「あ、知世ちゃん!おはよう!」
夏の暑さも和らぎ、空気が少しずつ冷たくなってきた、秋のはじめ。
いつもの道を、学校へ向かって歩いている途中。友達の姿を見つけて、さくらは笑顔になった。声をかけると、知世はこちらを振り返って、いつもと同じ笑顔をくれる。
「さくらちゃん。おはようございます」
「今日は涼しいね。薄手のカーディガン出してきちゃった」
並んで、学校への道を歩く。途中でたくさんの友達に行き会って、挨拶をする。昨日見たテレビの話や、休日の予定。他愛ない話をして、笑う。
何も変わらない、日常。いつもどおりの朝。
「―――え?うそ、ほんと・・・?」
「そんな風に見えないね」
「私もびっくりしちゃった。・・・くんと、木之本さん」
さくらは、立ち止まる。少し離れたところで、こちらを見て話をしている女の子達がいた。不思議そうに見つめると、「まずい」という顔をして、逃げるように立ち去った。
「さくらちゃん、どうかしましたか?」
「私の名前が聞こえたから・・・。あの子達が、話してたのかな・・・」
わからないけれど、不安になる。隣にいる知世に聞くと、笑顔で首を振った。心配ないと言うように、さくらの背中を押す。
「学校に行きましょう。さくらちゃん」
「うん・・・」
いつもどおりの日常。いつもと同じ学校、友達。他愛ないお喋り、憂鬱な授業。
なにひとつ、変わらない筈なのに。
(どうして、こんなに不安なんだろう・・・?)








教室に入ろうとした時。不自然な人垣が出来ている事に気付いて、さくらは足を止めた。
深く考えないままに、人が集まっている場所へと向かう。一緒にいた知世は何も言わずに、さくらのあとに続いた。
「―――あの噂、本当なの!?」
女の子の甲高い声が、きん、と耳に響く。その剣幕に、思わず足が竦んだ。
人垣の中心にいた人物が、こちらに気付く。
視線が合って―――逸らせないくらいに真っ直ぐ、見つめられる。
「おはよう」
その人は、笑って挨拶をした。さくらは顔を強張らせて、僅かに後退する。
「・・・お、はよう?えっと・・・」
「李くん、ですわ。さくらちゃん」
口籠っていると、後ろから知世がこっそりと教えてくれた。その名前にすら、体の中にある何かが反応するみたいに、落ち着かなくなる。
「おはよう、李くん・・・」
消え入りそうに小さな声で、なんとか挨拶を返した。そのまま俯いてしまったさくらを、小狼は何も言わずに見つめた。
しかし。黙っていなかったのは、その周りの人間だった。
「木之本さん!あなた、どういうつもりなの?」
「ほぇ・・・?」
「そうです!李先輩が可哀相です!!何があったのか知らないですけど、冷たすぎないですか!?」
口々に責められて、さくらは困惑する。
その時、目の前に影がかかった。見上げると、頭一つ分大きな体が、庇うように立った。広い背中、『あの時』の事を思い出して、さくらは動揺する。
「やめろ。そういう事をされると、俺が困る」
「そんな事言って・・・!まだ木之本さんを庇うの!?」
「庇うとか、そんなんじゃない。悪いが、この件は放っておいてくれ。頼む」
小狼はそう言って、頭を下げた。女子達は納得がいかないのか、さくらの方を睨んだ。その視線を受けて、びくりと震える。どうしてこんなに憎まれるのか、さくらには全く見当がつかなかった。
女子達を牽制するように、小狼はさくらの姿を自分の後ろに隠す。
呆れた溜息をついて、女子達はその場から去った。
「・・・大丈夫か?」
覗き込まれた、その時。思いのほか近い距離に、さくらは酷く動揺した。かっ、と顔を赤くして、勢いよく後ずさる。
その反応に、小狼は目を瞠って。それから、苦笑を零した。
「ごめん。近かったな」
「あ、えっと・・・、その」
「今のは忘れろ。みんな、何か勘違いしてるみたいだ。・・・木之本は、何も気にしなくていいから」
優しく笑うその人の目を、見られなかった。さくらは俯いて、上履きをじっと見つめる。
自分の視線を避けるように俯いて、こくこくと頷くさくらを見て、小狼はこっそり溜息をついた。知世に目配せをすると、教室に戻っていった。
「さくらちゃん。私達も、行きましょう。そろそろ、先生が来ますわ」
「うん・・・。知世ちゃん、あのね」
「はい」
「・・・ううん。なんでもない!」
言い様のない不安を振り払うように、さくらは笑顔になる。知世は何も聞かなかった。少しだけ、悲しそうに微笑んでいた。
いつもと同じ毎日が、少しだけ違うこと。違和感の正体。気付いていたけれど、気付かないふりをした。
―――だって、わからない。少しも思い出せない。
(・・・李くんは、何も気にしなくていいって。そう言ってくれる。でも、本当に・・・?このままで、いいの?)
窓が、カタカタと音を立てる。風が強くなってきた。枯れ葉が舞い上がって、くるくると落ちる。
さくらは、ざわつく胸をぎゅっと抑えた。
心の中に、ぽっかりと空いた穴。見えない顔。どうしても思い出せない。『ここ』に誰かがいたなんて、今の自分には想像がつかない。
「私、どうして忘れちゃったんだろう?どうして・・・」










