その日は物凄く疲れていた。
完全なるオーバーワーク。厄介な仕事のツケで三日ほど睡眠がとれていない状態で、責務の重圧と張り詰めた緊張状態が続いた事もあり、歩行さえも危うい程に疲れていた。全てを終えて家に戻ったのは四日目の深夜。ベッドに身を投げたところで、意識を手放した。
(・・・そうだ。さくらに、連絡・・・。戻ったら、連絡してって、言われ・・・、ああ、ダメだ。落ちる)
ゆるやかに閉じていく意識の中で、思った。
―――さくらに会いたい。

 

 

 

 

 

mistake










―――ぴんぽーん
鳴り響いたチャイム。しかし、応答する声どころか、物音ひとつしない。さくらはへにゃりと眉を下げて、迷った末にもう一度チャイムを押した。しかし、やはり変化はない。
三度繰り返したあとに、そっとドアノブを回した。鍵はかかっていなかった。さくらは僅かに目を瞠ったあと、扉を開けて、中へと声をかけた。
「小狼くん。小狼くーん。・・・どうしよ。帰ってきてるんだよね・・・?」
さくらは独り言をつぶやきながら携帯電話を取り出し、メール画面を確認する。連絡をくれたのは、小狼の執事である偉だった。昨晩のうちに小狼を家まで送り届けた事と、極度の疲労状態だった事を知らされ、さくらは早朝からマンションの部屋に飛んできたのだ。
不用心に鍵を開けたままだったことも、いつもの小狼らしくない。それ程に疲れているのだろう。もしかして中で倒れているかもしれない。想像して、さくらは顔を青くした。
急いで靴を脱いで、薄暗い寝室の中に足を踏み入れた。
「小狼くん!」
小狼は、ベッドの上に身を投げ出したままで微動だにしなかった。さくらは思わず名前を呼んで、身体を揺さぶった。
耳を近づけると、微かだが寝息が聞こえてきて、ホッと安堵する。
「よかったぁ・・・。寝てる。よっぽど疲れてたんだ。おかえりなさい、小狼くん」
優しく言って頭を撫でると、強張っていた寝顔がふわりとやわらかくなった。その寝顔に見惚れて、さくらはドキドキと心臓を鳴らす。仕事の忙しさで連絡が取れず、顔がみられたのは実に一週間ぶりだった。無事に帰ってきた事に感謝をして、さくらは小狼の体に毛布をかけた。









