※パラレル設定のお話です。

 

 

 

 



近づいてくる足音が、三人分。それに気づくと、わくわくした。幼いころから、その瞬間を待ち望んでいた。
賑やかな声を聞いて、その中に大好きな人の声を見つけると、もっとドキドキした。先程まで夢中になって見ていたテレビから離れると、さくらは玄関へと駆けた。
「ほえぇっ!」
フローリングに足を滑らせ、その小さな体がポテッとうつ伏せになる。その瞬間、目の前の扉が開いた。
差し込んだ眩しい光の中に、影がみっつ。さくらは、パッと顔を明るくして、笑った。
「おかえりなしゃいっ!おにいちゃん、ゆきとさん!」
明らかに転んだ態勢で、それでも笑顔で出迎えてくれた妹に、兄である桃矢はおかしそうに噴き出す。
その隣で、大人びた顔で笑う男の子がいた。―――月城雪兎。この頃、幼いさくらが片思いしていた相手。
そうして、もう一人。二人よりも一歩下がった位置で、こちらを見下ろす瞳があった。
それに気づいたさくらは、少しだけ顔を強張らせて、小さく言った。
「・・・り、りくんも。おかえりなしゃい」
精一杯の挨拶だったけれど、相手は表情を変えず、ジッとさくらを見ていた。その視線がなんだか怖くて、恥ずかしくて。さくらは、この男の子が苦手だった。―――李小狼。桃矢と雪兎の、一つ下の後輩。
床にうつ伏せのまま、むむっと難しい顔で黙り込んださくらを、桃矢は軽々と抱き上げた。
「なにやってんだ、さくら。また転んだのか?どんくさいな」
「さくら、ころんでないもんっ!」
「おー。いっちょ前にプライドあるんだな。少し前までは、何言われてるかわからなかったのになぁ」
「とーや。意地悪しちゃだめだよ。さくらちゃんも、もう4歳だもんね」
さくらの髪をくしゃくしゃにして、桃矢は意地悪に言う。乱れた髪を整えるように、雪兎の手が優しく頭を撫でて、笑った。「はにゃーん」となっていたさくらは、向けられる視線に気づいた。
おそるおそる目を向けると、小狼が真っ直ぐにこちらを見つめていた。
(うぅ。なんで、さくらのこと、そんなにジッとみるの?りくんって、なんかこわいよぅ)
無表情のまま、躊躇なく見つめてくるから、戸惑う。怒っているように見えて、余計に委縮した。大好きな雪兎が優しい分、小狼の素っ気ない態度が、子供ながらに苦手だった。
気を取り直すように、さくらは言った。
「かくれんぼ!かくれんぼしようよー!」
「あ?また、かくれんぼか。俺達はお前と遊ぶために集まったんじゃないんだぞ」
うんざりという顔をして、桃矢は黒いランドセルを下ろした。その横で同じようにランドセルを下ろしながら「いいんじゃない?かくれんぼ」と、雪兎が言った。
ぱぁっと顔色を明るくするさくらの後ろで、どさり、と大きな音がした。驚いて振り向くと、すぐ傍に小狼がいたから、さくらは固まってしまった。
「もともと新作ゲームやるために集まったんですから。遊びに来たと同じでしょう。かくれんぼもゲームですよ」
「ドラクエとかくれんぼじゃ全然違うだろ。っていうか、お前がうちに来たいって言ったんだろ、李。いいのか?」
「別に構いませんけど」
そう言って、小狼は隣にいるさくらを見た。じ、と横目で見られ、さくらはびくびくしながら目を逸らす。すると、反対側に大好きな雪兎の笑顔があって、さくらの機嫌は一瞬で上を向く。
「しょうがねぇな。じゃあ、一回だけだぞ。さくら」
「・・・うんっ」



「もういいかーい」
「・・・まーだだよ!」

 

 

 

 

 

かくれんぼ

 

 

 

 

 