ある朝。白い光の中で、目覚めた。
覚えのある自分の部屋とは、何もかもが違っていて。まだ、夢を見ているのかと錯覚した。
扉が開いて、その人が入ってくる。手に、二つのカップを持って。「おはよう」と、笑って。
だけど、それに挨拶を返す事は出来なかった。自分の今の恰好を見下ろした直後、さくらの口から出たのは、悲鳴だった。
「きゃあぁぁぁ―――!?!」
「!?どうした・・・」
「だ、誰?誰ですか・・・!?ここ、どこ・・・?私、なんで裸で・・・!?」
「さくら・・・!?」
「や、やだ!近づかないで・・・!触らないで!!」
一糸まとわぬ姿で、見知らぬ男の人と対面している。さくらにとって、それは恐怖以外の何物でもなかった。毛布を体に巻き付けて、小さく震える。
目の前にいる人は、しばらく無言で立ち尽くしていた。ことん、と音がして、さくらは目を開ける。持っていたカップをテーブルに置くと、こちらへとゆっくり近づいてきた。
さくらは小さく悲鳴を上げて、身を固くする。近づいてくる気配に、ただ怯えていた。固く目を瞑って、奥歯を噛みしめた。
頬に、触れる手。びく、と大きく震えて、目を開けた。
「―――・・・!」
至近距離で、こちらを見つめる瞳。一瞬、恐怖も忘れて。さくらは、その鷲色の瞳を見つめ返していた。
頬を撫でる手が、優しかった。こんな風に、誰かに触れられるのは初めてで。恐怖と、緊張と、よくわからない感情が忙しなく巡る。どうしたらいいのかわからなくて、ただただ、困惑した。
「・・・本当に、わからないのか?俺の事・・・」
「っ、」
その声が、鼓膜を震わせる。体の中にある『何か』が、反応する。
さくらはその時、目が逸らせなかった。目の前の人から。その、表情から。
―――一瞬。『嘘』を、ついてしまいそうになった。どうして、そう思ったのかはわからない。思考が混乱して、喉の奥が渇いて、声が出ない。なぜか、涙が溢れた。
「わか、らない・・・。あなたは、誰・・・?」
そう言った瞬間、彼の手が頬から離れた。
さくらに背を向けて、ベッドの端に座る。大きな背中が、しょんぼりと落ち込んでいるように見えて。知らない人なのに、罪悪感で胸が痛くなった。
それから。男は、『李小狼』と名乗って、さくらに色々と聞いた。自分の名前や、家族。友達や、今の年齢、他の記憶。思い出せる事は、全部話した。
目の前にいる『小狼』が誰かもわからないのに、こんなに話していいのか少し迷ったけれど。先程の距離よりも、遠くなって。気遣うように、声をかけてくれるから。知らない人だけど、不思議と信頼出来た。
それから。小狼は、電話をかけた。相手は誰かわからなかったけれど、話は少しだけ聞こえた。
「・・・俺の事だけだ。ああ。その他の事は・・・魔法の事も、カードの事も覚えてる。大丈夫だ」
『大丈夫』と口にするのに、その声は酷く落胆していた。重い溜息と、こちらへと向けられた背中が、さくらの胸を切なくさせた。
ほどなくして、知世とケルベロスがやってきた。さくらは途端に安心して、知世に抱き着いて離れなかった。
小狼とケルベロスが別室で難しい話をしている間、さくらはずっと、知世の傍にいた。話が終わって、小狼達が戻ってくると。さくらは、条件反射で体を震わせた。
その反応に、一瞬顔を顰めるも、小狼はすぐに笑顔になった。
「生活するのにも、問題ない。今までどおりで大丈夫だ。カードや魔法の事まで忘れていたら、不安要素はあったが、今のところはそれも心配ない」
「カードさんの事・・・。あなたは、どうしてそんなに私の事を知っているの?」
さくらの言葉に、知世やケルベロスの方が衝撃を受けた。話は聞いていても、こうして、『さくら』が『小狼』を忘れてしまったという事態に直面して、ショックを隠せなかった。
「さくら!!お前、ほんまに覚えてないんか!?小僧の事!あんなに好きやったやないか!!」
「―――!?」
「ケルベロス!やめろ!!」
声を荒げたケルベロスを、小狼が止める。
再び困惑して震えるさくらを、知世が宥めるように抱きしめた。小狼と知世は視線を合わせて、何も言わずに頷く。
さくらを見下ろして、小狼は言った。
「さっきも言ったように、心配はないんだ。お前は、何も気にしなくていい。今までどおりで、大丈夫だ」
その言葉に、知世が口を開いた。
「・・・李くん。李くんは、大丈夫ですか?」
「ああ。大道寺、しばらくは注意深く見ていてやってくれ。俺も、少し調べてみる。・・・ケルベロスは、この件でさくらを責めるな。いいな」
「わぁっとる・・・」
自分を囲んで、話が進んでいく。不安と衝撃に、その日はずっと落ち着かなかった。だけど、一晩二晩と眠って、いつも通りの朝が来る。そうして生活していくうちに、違和感は消えていった。
元の日常に、戻っていく。そう、思っていた。
だけど、ふとした瞬間に訪れる、漠然とした不安。このまま、忘れてはダメだ。誰かがそう言っているように。『忘れている』という事実を、思い出させる。
だけど、それだけだ。その人の事は、少しも思い出せない。記憶の中には、その人の姿は無い。
「李・・・小狼、くん」
名前を呼んでみても、何も変わらない。思い出せるのは、あの朝の事。頬に触れた手の温度や、見つめる瞳の色は、はっきりと思い出せる。
あんなふうに誰かに触れられるのも、真っ直ぐに見つめられるのも初めてだったから。だからかもしれない。こんな風に胸がドキドキして、落ち着かなくなるのは。








