朝起きたら、顔を洗って髪をとかす。朝御飯を作る手伝いをしてから、大人数で食卓に着く。慣れなかった味付けも、最近はパクパク食べられるようになった。
三着ある着物の中でも、一番に好きな色。萌葱色の袖に手を通して、帯を結ぶ。
鏡の前に座って、教わって間もないお化粧を施した。
『あんたはあまり濃くしない方がいいね。純朴さを残した方が、お客は喜びそう』
同室で二つ年上の姐さんはそう言って、紅を唇に引いてくれた。
コンコン。扉が叩かれる。
顔を覗かせたのは、この妓館の女将だった。
「指名が入りました。よろしくお願いします。・・・撫子ちゃん」

 

 

 

 

名もなき世界 【中編】

 

 

 

 

「はっ、はい!」
この瞬間はいつも緊張する。お茶と茶請けを用意して、指定された部屋へと向かう。
さくらは、まだ慣れない自分の呼び名に、少しのくすぐったさを感じる。
―――この世界に来て、はじめて。名前を問われた。
「あなたの名前は、なんと言うのですか?」
問いかけたのは、この妓館の女将だ。優しい笑顔が、無二の親友と瓜二つ。なのに、彼女は全く違う人なのだ。
そう思ったら泣きそうになって、さくらは少し俯いた。名前を聞かれて、咄嗟に答えられなかった。
『お前も魔術を使う者なら、名前を明かす事のリスクくらい考えろ!』
あの日の小狼の言葉が頭をよぎって、さくらはぎゅっと服の裾を握りしめた。
(佳楠(ジェナン)は、小狼くんのお婆様と同じ名前・・・。もしかしたら、小狼くんも・・・?)
佳楠が小狼だと言う確かな事実はない。思考は何度も、そうかも、違うかも、を行ったり来たりして、確証は得られなかった。
だけど。もしも、小狼だったら。
(きっと、正直に自分の名前を名乗ったりはしない・・・!)
「私の名前は・・・、撫子です」
「なでしこ?可愛いお名前ですね」
そう言われて、さくらは内心で嬉しくなった。大好きな母の名前を、自分が名乗る日がくるなんて、誰が予想しただろう。
「では。撫子さん。今日から、あなたはこの妓館の一員です。私達の家族です」
「あ、あの。私、まだこの世界の事をよくわかっていなくて。ここで何をするのかも、よくわからなくて」
正直に言うと、知世・・・ではなく、女将は少しだけ驚いたように目をみはった。そのあとに、くすくすと笑う。
「大丈夫です。妓館には、あなたのお姐さんがたくさんいますから。そこで色々と聞いて、自分で覚えていってください」
笑顔ではあるけれど、なかなかに厳しい。つまりは、自力で知れと言うこと。頼れる人はいないのだと、さくらはその時、自覚した。
その夜は、眠れなかった。さくらは用意された布団の中で、心細さに耐えきれずに少し泣いた。
しかし。新しい生活は、泣いている暇もないくらいに忙しかった。
妓館は30名程の女の人が暮らす、大所帯であった。全員分の食事の用意を、下っ端であるさくらも手伝わなければならない。家事をやりなれているさくらでも、目が回るほどの忙しさだった。
幸運であったのは、妓館に暮らす人達がみんないい人だった事。女将をはじめとして、優しく世話をやいてくれる人ばかりだった。何も知らないさくらに、たくさんの事を教えてくれた。
その中で、さくらはここでの役割を知った。
(妓館って、そういう・・・。男の人とお酒を飲んだり、イチャイチャしたりして、おもてなしする所なんだ・・・)
これは同室の姐さんが教えてくれた事で、本当はもっと過激な事も教えられたのだけど、さくらの知識では理解までには及ばなかった。
だけど。なんとなく、察した。
それを知った瞬間、さくらは愕然とした。
(・・・そんな場所だって知ってて、小狼くん、私をここに置いたのかなぁ)
普段の小狼だったら、絶対に近づけさせないだろう。過保護で焼きもちやきの彼は、さくらが他の男の人と接点を持つ事を嫌がる。だから、これが小狼の行動だとすると、さくらは首を傾げてしまう。
(ってことは、やっぱり佳楠さんは小狼くんとは別人・・・?)
お茶を運びながら、さくらはふるふると首を横に振った。
憶測で考えて、落ち込むのはもうやめよう。そう、心に決めたからだ。
(私は、やらなきゃいけない事があるんだ!カードさん達を探すこと。そして、元の世界に戻る方法を見つける事・・・!)
それまでは、この世界に順応して生きるしかない。
さくらが妓館で暮らすようになって、一週間。
覚悟を決めて、その扉を開いた。
「ご指名、ありがとうございます・・・。撫子で、す」
かしこまって頭を下げて、名前を言いながら顔をあげる。
そこにいた人の顔を見て、言葉が止まった。
「ああ。待ってた」
「しゃお・・・っ、じゃなくて、佳楠様!」