(・・・私、あんなに小さい時から雪兎さんの事、好きだったんだ)
体育座りになって、膝に顔を埋めた。懐かしい匂いに包まれて、心があの頃に戻っていったみたいだ。
―――まだ、4歳のころ。7つ上の兄と、友達の雪兎。そして、後輩の小狼。4人で、よくかくれんぼをした。
この家の中で。いつも、隠れる場所は決まっていた。
薄暗くて、狭い。隙間から零れる微かな光が、淡く暗闇を照らす。少しだけ湿っぽくて、懐かしい匂いがする。クローゼットの奥は、小さな自分の特等席だった。衣装ケースや毛布の間を潜り抜けて、奥に空いたスペースに身を滑り込ませる。
ここなら、誰にも見つからない。そう、思っていた。








「もう、いいかーい?」
雪兎の声が、遠く聞こえた。4人のかくれんぼは、じゃんけんで負けた雪兎が鬼になって始まった。
さくらは、ドキドキと心臓を鳴らしながら、息をひそめて隠れていた。この瞬間が、堪らなく楽しい。見つかるかもしれない、というスリルを味わいながら、ジッと待つ。
その時。勢いよく戸が開けられて、眩しさに目を閉じた。次いで、誰かが入り込んでくる気配。さくらの動悸は、激しくなった。
(ゆきとさんっ!?ど、どうしよう。みつかっちゃう)
そうは言っても、中まで入ってこられたら逃げようがないし、隠れる場所もない。膝をぎゅっと抱えて、近づく気配に耳を澄ませた。
「・・・先客がいたか」
「っ!!!」
四つん這いになって奥まで入ってきたのは、小狼だった。その顔を見た途端、さくらは声にならない悲鳴を上げ、無意識に後ずさった。すぐ後ろにある柱に頭をぶつけてしまい、痛みに泣きそうになる。
「大丈夫か?」
「・・・っ、だ、いじょうぶ」
気づけば、小狼は奥へ奥へと進み、二人の距離は近くなっていた。
小狼は、兄や雪兎よりも小柄で、狭いクローゼットの中を難なく進めてしまった。さくらは「自分だけの隠れ場所だったのに」と、ショックを受けていた。そんな複雑な気持ちに構うことなく、小狼はさくらの座る最奥まで進んできた。
「狭いな」
「ち、ちがうところにかくれたほうがいいよ!」
「いや、無理だ。今出ていったら見つかる」
小狼は相変わらずの無表情で淡々と話すと、さくらの小さな手を握って引き寄せた。心臓が飛び出すかと思うくらいに驚いた。
動揺に気付くことなく、小狼はさくらを自分の膝の上に乗せると、その場所に落ち着く。
(ほえぇぇぇ・・・っ!だっこ、されてるっ!ゆきとさんじゃなくて、りくんに!!)
なんだかわからないけれど、かなり動揺していた。かちん、と氷のように固まって、身じろぎひとつせずに、黙り込む。
だって、おかしい。ただ膝の上に乗せているだけではなく、小狼はさらに体を密着させて、腕を回して。ぎゅう、と抱きしめたのだ。この異様な展開に、幼い脳内は混乱を極めていた。
もはや、かくれんぼをしているという事さえ忘れて、頭の中は「?」でいっぱいになる。
小さなさくらの体を後ろから抱きしめて、小狼はぽつりと言った。
「・・・熱い。体温、高い。子供だから?」
この時。初めて、小狼とまともに会話をした気がした。
喋らない、笑わない。雪兎と違って、優しくない。怖い。―――そのイメージを持っていたからか、普通に問いかけられて、さくらは別の意味で驚いていた。
「わ、わかんない・・・」
「なんで、こんなにふにふにしてるの?やわらかすぎじゃないか?」
「そんなの、さくらにはわからないよぉ!」
頬をふにふにと弄られ、必死に抗議をする。だけど、なんだか嫌じゃない。触れる手が、優しいからだろうか。怖いと思っていた人の膝の上で、ぎゅうぎゅうに抱きしめられている。
不思議そうにするさくらに、小狼は言った。
「妹がいたら、こんな感じなのかな」
「・・・・・いもうと?」
小さく聞き返してみた。すると、小狼の眉間の皺がぎゅっと寄せられた。なぜか拗ねたような顔で、「別に」というから、さくらはますます分からなくなった。
小狼の手が、さくらの頬を摘まむ。それはきっと無意識の行動で、飽きることなく繰り返された。
さくら一人なら余裕のあるこの場所も、二人でいると窮屈で、なのに心地いい。気付くと、うとうとと、眠気がこみ上げてきた。
「もういいかーい?」―――雪兎の声が聞こえる。落ちていく瞼に逆らう事無く、そのまま意識は閉じた。