その日の放課後。知世がコーラス部の打ち合わせで少し時間がかかると言うので、さくらは教室で待っていた。
ふと、思いついて。一人で教室を出た。そうして、目的もなく学校を歩き回る。
夕陽に染まる廊下や、薄暗い階段。静まり返った教室や、ハラハラと葉が落ちる中庭。見慣れた学校が、なんだか異世界のように思えた。
(私、この場所に来た。ここにも、何度も来てる。なのに、なんだか遠い。知ってるのに、知らない場所みたい。どうしてそんな風に思うんだろう)
―――この場所に、誰と一緒にいた?誰と、どんな話をした?霧がかっているように、記憶がぼんやりとしている。
違和感は強くなる。ざぁ、と強く風が吹いて、周りの落ち葉が舞い上がる。心もとない気持ちが、足元を不安定に揺らす。
いつもと同じ。変わらない。学校も、家族も、友達も。魔法も、カードも。何も変わらず、傍にある。
だけど、足りない。圧倒的に、足りていない。一番大切な『何か』が、ここにはない。
(私・・・どんな風に、過ごしてた?どんな顔で、ここにいた?・・・隣には、誰がいた・・・?)

「さくら」

「―――!」
名前を呼ばれて、我に返る。驚いて振り向いた先、こちらへと歩いてくる人影が見えた。舞い上がる落ち葉の隙間から、覗く瞳。耳障りのいいその声が、名前を呼ぶ。
「さくら。お前、なんで一人で・・・。大道寺は?」
小狼は、さくらから数メートル離れたところで足を止めて、聞いた。
問いかけられているのに、すぐに反応できなかった。心臓がばくばくと鳴っていて、思考が追い付かない。
小狼は、何も言わずに立ち尽くすさくらを見て、心配そうに眉を顰める。だけど、距離は保ったまま。それ以上は、近づこうとしなかった。
「知世ちゃんは・・・、コーラス部の、打ち合わせで」
声が、震える。目が逸らせなくて、困った。自分が今どんな顔をしているのか、この人の目にどんなふうに映っているのか、急激に気になり始める。緊張で、掌にじわりと汗が滲む。
さくらの様子を見つめて、小狼は何かを言おうとして、口を閉じる。小さく笑うと、半歩下がった。
「俺がいると、落ち着かないよな。・・・でも、心配なんだ。もうすぐ暗くなるし、出来れば校内で待っていてほしい」
「・・・え?」
「一人にならない場所・・・誰かがいる近くの方がいいな。教室は少し心配だ。ああ、そうだ。職員室の近くでもいい。それで、絶対に大道寺と一緒に帰る事。何かあっても、一人で帰るなよ」
小狼の言葉を聞きながら、さくらは呆然とした。彼が話す言葉、その全部が自分を心配しているのだとわかる。少し、過保護すぎるくらいだ。もう高校生なのに、まるで小さな子供にするみたいに言い聞かせる。
驚きと、少しの不満。さくらは、むぅ、と眉を顰めて、言った。
「李くん・・・なんか、心配しすぎだよ。私、そんなに頼りないの?」
「頼りない、というか・・・。いや。さくらは、一人でも大丈夫だってわかってる。心配するのは、俺のエゴだ。傍にいるための理由、だったのかもしれない・・・」