トントントン
コトコトコト
微かに聞こえてくる音が、耳に心地いい。窓から入ってくる涼やかな風がカーテンを舞い上げて、小狼の髪を撫でるように過ぎていく。鼻をくすぐる優しい匂いが、心を穏やかにさせた。
(気持ちいい。・・・これ、夢か?)
あまりに都合がいい。やわらかな匂いは、自分が一番好きなものだ。
眠る直前に浮かんだ、さくらの笑顔。『会いたい』と思う気持ちがあまりにも大きすぎて、夢の中に呼んでしまったのかもしれない。
「さくら・・・」
「あっ。小狼くん、起きた?おはよう」
「・・・おはよ」
さくらが寝室に入ってきて、カーテンを開ける。差し込む白い光を背負って、大好きな女の子が笑った。
なんて都合のいい夢。願望。―――幸せな、未来。
(そうか。結婚したら、こんな感じなのか。・・・幸せすぎて死ぬな、これは)
「お腹すいてるでしょ?食べられる?お野菜とお米でリゾットを作ってみたの。胃に優しいものがいいかなって思って・・・」
(夢でも、可愛いな・・・本当に、可愛すぎて・・・)
「あっ。そうだ。勝手に入ってごめんね。昨日の夜、偉さんから連絡もらって・・・」
(・・・夢だから。我慢、しなくていいか?)
目の前の笑顔が、一転して驚きの表情に変わる。「ほえっ」という可愛い声が、合わさった唇の中に消えた。掴んだ手首を引き寄せて、そのままベッドの中に引き込んだ。やわらかなスプリングが、二人分の体重を受けて軋む。
強く抱きしめて、キスをした。やわらかな感触が、唇の熱さが、妙にリアルで。会えなかった間に蓄積した『さくら不足』が、行動を更に大胆にさせた。
「―――っ、ぁ、・・・んっ」
突然の事で驚くさくらは、抵抗する事もなく、小狼の身体にしがみつくようにして手を伸ばした。キスの合間に覗いた瞳には、明らかな困惑の色があって、小狼の罪悪感をちくちくと刺す。それでも、今は貪欲に求める気持ちの方が勝っていた。
(さくら・・・、さくら・・・!)
「しゃおら、ん・・・っ、ま、待って、息、くるし・・・」
「は・・・、ぁ、さくら・・・」
抱きしめて、キスをして。そんな事は、今までも何度かあったけれど。ベッドの上でこんなに密な交わりをしたのは、初めての事だった。これが夢じゃなければ、こんな大胆な事はきっと出来ない。
夢なのに。さくらが可愛くて、やわらかくて、いい匂いがして。興奮は増すばかりで、ちっとも治まらなかった。
(もっと、欲しい)
一度離した唇。苦しそうに息をする、赤い顔のさくらを見つめた後、小狼は再び距離を詰めた。まるで、艶々としたジューシーなさくらんぼだ。甘い匂いにクラクラと眩暈がする。
小狼はさくらの唇を食んで、僅かに開いた隙間から舌を捻じ込んだ。
「・・・!!」
その瞬間、碧の瞳が大きく見開かれて。
「っ!!」
訪れた衝撃と痛みに、小狼もまた目を覚ました。―――この時やっと、夢から覚めたのだ。
(え・・・っ、ゆ、夢じゃない!?現実・・・!?)
毛布を払いのけて、小狼は思わずさくらから体を離した。
さくらは涙を滲ませて、荒い息で小狼を見つめていた。今、何をされたのかわからないといった困惑の表情だ。さくらのその顔を見て、小狼は青褪めた。
咬まれた舌が、今になってじんじんと痛みだす。紛れもなく現実なのだと思い知らされる。
「ごめん、さくら!!ちが・・・、違うんだ、間違えた・・・!!」
「・・・・・・」
「びっくりしたよな。あんな、あんなこと、されて・・・」
触れるだけのキスで精一杯だったのに。こんなどさくさ紛れの寝惚けた勢いで、無理矢理に、大好きな子を泣かせてしまった。自己嫌悪と後悔で、それ以上の言葉が出ない。
おそるおそるさくらを見ると、悲しそうに眉を下げて、目には新たな涙が溢れていた。
(や、やばい・・・!)
「さく、」
「・・・ごめん。帰るね・・・!」
「えっ、あ、」
伸ばした手は届かずに、するりと逃げる。光に反射した金色の髪が目の前で舞って、呆然とする小狼の元から離れて行った。遠くなる気配と閉められた扉の音に、小狼はこれ以上ない程の絶望を知った。