目を覚ました時には、夜だった。
リビングのソファで寝ていたさくらは、ゆっくりと身を起こした。
父が料理を作り、桃矢がそれを手伝っている光景を見つめる。きょろきょろと周りを見ても、雪兎も小狼もいなくなっていた。
「お前がかくれんぼしようって言ってたのに、途中で寝るなんてな。お子様」
「・・・むぅ。だって、なんだか気持ちよくて、眠くなっちゃったの。りくんの・・・」
李くんの膝の上、と言おうとして、慌てて両手で口を覆う。なんだか、言ってはいけない事のように思えたのだ。
「眠ったお前を連れてきたの、李だったんだ。お前ら、一体どこに隠れてたんだ?」
「・・・ひみつ!!」
妙にご機嫌になった妹の言葉に、桃矢は怪訝そうに眉を顰めた。
秘密の隠れ場所。クローゼットの、奥の奥。誰にも知られてはいない。私と、彼だけの秘密。
胸がドキドキして、少しだけ、苦しくなった。





 

 




「懐かしいなぁ」
楽々と入れたこの場所も、今はだいぶ窮屈になった。
時が経って、少しだけ物を整理して通りやすくしたけれど、大人の男の人はきっと入れないだろう。正真正銘、自分だけの場所になったのに、寂しい気持ちが胸を梳く。
誰も、この場所には来ない。探しに来る人も、もういない。何年もここで、焦がれて、求めて。それでも、待ち続けている。
そうしてまた、この場所に眠った記憶が、蘇る。あの夏の日が、帰ってくる。
さくらは膝に顔を埋めて、小さく名前を呼んだ。








夏の終わり。暑さも和らいだ、夕暮れの頃。さくらは一人、この場所に身を潜めた。
隠れるつもりはなかった。いつも通りに出迎えて、いつも通りに笑える筈だったのに。三人分の足音を感じ取ったその時、突然に怖くなった。怖気づいて、逃げた。
来年は、中学生になる。そして、桃矢や雪兎は大学生になって、遠い町へと引っ越す事になった。
その時になって漸く、自分の気持ちを打ち明けたくなった。幼い頃から、心の中で育ててきた大切な初恋。
『雪兎さん、好きです』―――震える声でそう伝えると、あの人はいつもの笑顔で『ありがとう』と言ってくれた。
同じ気持ちではなかった。けれど、受け入れてくれた事が嬉しかった。それだけで、充分だった。
充分だった、筈なのに。じわじわと、心に広がっていく悲しみに、戸惑った。どうすればいいのかわからなくて、逃げ出した。
悲しいのに、涙も出なくて途方に暮れる。気持ちばかりが焦って、自己嫌悪で動けなくなっていた。
その時。
扉が開かれて、光が差し込む。誰かが、この場所に入ってくる気配がした。
「・・・っ」
さくらの眼前に差し出されたのは、掌。ひらひらとこちらに向けて振る手が、こっちに来いと、手招きしているみたいだった。
この場所を知っているのは、一人だけ。あの頃よりぐんぐん背も伸びて体つきも逞しくなってしまったから、中には入ってこられないのだ。その代わりに、彼の掌が差し出された。
それを悟った瞬間に、様々な想いがこみ上げる。今すぐにでも、その手を取りたくなった。無意識に伸ばした手を、さくらはぎゅっと握りこむ。
ふるふると、首を横に振って言った。
「やだ・・・。だって、上手に笑えないかも、しれないもん。ゆきとさんを、きっと困らせちゃう」
弱気にそう言うと、掌の主は何も言ってはくれなかった。ただそこで、ジッと待ってくれていた。だんだんと、視界が滲む。涙が溢れて、息が苦しくなった。
泣きだしたさくらに気付いてか、掌は急に引っ込められた。呆れられたのだろうか。そう思った瞬間、石みたいだった体が、嘘のように動いた。
「やだっ!待って・・・!行かないで、李くん・・・っ」
縋るように、その掌を追いかけた。無様に床を這って、涙でぐちゃぐちゃになった顔で、クローゼットの中から出た。
扉の前で、小狼は待っていてくれた。いつもと同じ仏頂面で、困ったように眉を下げて。さくらへと、手を差し出した。
「りく、李くん・・・っ、ふえぇ」
自分よりもずっと大きいその手を握りしめて、そのまま小狼の胸の中へと泣きついた。
涙が青のブレザーを濡らしても、小狼は構わずさくらを抱きしめた。宥めるように、背中を撫で続けてくれた。
たくさん泣いて、泣いて。そうしたら、リセットされたように心の中がすっきりした。行き場のなかった悲しみも、すんなりと昇華されて。不思議なくらい、穏やかな気持ちになれた。
幼いけれど、確かに恋をしていた。あの時間を、素直に愛おしく思えた。
小狼の手が、ぶっきらぼうにさくらの涙を吹く。くすぐったさに笑うと、小狼も一瞬だけ、目元を綻ばせてくれた。
それが嬉しくて、さくらは泣き顔を一転させて、機嫌よく笑う。
その時、ふと思い出した。
「あのね・・・。私、李くんの妹になってもいいよ!」
「え?」
突然の申し出に、小狼は思い切り顔を顰めた。その素直な反応に苦笑して、さくらは続ける。
「覚えてない?私がもっと小さい頃、この場所で一緒に隠れてたの。その時、李くん言ってたでしょ?妹が欲しいって」
「・・・欲しいとは言ってない」
「あれ?そうだったかなぁ?でもね、私も・・・たまにでいいから、誰にも内緒で、李くんの妹になりたい。ね、たまにでいいから!」
さっきまで泣いてた子が、もう笑ってる。小狼はますます怪訝そうに眉を顰めて、だけどどこか安心したように息を吐いて、返事の代わりにさくらの頭を撫でた。
失恋の悲しみを、小狼の『妹』になれた嬉しさが、慰めてくれる。悲しい記憶が、優しいものへと変わっていく。それを、確かなものとして感じていた。