俯いた小狼の表情は、さくらにはよく見えなかった。口元は笑っているけれど、どこか寂しそうで。秋の夕暮れに相まって、さくらの胸を苦しくさせた。
小狼に対して、恐怖や不安と言った感情は、この時無くなっていた。
少しずつ離れて行こうとする小狼に、さくらは勇気を出して一歩を踏み出した。小狼は驚いて、目を瞠る。
さくらは緊張と大きくなっていく心臓の音を感じながら、また一歩、踏み出す。顔が熱くなって、指先が震える。
「あ、あのね・・・!」
「な、なんだ?」
「李くんの事、覚えてなくて・・・、あの朝、私すごく驚いて、その・・・、傷つける事、言っちゃったから」
―――『近づかないで。触らないで』
あの瞬間、向けられた瞳が悲しそうに揺れたのを覚えている。思い出して、胸が酷く痛む。
「ああ・・・。それは、仕方ない。気にしてないから、大丈夫・・・」
「大丈夫じゃ、ないでしょ!?李くん、大丈夫って言うけど、全然大丈夫って顔してないから・・・!」
「ご、ごめん・・・?」
少し怒った口調でさくらが言うと、小狼は面食らった顔で思わず謝った。いつの間にか、二人の距離はあと一歩というところまで近づいて。お互いの顔が、よく見えた。
そう。違和感のひとつは、小狼の笑顔だった。見るたびに、胸が苦しくなって痛んだ。
ちゃんと、言わなくちゃ―――。さくらは、落ち着けるように胸を抑えて、息を吐く。そうして、心を決めて、小狼の顔を見つめた。
「思い出せないけど・・・李くんの事、怖いと思ってない。近づいてほしくないなんて、思ってないよ」
「・・・さくら」
「でも、私がいると・・・李くんが悲しそうに笑うから。無理、させたくなくて」
ぽつぽつと、言葉が零れる。ここまで言うつもりじゃなかった。さくら自身、自分の気持ちを初めて知ったように感じて、驚いていた。
胸にあった不満や葛藤が、言葉にすることで晴れていく。
(そうだ。私、あの時・・・咄嗟に、嘘をつきそうになったんだ)
―――『・・・本当に、わからないのか?俺の事・・・』
あの時。泣きそうな顔でそう言った、小狼を見て。嘘をつきそうになった。
『忘れてない』『覚えているよ』と。意味のない嘘をついて―――この人を、安心させたいと思った。
「・・・俺達、同じことを思ってたんだな」
小狼はそう言って、ふ、と笑った。
無理をした笑顔じゃなく、本当に笑った顔が見られた。さくらの心臓が、小さく跳ねる。
記憶が無くなった、あの日から。不器用な笑顔で、『大丈夫だ』と言ってくれた。自分はちっとも大丈夫じゃないのに。ただ、さくらを安心させるために。笑ってくれた。
優しくて不器用で。なにより、さくらの気持ちを大事にしてくれている。小狼への気持ちが、少しずつ変わっていっている事に、さくらは気づいていた。
そうして、初めて思った。
(思い出したい・・・。李くんの事、ちゃんと思い出したい)
確かな想いは、まだ口にする勇気はなくて。
いつもと同じ距離に戻って、「またな」「またね」と言って、二人は別れた。








