして、落ち着く。だから気に入っていた。
でも今日は、静けさが逆に鼓動の音を響かせる。
手持ち無沙汰になって、先程投げた本をもう一度開く。だけど読む気になれなくて、ぼんやりと文字を追った。
(やっぱり。強引すぎたか・・・。あれから、さくらは何も言わないけど)
小狼は、昨日の事を思い出していた。
ここ数日少しギクシャクしてしまっていたから、なんとかその状態を脱したくて、さくらを誘った。遠回りした帰り道に、さくらの好きなテディベアが売っている店があった事を思い出して、偶然を装って連れて行く。案の定、さくらは笑顔になった。
(・・・可愛い)
すぐ傍で咲いた笑顔に、衝動を抑えきれなかった。無邪気に笑って体を寄せてきたさくらの唇に、自分のそれを重ねた。
やわらかで、どこか甘い。触れた瞬間、頭の中が真っ白になった。思考も何もなく、ただ触れている唇に意識を奪われた。
驚きに見開かれた淡碧の瞳が目の前にあって、「今、さくらとキスをしている」という状況を、他人事のように把握する。興奮と冷静が同居しているような、不思議な感覚だった。
『・・・怒って、ないよ?』
そう言ってはにかんださくらの顔が、更に心臓を揺らした。思わず伸びそうになった右手を、慌てて隠した。さくらに気付かれなくてよかった。小狼は、こっそりと息を吐いた。
それが、昨日の事。
今日になっても、二人の距離感は遠いままだった。ギクシャクとした空気はなくなった。でも、さくらは必要以上に近づいてこない。
―――ただ、視線だけ。
「・・・さくら?」
「はっ!ご、ごめんなさい!なんでもないの・・・!」
じー、と。無言で見つめられる。一緒にいる時は不自然なくらいに目を合わさないのに。こっちの気が別に逸れると、途端に視線を感じる。
休み時間に所用で席を立った時、ふと視線を感じて振り返ると、物陰からさくらがこちらを見ていた。目が合うと驚いて、「ごめんなさい」と謝って、逃げてしまう。あまりに挙動不審なので、小狼自身も戸惑ってしまい、捕まえて問いただす事も出来なかった。
何か、言いたい事があるのだろうか。だとしたら、先日のキスの事に他ならない。不意打ちで、さくらの気持ちを無視した形で、強引に致してしまった。
『怒ってない』と口では言っていたけれど、時間が経って気持ちが変わるなんて事はある。怒っているのかいないのか、今何を考えているのか。気になって仕方ない。
小狼は、何度目かの溜息をついた。
(・・・さくらに、会いたい)
憂いた瞳に、色が灯る。『小狼くん』と、笑顔で名前を呼ぶ。スローモーションで動く唇。艶やかなそれが、吐息とともに囁く。―――『好き』―――想像が進んで、小狼は一人赤面した。
その時。
近付いてくる気配に、どきりと心臓が跳ねた。
わざと足音をたてないよう、そろりそろりと近づいてくる。後ろを見なくても、それが誰なのかは分かる。当然だ。彼女の気配を、間違えるわけがない。
小狼はどうしたらいいかわからず、目の前の本に目を向けた。傍から見たら、『いつもどおり』読書に集中しているように見えるだろう。
隣へとやってきたさくらは、無言でこちらを見つめた。そうして、音を立てないように気を付けながら、小狼の隣に腰を下ろした。
感じる、視線。
(・・・ど、どうしたらいいんだ・・・?)
こんなに近くにいるのに、さくらは声をかけてこない。小狼も気付いていないふりをしてしまったから、どのタイミングで声をかければいいのかわからない。嫌な汗が浮かぶ。頭も体も、凍り付いたように動かなくなった。
その時。
ふわりと、空気が動いて。