―――そして、それからまた時が流れて。
季節は、冬になった。さくらは中学生になって、小狼は高校三年生。
遠くの大学に進学した桃矢と雪兎が、冬休みを利用して木之本家へと帰省した。そのタイミングで、小狼も一年半ぶりにこの家に来ることになった。
同じ町に住んでいても、兄という接点がなければ、中学生と高校生が行き会う事は滅多にない。久しぶりの再会を前に、さくらの心は浮かれた。それと同時に、少しだけ緊張する。
(少しは、大人っぽくなったって・・・思ってくれるかなぁ)
さくらは、その報せを聞いてから、目に見えて張り切っていた。手作りの料理は何がいいか、掃除をしなきゃと忙しなく準備をして、当日を迎えた。
桃矢と雪兎が到着した頃、外は雪が降り出していた。夜になって辺りが暗くなり、降雪が激しくなる。さくらは何度も、窓の外を見ていた。
その時。こちらへと近づく影を見つけて、足が勝手に走り出していた。桃矢の咎める声も耳に入らず、傘を持って家を飛び出した。
「・・・李くんっ!!」
名前を呼ぶと、待ち人は傘の隙間からこちらを見上げた。一年半ぶりに会いに来た小狼は、驚きの表情でさくらを見つめる。
時が止まったかのように、感じた。ふわりと舞い上がる白い息と、はらはら降る雪が、二人を静寂の中へ連れていく。
「久しぶり、だな」
「うん・・・久しぶりだね」
お互いに、笑みが浮かんだ。それ以上の言葉はないのに、足は動かないまま。しばしの間、ただ見つめていた。会えなかった時間を、今の邂逅を、噛みしめるように。
「おい!何してるんだ!?二人とも、早く家の中に入れ!」
桃矢に呼ばれて、ハッと我に返る。さくらは照れ笑いをして、小狼をあたたかな家へと招き入れた。
そこからは、あまり覚えていない。みんな、さくらの作ったシチューとパンを美味しそうに食べてくれた。桃矢は相変わらず意地悪を言ってきたけれど、気にならないくらい楽しかった。みんなで笑って、時間はあっという間に過ぎていった。
桃矢と雪兎と談笑する、小狼のその顔を、じっと見つめる。
(李くん、なんだかすごく、格好良くなった気がする・・・。一年、会わなかっただけなのに。どうしてだろう。どうして私、こんなにドキドキするの?)
初めての感情に戸惑うのと同時に、浮足立っていた気持ちが沈み込む。
目の前にいる小狼が、眩く見えた。大人の男の人。中学生の自分では、全く釣り合っていない気がして。悲しくなった。
「手伝うよ」
洗い物をしていたさくらの隣に、小狼が腕まくりをして並んだ。
突然の近距離に、体の半分が硬直したように固くなる。気づかれないよう、必死にいつも通りを装って話した。
「お、お兄ちゃんと雪兎さん、お布団敷きにいってくれたのかな」
「ああ」
「李くんも、泊っていけばいいのに!客間は雪兎さんが使うけど、他にもお兄ちゃんの部屋とか、私の部屋も―――」
私の部屋も泊まれるよ。―――そう言おうとして、止まる。何を、何を言おうとしていたのか。考えなしの言葉に、さくらは激しい自己嫌悪に陥る。
危うく、持っていたお皿を落としそうになった。真っ赤になっているだろう顔を覆いたいけれど、泡まみれの手ではそうもいかず。気付かれないようにと、願うばかりだった。
「いや。俺は、帰るよ」
「・・・そっか」
変わらない。素っ気なくて、不愛想で。
だけど、話す口調は少しだけやわらかい。見つめる目が、時々優しく綻ぶのを知っている。思い出して、胸が苦しくなった。
(洗い物が終わったら、李くんは帰っちゃうんだ)
桃矢がこの家にいなければ、彼がここに来る理由はなくなる。また、会えなくなる。
小狼は大学生になって、自分は中学生で。遠く離れたこの距離を埋める術を、持っていない。
(会えなく、なる)
胸が締め付けられるみたいに痛くなって、目頭が熱くなる。じわりと滲む視界。ぎゅ、と目を閉じた。
瞼の裏に、映る。雪の積もった道を、帰っていく後姿。軽く手を振って、離れていく小狼の後姿を、見送る事しかできない。
最後のグラスをすすいで、隣にいる小狼へと渡す。その時、さくらの手をするりと滑り落ちた。
透明なグラスが、重力に逆らわずに落ちる。床に落ちて、粉々に砕ける―――その瞬間、小狼が素早くしゃがみこみ、大きな掌でグラスを受け止めた。
間一髪で割れずに済んだグラスを手に、小狼はしゃがんだ姿勢のまま、安堵の息を吐いた。さくらはその隣に腰を下ろすと、濡れた手のまま、小狼の手を握りこんだ。
「・・・ごめんなさい。わざと、なの」
「え?」
「割れてしまったら・・・もう少しだけ、一緒にいられると思ったから。李くんが、ここにいてくれると思ったから・・・。ごめんなさい」
涙声で打ち明けたさくらの言葉に、小狼は目を瞠る。繋がれた手が、熱い。そこから伝わる鼓動が、早鐘を打つ。
小狼が今どんな顔をしているのか、知るのが怖くて、さくらは直視できずにいた。視線は、繋いだ互いの手に注がれる。
その時。耳元で、小狼の声が囁くように聞いた。
「・・・それは、妹として、か?」
吐息交じりの低い声に、ふるりと震えて。さくらはゆっくりと、視線を上げた。すると、存外近くに小狼の顔があって、かぁ、と頬が熱くなった。
真っ直ぐに見つめる瞳の中に、自分が映っている。それが、たまらなく嬉しかった。
そうするのが自然のように、最初から分かっていたみたいに、体が動く。
瞼がゆっくりと落ちて、身を寄せる。
小狼のやわらかな髪が額にサラと触れて。唇に、やわらかな熱が押し当てられた。
―――その一瞬のキスが、最後。
さくらが中学を卒業するころになっても、二人が会う事はなかった。