次の日。朝、目覚めても。何も変わっていなかった。
小狼の記憶は戻っていなかったし、周りの人の空気も同じだった。直接何かを言ってくる人はいないけれど、遠巻きに見られているのを感じる。
隣を並んで歩く知世に、さくらは聞いた。
「知世ちゃん。李くんって、人気あるんだね」
「・・・はい。そうですね。李くんが・・・というのもありますけど。李くんとさくらちゃん、二人が一緒にいるのが、みんな当たり前みたいに思っていたのかもしれませんね」
知世は言ってから、ハッとした。記憶を無くした事を気にさせる言い方になってしまったと、悲し気に謝る。さくらは「気にしないで」と笑って、雲一つない秋空を見上げた。
知世は、さくらの横顔を見て、昨日までと違う事を感じた。
「李くんの事、さくらちゃんから聞かれたの初めてですね」
「あ・・・」
言われて、気付いた。今までは、記憶にない小狼への不安や申し訳なさがあって、話題にも出せなかったのに。
昨日、小狼と話せたことで、心境が大きく変わったのかもしれない。
「今日・・・朝起きた時、一番初めに、李くんの事考えたんだ」
「はい」
「記憶は戻ってないけど。いつ、戻るかわからないけど。・・・『仲良し』になりたいって言ったら、李くんなんて言うかな。どんな顔するかな」
その時の事を想像したら、なんだか楽しくなってきた。さくらの笑顔を見て、知世も笑う。行きましょう、と背を押されて、学校への道を歩いた。
学校に着いたら、会いに行こう。チャイムが鳴る前に、あの人の姿を探して。不自然にならないように、意識しすぎないように。声をかけて、笑って。そうしたら、きっと小狼も笑ってくれる。