さくらが作ってくれていた野菜たっぷりのリゾットは、優しい味がした。じんわりと冷えた心が温まるのを感じた。
小狼はスープまで残さず平らげてから、洗い物と片付けをした。シャワーを浴びて服を着替え、身支度を整えて家を出る。
通い慣れた木之本家への道を進む。足を踏み出すたびに、とてつもない緊張が心臓を締め付けるようだった。最後に見たさくらの泣き顔を思い出すたびに、血の気が引く。
もしかしたら―――と。不吉な予感が拭い切れず、度々足を止めては、近くの壁に身を寄せて頭を抱える。明らかに挙動不審な小狼に、すれ違う人が怪訝な視線をよこすが、本人は気に留める余裕もなかった。
(とにかく。謝るんだ。・・・さくらが許してくれるかはわからないけど、それでも)
ぐっ、と奥歯を噛んで、両足にしっかりと力を入れて立つ。小狼は強敵に立ち向かうが如く眼光を光らせると、目的地までの道をやや早足で進んだ。
「おや。李くん。さくらさんにご用ですか?」
「!!こ、こんにちは・・・!」
「どうぞ。入ってください」
呼び鈴を押そうとしたタイミングで、木之本家の家長である藤隆が帰ってきた。にこやかに微笑まれ、小狼はぎこちない笑みを返す。内心で申し訳ない気持ちになった。大事な彼女の父親に、顔向けが出来ないような事をしたのだ。そう思うと、余計に落ち込む。
そんな小狼の態度に気付いているのかいないのか、藤隆は笑顔で小狼を家に通した。リビングは静まり返っていて、誰もいない。小狼は、心配そうな顔であたりを見回した。
「さくらさんは部屋にいると思いますよ。僕は夕飯の支度をしますから。李くんもよかったら食べていってください」
「え・・・っ、あ、あの」
「遠慮しないで。どうぞ。準備が出来たら呼びますから、それまではさくらさんと部屋にいてください」
にこやかではあったが、どこか反論を許さないような凄みを感じた。小狼の後ろめたい気持ちが、そう見せたのかもしれない。「はい」と強張った顔で返事をすると、二階に続く階段を上がった。
小さく深呼吸をして、部屋の扉をノックする。間をおいて、「はい」と扉の向こうから返事があった。明らかに元気がない。小狼は眉を顰め、口を開いた。
「さくら。入ってもいいか?」
そう言うと、突然に大きな音が響いた。何かが床に落ちたような、鈍い音。小狼は顔色を変えて、扉を開けようとした。そうするよりも先に、ドアノブが勝手に回った。
僅かに開いた隙間から、おそるおそると言った風に、さくらが顔を覗かせる。
「小狼くん・・・!ど、どうして?」
「突然来て、ごめん。どうしても、さくらと話したかったんだ」
その言葉を聞いて、さくらは悲しそうに眉を下げた。ずきんと、小狼の胸が痛む。
緊張した面持ちで見つめあう事、数秒。さくらは小さく頷いて、部屋に通してくれた。
「ケロちゃん、今寝てるの」
「そうか」
少しホッとした。しかし、実質二人きりなのだと実感して、緊張が増した。ベッドに座ったさくらが、どうぞ、とクッションの上に促す。小狼は首を振ると、その場でさくらへと頭を下げた。
「ごめん・・・!」
「!」
突然の謝罪に、さくらが息を飲んだのがわかった。小狼は頭を下げたまま、悲痛に目を閉じ、言葉を続ける。
「さくらの了承も得ずに、酷い事した。寝惚けてたとはいえ、軽率だった。ごめん」
重い沈黙が続いた。
その間、小狼は生きた心地がしなかった。まるで死刑台で首を括られるのを待っている気分だ。今朝の幸福感から一転して、先が見えない暗闇に怯えるばかり。しかしそれも自業自得だ。
「小狼くん」
消えそうな声で、さくらが名前を呼んだ。導かれるように、小狼はゆっくりと顔を上げる。
さくらはクッションを胸に抱きしめて、目だけをこちらに向けていた。その両目には、いっぱいの涙を溜めている。
その顔を見て、今すぐにでも抱きしめたくなった。しかし、泣かせたのも自分なのだと思い至り、踏み出した一歩が止まる。
「・・・の?」
くぐもった声には涙が含まれていて、うまく聞き取れない。小狼が聞き返すと、さくらは涙を零して、顔をクッションに埋めた。
焦る小狼の耳に、微かに届く。
「・・・だれと、まちがえたの・・・?」
問いかけに、小狼の思考が止まる。クッションを抱えて泣き出したさくらを見て、ハッと我に返る。先程までの躊躇はどこへ行ったのか、小狼はさくらの隣に腰を下ろし、泣きじゃくる背中を撫でた。
クッションを抱いているせいで、顔が見えない。小狼は焦れるのを抑え、さくらに聞いた。
「さくら。ごめん。あの・・・、」
「っ、ひく、しゃおらん、くんが・・・、まちがえた、って。わ、私以外の、誰かと・・・?だれと、間違えた、の?」
「!!」
「やだ。やだぁ・・・。私以外の子に、あんなコト・・・しちゃ、やだよぅ」
ふるふると首を振って、いやいやと駄々をこねる。さくらの言動は小狼が予測していたどれとも違っていて、呆然としてしまう。
安堵するのと同時に、愛おしい気持ちがこみ上げてくる。気が緩みそうになって、小狼は自分で自分の頬を叩いた。さくらを泣かせたのが自分だという事実は変わらない。
「さくら。・・・言うから、顔、見せて」
「・・・や。今、酷い顔してるもん・・・」
「見せて」
強めに言うと、さくらは小さく肩を震わせた。そのあとに、ゆっくりとバリケードが解かれる。緩んだ手からクッションを取り上げて後ろに投げると、涙で濡れたさくらの頬を撫でて、そっと抱きしめた。
「夢の中のさくらと、間違えたんだ」
「・・・ほぇ?」
「ごめん。俺、寝惚けてて。・・・夢で、さくらと・・・け、結婚したって、勘違いして。それで・・・、」
言いながら、顔が熱くなる。我ながらなんて恥ずかしい事をしたのだろう。
小狼はしばし逡巡したあと、抱きしめる力を緩め、さくらを真正面から見つめた。うさぎのように赤くなってしまった目元を優しく撫でて、言った。
「他の誰かとなんて、あり得ない。俺は、さくらだけだ。・・・勘違いさせて、泣かせて、ごめん」
さくらは大きな瞳を見開いたまま、固まっていた。予想外だったのは、さくらの方も同じだったのだろう。おかげで、涙も止まったようだ。
「夢・・・?小狼くんが間違えたのって、夢と・・・?」
「・・・うん」
「わ、私。勘違いして、びっくりして・・・。あ、あ、あんな、にゅるっ、って初めてだった、から・・・」
「っ!!」
そうだ。今朝のアレは、さくらにとっても自分にとっても、初めて経験するものだった。初めての、『大人のキス』―――。
「小狼くん、夢の中のさくらには、あんな風にするの・・・?」
無防備に無邪気に、ベッドの上でそんな事を聞くさくらに、小狼の理性は限界突破しそうだった。真っ赤になった顔を隠すように口元を手で覆って、こくりと頷く。
(もっとすごい事もしてる・・・、とは、さすがに言えない)
その時。そっと、頬にさくらの手が触れた。驚いて見ると、上目遣いのさくらがすぐ傍にいて、泣きそうな顔で言った。
「ごめんね。私びっくりして、小狼くんの舌、噛んじゃった」
「そ、それは。俺が悪いんだから、いいんだ」
「あのね。びっくりしたけど・・・嫌じゃ、なかったよ。・・・食べられちゃうみたいで、ドキドキした」
「!!」
「痛い・・・?小狼くん」
―――このまま、目の前にいる大好きな女の子の肩を少し押してしまえば。
二人の距離は、また縮まる。後ろにあるやわらかなベッドが弾んで、さくらの髪が散らばって。ぴりぴりと痺れるような痛みさえも、きっと甘い刺激に変わる。
この肩を押してしまえば、そこから、二人の関係はまた少し変わる―――。
「さくら・・・!」
真剣な表情で、小狼はさくらの肩を掴んだ。近づく距離に、さくらは頬を赤らめて、ゆっくりと瞼を閉じる。
(もう、夢とは間違わない。・・・現実のさくらが、一番可愛い。大好きな、俺の・・・)
―――とすん
やわらかなスプリングが、弾んだ。