 


 


「んー・・・。さすがにもう、狭いなぁ」
伸びた手足をいっぱいに伸ばすと、あちこちにぶつかってしまう。
自分だけの秘密の場所。家族も知らない、この場所に。切なくて優しい記憶が、いくつも残っている。
今日、新しい制服に初めて、腕を通した。青いブレザーは少しだけ大きくて、それが、あの日の記憶を呼び起こした。目を閉じて、自分を抱きしめるようにすると、あの時の熱がぶり返す。
「私、高校生になったよ。あの時の李くんに、やっと追いついた。・・・少しは、大人っぽくなったかな?」
誰にでもなく、そう話しかける。
聞いてほしい相手は、一人だけ。今もまだ、あの時の熱を焦がれて、探して。この場所で待ち続けている。
ひとりきりのかくれんぼは、誰も探しにこないと、わかっているのに。何年たっても、忘れられない。無意味でも、そうせずにはいられなかった。
―――『先客がいたか』
薄闇の中に、差し込む光。四つん這いになって荷物をかきわけて、目の前に現れた。あの日の小さな少年が、何度も鮮明に映る。
抱きしめた熱い腕も、引っ張り出してくれた大きな掌も。この場所に、全部残ったままで。
溢れる涙をそのままに、さくらは目を閉じる。幸せな記憶の中に、潜っていく。
もう会えないとしても、寂しくない。この場所にはまだ、彼がいる。記憶の中の小狼に、何度でも会えるから。
(まだ、もう少しだけ。大人にならなくていいから。・・・あの日の私のままで、この場所に隠れていたい)