だけど。
―――その日から。小狼は、学校に来なくなった。










今朝は、一段と気温が下がった。カーディガンを着て、マフラーを首に巻いた。家を出ると、肌にあたる風が冷たくて、マフラーに顔を埋める。
いつもよりも少し早めの時間に、家を出た。遠回りをして、学校から遠ざかるように歩き出す。
―――記憶を無くしてから、もうすぐ一か月。小狼が学校に来なくなって、三週間。季節は、冬へ移り変わろうとしていた。
学校では、色々な噂が広がっていた。小狼は香港に帰ってしまったとか。失恋の痛手に耐えられず、学校をやめてしまったとか。好き勝手に、面白おかしく語られた。
さくらへの好奇心の視線は減らなかったけれど、あまり気にならなかった。
(ペンギン公園・・・)
子供の頃は、何度もこの場所に来た気がする。懐かしい気持ちで、誰もいない早朝の公園に入った。
ペンギン大王の背中を上ると、一人で滑り台を滑り落ちる。顔にあたる風が冷たくて、口元までマフラーに埋もれた。下まで滑り落ちたところで、さくらは膝を抱える。
「あんまり会えないと、また忘れちゃうよ・・・?」
こてん、と頭を預けて、一人呟いた。
一緒にいたのは、一週間。名前しか知らないし、言葉も数えるくらいしか交わしていない。恥ずかしすぎるシチュエーションで出会って、戸惑って拒絶して。
それから、少しずつ近づいて。ちゃんと、知りたいと思った矢先。彼は、いなくなった。
泣きそうな顔も、無理した笑顔も。瞼の裏に残ってる。名前を呼ぶ低い声が、鼓膜を震わせて。忘れられない。
ずっと、小狼の事ばかり考えている。
「私の頭の中からも、この街からも、いなくなっちゃった・・・」
もしかしたら、噂はあなたち嘘ではないのかもしれない。―――自分の事を忘れてしまった薄情な恋人に愛想をつかして、国に帰ってしまったのかも。会うたびに苦しそうな顔をしていたから、嫌になってしまってもおかしくない。
鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。喉の奥から苦しさがこみあげて、さくらは膝に顔を埋めた。
「・・・っ、ひっ、・・・く、ぅ・・・なんで・・・?」
あとからあとから、涙が零れ落ちた。ぎゅっと目を瞑ると、離れていく小狼の姿が浮かんで、また泣いた。嗚咽交じりに、どうしようもない気持ちを吐いた。
「なんで・・・?なんで、・・・私の記憶、なくなっちゃったの・・・?っ、ひく、・・・ふぇ、やだ・・・、やだぁ。李く、李くん・・・、小狼くん・・・っ」
『初めて』呼んだ筈の、彼の名前は。初めてと思えないくらいにしっくり、心の中におさまった。
その時。頬に当たっていた冷たい風が、遮られる。僅かに感じ取った気配に、さくらは、おそるおそる顔を上げた。
「・・・!」
目の前に立つ人が、ゆっくりと腰を下ろした。同じ目線になって、さくらの濡れた頬に手をやる。
『最初』の朝と、同じ。至近距離で、鷲色の綺麗な瞳がこちらを見つめていた。眉根をぎゅっと寄せた、険しい顔で。こちらを心配してくれているのがわかる。
さくらは、ひく、としゃくりあげてから、おもむろに両手を伸ばした。小狼の両頬を包むように触れると、そのまま摘まんで、思い切り引っ張った。
「―――!?ひゃくら・・・?なに、」
「ふっ、ふふ」
むにー、と頬を伸ばされて、小狼は驚いた顔をする。それを見て、さくらはぽろぽろと涙を零しながら、笑った。
「だって、・・・っ、夢とか、・・・まぼろしとか、じゃ、・・・いやだもん」
「・・・さくら」
小狼もまた、さくらの両の頬に触れる。吐息が触れるほどに近づいて、それでも。さくらは、目を逸らさなかった。熱い涙が小狼の手を濡らしていく。
「私、小狼くんの事思い出せないの。もしかしたらずっと、ダメなままだけど・・・一緒に、いたい」
「・・・!」
「小狼くんが好きになってくれた『私』に、少しでもなれるように、頑張るから・・・!だから」
さくらの言葉も途中に、小狼の腕がその体を強く抱きしめた。あたたかな体温と匂いに包まれて、さくらは確かに幸せを感じる。
ぴたりと吸い付くように収まる感覚が、酷く安心した。背中に回った手が、少し迷いながら、抱きしめ返す。
痛いくらいの抱擁が、嬉しくて。さくらの涙が、今度は小狼のシャツを濡らしていく。
「さくら・・・」
「はい」
「記憶がなくなっても。お前が、俺を思い出せなくても。・・・俺は、お前が好きだ」
その言葉に、さくらは答える事が出来なかった。涙腺が完全に決壊してしまって、言葉にならなかった。
『私も好き』と、そう返したいのに。子供のように泣くさくらを、小狼は優しく抱きしめた。