どたどたどたどた
ばたん!
「おい!!くそがき、俺が居ぬ間にさくらに変な事してないだろうな・・・!?」
勢いよく扉が開いて、鬼の形相の兄・桃矢が部屋に飛び込んできた。そこにあった光景に、更に眉を吊り上げる。
「お、お邪魔してます」
「おにいちゃん、おかえりなさい」
中央のテーブルを囲む二人の手元には、英語の参考書が広げられていた。
大事な妹の部屋に、付き合っているとはいえ年頃の男が上がり込んでいるという図式に、桃矢は青筋を立てる。しかし、見るからに勉強しているというケチのつけ辛い状況に、用意していた文句が引っ込んでしまう。
ちっ、と舌打ちをして、小狼を睨んだ。
「夕飯の用意が出来るから、父さんがそろそろ降りてこいって」
「はーい」
「すいません」
ぺこりと頭を下げる小狼に桃矢は面白くなさそうに顔を顰め、「早く来いよ」と一言おいて扉を閉めた。階下へと降りていく気配に、二人は息を吐いた。
「いいのか。夕飯までもらって」
「うん!おにいちゃんがまた睨んだりして、失礼な事するかもしれないけど、気にしないでね」
「いや、それは全然いいんだ。・・・睨まれても仕方ない事、してるし」
「あ・・・っ」
その言葉に、揃って真っ赤になった。
先程、毛布の中で二人は―――家族にはとても言えないような事をした。今は綺麗に整え直されたベッドを見て、さくらは耳まで真っ赤になる。
「このあと、俺・・・。普通に会話できるか、自信がなくなってきた」
「ほえぇ、わ、私も・・・!」
「でも」
狼狽えるさくらの手を、ぎゅっと握って、小狼は言った。
「顔向け出来ないような事は、何一つしてない。・・・さくらも、さくらの気持ちも。大事にする」
「!」
「・・・好きだ」
小狼はそっと、さくらの左手の薬指にキスを落とした。少々気障だと自分でも思ったけれど、そうしたかった。
さくらは言葉にならないのか、顔を真っ赤に染めて。それから、堪えきれないというように、笑顔を零した。


もう、間違わない。
一番大事にするもの。大事にしたいもの。―――大好きなさくらの笑顔を、一番近くで見ていたいから。
今までも、これからも。ずっと。

 

 



「―――おい!!いつまでかかってんだ!?まさか、変な事してるんじゃないだろうな・・・!?」
「もうっ、お兄ちゃん!!」
「・・・ほんとに自信なくなってきた・・・」

 


 

 


END


 

 

アンケートで一番投票があった「違うんだ!間違えた!」をお題に書いたお話でした。

お題を見た途端に小狼の声で再生されたよ・・・w寝惚け小狼は前も書いた事ある気がするけど、まぁ気にしない!好きなのですよ(^^)

これが平成最後のしゃおさのお話になりました♪楽しんでもらえたら嬉しいです!

 

 


2019.4.30 了

 

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