―――がたんっ
突然の物音に、さくらは驚いて目を開けた。その時、勢い余って低い天井に頭をぶつけた。痛みに涙まで浮かぶ。滲んだ視界の中で、薄闇に差し込む光が見えた。
「え・・・!?」
扉が開かれると、中に入っていた衣装ケースや荷物が、どんどん外に出されていく。狭かったクローゼットの中に隙間が出来て、空間が広がる。
突然の展開に、さくらはただ混乱して、声も出ずにそれを見ていた。
粗方の荷物が外に出されると、空いた場所に入り込む影があった。後ろ手に扉を閉めてしまったから、再び暗闇に包まれる。
闇に慣れた目で、さくらは目の前にいる人をじっと見つめた。
「李、くん・・・?」
記憶よりも、少しだけ短くなった髪。だけど、強い眼差しも整った顔立ちも、あの頃のままで。
この場所で、記憶の中の姿だけを追っていたさくらは、突然に現れた現実に酷く動揺した。
大人になった小狼は、子供の時と変わらない仏頂面で、不機嫌そうに眉を顰めていた。
薄闇の中で、動く。言葉が出なくて、ただ見つめるだけしか出来ないさくらに、小狼は言った。
「木之本先輩が物凄く怒ってる。お前、今何時かわかってるか?」
「・・・ほぇ?」
小狼の第一声は、数年ぶりに交わした言葉とは思えないくらい、普通で。さくらは拍子抜けした。
呆れたように溜息をついて、小狼はさくらの額に軽くデコピンをした。全然痛くない。けれど、小狼の指先が触れたというだけで、心臓が面白いくらいに反応した。
「今、夜の8時を回ったところだ。高校の入学祝いでご馳走作って、みんな待ってるのに、お前が全然来ないから。危うく、警察を呼ぶ騒ぎになりそうだったんだぞ」
「・・・!ほえぇ、わ、忘れてた・・・。私、いつの間にかうとうとして・・・」
夕方近くにこの場所に隠れて、それから数時間も眠っていたという事だろうか。恥ずかしさに俯くさくらの耳に、ふっ、と。息を抜く様に笑う気配が、伝わった。
ゆっくりと、顔を上げる。そこには。今までに見たことがないくらい、優しく笑う小狼がいた。
長い指が、さくらの頬に触れて。ふに、とやわらかく摘まんだ。
「まさか、同じ屋根の下にいるなんてみんな思わないよな。・・・ここは、俺しか知らない、お前の隠れ場所だから。・・・必ず見つけて連れて帰るって、言ってきた」
「・・・うん」
「ついでに。『俺が見つけてこられたら、いい加減認めろ』って、啖呵きって出てきたから。戻ったら、先輩に殴られるかもな」
「うん。・・・うん??」
小狼の言っている事がわからなくて、さくらは首を傾げる。小狼は、さくらの頬をふにふにと弄りながら、大人びた笑顔で言った。
「俺が、今日をどれだけ待ってたか、知らないだろ」
「今日って・・・」
「お前が高校生になるまで、待った。会いに行くのも、声を聞くのも我慢して、待っていたんだ。・・・やっと、言える」
驚きに瞬いた、その時。強く抱き寄せられて、さくらは小狼の腕の中にいた。
押し当てられた胸から、心臓の音が聞こえる。痛いくらいの抱擁に戸惑うけれど、不思議なくらいに自然と、身を任せられた。
「俺は、お前が好きだ」
真摯に伝えられた言葉は、さくらの中にゆっくりと溶け込んで。降り積もっていた気持ちを、あたたかく包んだ。
誰も、探しにこない。見つけてはくれない。だけどずっと、待っていた。ひとりきりのかくれんぼ。
長い時間ずっと、ただ一人に見つけてもらえるのを、待っていた。
「・・・っ、ほんと・・・?ほんとうに?」
「ああ。・・・言っておくけど、『妹』じゃないからな」