「あの分じゃ、大丈夫そうやなぁ」
「・・・そうですね。もしも『呪い』が完全に解けなかったとしても・・・」
「おいおい!不吉な事を言うんやないで!」
公園の滑り台で抱き合う二人を、遠くから見つめる影が二つ。柊沢エリオルと、さくらの相棒であるケルベロスだった。エリオルは今日、小狼と共に日本へとやってきた。
今回の騒動の発端―――『呪術師』を突き止める為に、小狼は動いていた。
李家を逆恨みした商売敵による、呪い。それは小狼自身ではなく、恋人であるさくらへと向かった。
さくらの魔力は強く、カードを使えば誰も敵わないだろう。だが、それを除けばごく普通の女の子だ。忍び寄る呪術を避ける事は、出来なかった。数日をかけて、傍にいる小狼にバレないように巧妙に、その呪いはさくらへと降りかかった。
「さくらに忘れられるって事が、小僧にとっての一番のダメージになるって、相手はわかっとったんやな。なんちゅー卑劣な手を使いよるんや・・・!わいも一発殴らな気が済まん!」
「大丈夫ですよ。李くんが、それはもうきつーく制裁下しましたから。依頼主も呪術師も、再起不能でしょう。李小狼にとって、木之本さくらは『弱点』ではなく『爆弾』になり得るという事を、全世界の祓師が理解したでしょうね・・・」
遠くを見るようなエリオルの言葉に、ケルベロスは思わずゾッとする。
呪いの元は潰した。呪術師も力を失い、連行された。―――しかし。人の記憶は、不確かで曖昧なものだ。一度消えてしまったものが、呪いの解除によって戻るかどうかはわからない。
さくらの中にあった、小狼の記憶そのものが。すべて元に戻る保証はない。それは、小狼も最初から分かっていたことだ。
それでも、一筋の光に賭けた。
「記憶が戻ることよりも、記憶を無くしてもまた好きになる事のほうが、よっぽど奇跡だと思いませんか?」
「・・・んー。そうやな。まぁ、わいは全然心配してなかったけどなぁ!さくらなら大丈夫やって思ってたわ!・・・って、なんやその笑顔は!ホンマやで!?」
「とりあえず、大道寺さんや他のみなさんにも連絡しないとですね。心配してるでしょうから」
エリオルは携帯電話を取り出して、小さく笑った。
泣きすぎて瞼を腫らした彼女と、久しぶりに学校に現れた彼が、一緒に登校したら。きっと、つまらない噂なんて吹き飛ぶくらい、大騒ぎになるだろう。
爽やかな秋の風に乗って、まだ泣き止みそうにないさくらの声が、微かに聞こえた。












「さくら。今週のお休み、どこに行きたい?」
「んー。お天気がよかったら、ピクニックとか行きたいな。お弁当、作るね!」
「卵焼きは?」
「うん!絶対にいれるよ!あとね、たこさんウィンナーと、ハンバーグと、ポテトサラ・・・んっ!?・・・もう、小狼くん!」
「はは。ごめんごめん。さくらが可愛いから、つい」
「・・・・・」
「・・・・・ん?」
「えへへ。小狼くんの事、大好きだなって思って」
「っ!・・・俺も」
「ふふ。小狼くん、顔真っ赤!」
「う、うるさい。お前だって赤いぞ、さくら」
当たり前に笑って、当たり前に手を繋いで。いつもと同じ道を、同じ方向へと歩いていく。


今日も大好き。明日はもっと、大好き。
―――この先もずっと、君に恋をしています。






 

END


 

 

ゆきんこさんからのリクエスト「さくらちゃんの記憶喪失 小狼くんの記憶だけがなくなってしまう感じのものが読んでみたいです!」ということで!

ちょっと重めのシリアスな感じを目指して・・・。こういう事態になったら小狼はこんな風になるかな?どうかな?という手探りで書いてみましたが、途中切なくなったりしながらも楽しく書けました。ありがとうございます!

最後はどうなったのかは明記してませんが、ご想像にお任せします。

リクエスト企画最後のお話でした。この先もずっと・・・この二人の恋は続くよということで!楽しんでもらえたなら幸いです♡

 

 


2017.9.10 了

 

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