―――ちゅ。

やわらかな感触に、小狼は目を見開いた。
すぐさま、硬直していた体が動く。
勢いよく隣を向くと、さくらが大きく肩を震わせた。余程驚いたのだろう。先程の小狼と同じように、大きな目を更に大きく見開いて、固まる。そうして次の瞬間、ぼんっ、と音を立てて真っ赤になった。
小狼の心臓が、外に飛び出してしまうんじゃないかと思うくらいに暴れる。
目の前にいるさくらを閉じ込めるように、彼女の座る椅子の背もたれに手をかける。―――固まっている場合じゃない。逃げられてたまるか。小狼は強い瞳で、至近距離からさくらを見つめた。
気まずそうに彷徨っていたさくらの視線が、小狼へと戻る。赤い顔で、先の行動の言い訳を始めた。
「・・・き、気付かれないかなって思ったの。本に集中してたから」
「気づかないわけない」
やわらかかった。
さくらの唇が触れた、右頬が熱を持つ。もったいなくて、触れられない。触れたら、消えてしまいそうで。
小狼は、気持ちを隠せなかった。抑えようと思っても、頬が緩む。顔が熱くなる。
「嬉しい」
「っ!」
「さくらから、してくれた」
「怒って、ない?」
「・・・ないよ」
昨日した会話を、そっくり繰り返している事に気付いて、小狼は笑った。それにつられたように、さくらも笑顔になる。
二人の距離は近づいて、こつんと額を合わせ、視線を絡める。小狼はさくらの両手をそっと握った。
さくらは照れ笑いをして、今日一日の不思議な行動を話してくれた。
「あのね。嬉しかったの。小狼くんに・・・き、キス、してもらえて。だから、私もお返ししたくて。でも・・・いざしようと思ったら恥ずかしくて、どうしたらいいかわからなくて」
「俺の為に、頑張ってくれてたのか?」
小狼の問いかけに、さくらは「ううん」と笑みを深くして、続けた。
「私も、もっとしたいって思ったの。小狼くんと、・・・・・っ、はっ、恥ずかしいね。言葉にして言うのって。わ、私の顔、赤い?」
「・・・ん。すごく、可愛い」
「ほえっ!?や、だめ。見ちゃ、だめ・・・。恥ずかしいよぉ」
甘やかな小狼の視線に耐えきれなくなって、さくらはぎゅっと目を閉じた。小狼は笑って、さくらの瞼へとキスを落とした。驚きに、その目が開く。
綺麗な碧の瞳に、自分の姿が映っている。小狼は、目を細めて笑った。滅多に見られない満面の笑顔に、さくらもまた見惚れる。
さくらは身を乗り出し、小狼の左頬に唇を寄せた。そのお返しに、今度は小狼がさくらの頬にキスをする。くすぐったそうに笑って、繰り返す。頬に、瞼に、こめかみに。お互いの好きを唇に乗せて、届け合う。
「さくら」
小狼が名前を呼ぶと、さくらはやわらかく笑んだ。影がかかると、瞼が下りる。
雨の音が、さあさあと、耳に心地よく響く。
触れた唇が離れて、目が開いた。さくらが、本当に嬉しそうに笑うから。小狼は堪らなくなって、もう一度唇を塞いだ。ちゅ、と。音が鳴って、途端に恥ずかしくなる。
さくらは、「はうぅ」と言葉を漏らしながら、繋いだ手にぎゅっと力を込めた。
そうして、またも爆弾を落とす。
「キスって・・・幸せでふわふわして・・・気持ちいいね」
「!!」
「ほぇ?小狼くん?」
「・・・そういう事いうから・・・もう。ダメだ」
―――本気で心臓止まりそう。
ぽつりと冗談で呟いたら、さくらが「え!?」と本気で焦った声を出した。
さくらの肩口に頭を預けて、小狼はくつくつと笑う。


この場所なら、きっと司書も邪魔しに来ない。だから、雨が止むまで。
「さくら。もう一回、していい?」


 

 


 

END

 


2018.3.29 了


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