交わした約束は、二人を強く結びつけた。長く離れていても、違う形になって、また引き寄せる。
この場所に二人で隠れていたあの日から、今に繋がる。
頬に触れる小狼の手に、そっと自分の手を重ねて。さくらは、涙を浮かべて笑った。
「うん・・・っ!うん、私も・・・!妹じゃ、やだ。・・・私も、李くんが好き。ずっと、好きだったの」
堰を切ったように溢れる。いつからか、なんて。もう、わからない。だけどずっと、幼いころからずっと、心の中には彼がいた。この手が欲しくて、仕方なかった。
薄闇の中で、視線が交わる。小狼はさくらの髪に指を差し込んで、額にキスを落とした。
「さくら・・・」
「ん・・・」
名前を呼ばれたのを合図に、目を閉じる。優しく触れる唇の感触が、二年の時をあっという間に縮めた。触れるだけで離れた唇が、また、甘く名前を呼ぶ。
「さくら」
「はい」
「さくら・・・」
「はい。・・・小狼くん」
くすくすと笑うと、また口づけられた。
小狼の優しい声が、鼓膜をくすぐる。その指が、視線が。全身を愛でて、抱きしめてくれるみたいだ。
離れていた数年を埋めるみたいに、全身で甘やかされている気がして、さくらの体が熱くなった。夢みたいに心地いい現実に、涙まで浮かぶ。
ずっと、こうしていたい。甘い抱擁に酔って、そんな事を思っていると、容赦ない小狼の言葉が落ちた。
「そろそろ、みんなのところに戻らないと」
「え・・・?」
思っていた事が、そのまま顔に出る。寂しそうにシュンとするさくらを見て、小狼は眉根を寄せて頬を染めた。
「そんな顔、するな。俺だって我慢の限界・・・いや、それはいいとして。みんな、お前が来るのを待ってるんだ。・・・高校生になったんだろ?」
こくり、と頷く。すると小狼が、不意打ちで「制服、すごく似合ってる」なんて言うから、さくらの体温がまたも上がる。
「・・・みんなの時間が終わっても、小狼くん、どこかに行ったりしない?また、さくらのところに来てくれる?」
不安そうに問いかけると、くしゃくしゃと、乱暴に髪を掻き混ぜられる。そうして、優しい笑顔をくれた。
「大丈夫だ。だから、行こう。さくら」
差し出された掌を見つめて、さくらは笑う。
もう、離れる事はない。強く繋がれた手が、教えてくれる。
闇に包まれた、狭いクローゼットの中から、二人は一緒に抜け出す。手を繋いで、みんなが待っている場所へと急ぐ。
光の方へと、駆けていく。




「ね。小狼くん。また私が隠れたら、見つけてくれる?」
「どこに隠れても、必ず見つける自信がある。・・・でも、出来ればずっと、俺の傍にいて」
扉を開ける前に、内緒話のように耳打ちされて。さくらの熱は、とどまることなく、ぐんぐんと急上昇していく。
(ずっと、傍にいるよ)
隠れて、探して、見つけて。
これからも、続いていく。二人だけのかくれんぼ。



『もういいかーい』
『もういいよー』


 

 


END

 







リクエスト企画第四弾は、えみんがーさんからのリクエストで「年の差で、小狼が年上のもの」でした!

前回がさくらちゃん年上だったので、今回は小狼が年上の設定で!さくらちゃん4歳の頃からの、約12年愛なお話でした♡

おまけの、小狼と桃矢にーちゃんのお話 → かくれんぼ【side兄】




2017.4.20 了

 

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