部屋の中には、くつろいで座る着流し姿の佳楠がいた。くつろいでいても、他のお客のようにだらしなく寝そべったりはしないのが、らしいと思ってしまう。
小狼らしさを見つけては、さくらは心臓を鳴らした。
「あ、あの。今日も、指名してくださったんですか?」
「お前は俺が買ったのだから当然だ。・・・他の客に指名されたりはしていないか?」
「え、えっと・・・。私を指名してくれるのは、佳楠様だけ、です」
「本当に?」
探るような目で覗き込まれ、さくらは内心で戸惑う。
実を言うと。他にも、勉強の為に姐さんと一緒に接客をする事はあったけれど、何となく言えなかった。酔ったお客さんに触られたり絡まれたり、そんな事をされたと知れたら、小狼が怒るのは明白だった。
(佳楠様が、本当に小狼くんだったら、の話になるけど)
さくらは、ふう、と小さく息を吐く。
随所に渡って、佳楠の振る舞いや言動から『小狼』である事は感じる。それは確信に近い。
だけど、それならばなぜ、本当の事を教えてくれないのだろう。別人のふりを続ける理由は、なんなのだろう。
もしかしたら、この世界に来た時に記憶をなくしてしまったのでは、と。その可能性も考えたけれど、だとすると、オークションで高値で自分を買い取ってくれた理由が結び付かない。
考え込んでしまったさくらの横顔をじっと見つめていた佳楠は、おもむろに手を伸ばした。
―――ふにっ。
「ほぇっ・・・」
やわらかな頬をつままれて、さくらは驚いた。佳楠は頬杖をついて、無表情にさくらを見つめた。
「化粧してるのか?」
「あっ、す、少しだけ」
「・・・くちびるも、赤いな」
そう言って、親指でそっと唇を撫でる。距離の近さと、触れる手に。ドキドキしないわけがない。さくらは、かぁーっと真っ赤になって、困ったように眉を下げた。
「そういうのも可愛い。・・・けど、他の男に見られたら困る。今度から、化粧はしなくていい」
「は、はいっ」
(可愛いって、言ってくれた・・・。うぅ、嬉しすぎて、泣きそう)
小狼の記憶がなくなっていたとしても。何か、自分には予想もつかない思惑があるとしても。
それだけでいいと思えるくらいに、さくらは幸せを感じた。
―――その時。
ぞわぞわと、肌が粟立つ。全身を取り巻く混沌とした空気に、さくらは金縛りにあったように動けなくなった。
(な、なに・・・?この、不安感)
ひたひたと、近づいてくる。吐き気までしてきた。辛さに顔を歪めると、ぐっと肩を抱かれ、佳楠の胸に引き寄せられた。
「・・・顔に出すな。気づいていない振りをしろ」
「・・・?」
「出来るだけでいいから、笑え」
耳元で囁かれた指令に、さくらはごくりと唾を飲み込んだ。
どくどくと、心臓が口から飛び出しそうな程に緊張している。近づいてくる、得体の知れない恐怖に、体が震えた。
その時。さらりと、頬をくすぐる感触。小狼の伸びた髪の先が、優しく撫でるようで。
小狼が傍にいてくれるから、大丈夫だと思えた。
さくらはゆっくりと、深呼吸をした。
コンコン。
扉を叩かれて、部屋の主である佳楠が応答した。
「はい、どうぞ?」
ややあって、扉が開かれる。
そこに立っていたのは、背の高い女の人だった。腰まで伸びた長い黒髪。長身と凛々しい顔立ちのせいで、一瞬、男の人と見紛うところだったが、さくらは直感的に女の人だと思った。
「お楽しみのところ、申し訳ない」
ガラス玉のような瞳に見つめられ、逃げたい気持ちが増した。さくらは先程の言葉を思い出して、抱き寄せてくれているその人の袖をぎゅっと握った。
(大丈夫。大丈夫・・・!隣にいるのは、小狼くんだもん)
そう思ったら、少し気が楽になった。縋るように裾を握ったさくらの手に、佳楠の手がそっと重なった。
「・・・神官様。どうなさったのですか?妓館に来るなんて」
佳楠の声には動揺の欠片も見えない。まるで、廊下で友人とすれ違った時のような自然さで、挨拶をする。
(神官様・・・?)
さくらが不安そうな顔で見つめると、神官と呼ばれた女性はにっこりと笑った。さくらも笑みを返すけれど、自然に笑えていたか自信がない。
「いや。同士の様子を見にきた。贈り物は、この子だろう?」
「はい。私が買い取りました」
「聞いている。なかなかの高値だったそうじゃないか。佳楠、そんなに気に入ったのかい?」
神官は距離を詰めて、興味深そうにさくらの顔を見つめた。相手は笑顔なのに、怖いという気持ちが消えない。
怯えるさくらを宥めるように、佳楠はそっと背中を撫でた。
「この方は、国の神官様だ。お前と同じ、異世界から来た」
「え・・・?」
「はじめまして。名前は、なんというのですか?」
答えようと思うのに、声がでない。焦るさくらの代わりに、佳楠が答えた。
「撫子です」
「そうか。撫子。まだ慣れない事ばかりで不安であろう。だが大丈夫だ。ここは豊かでいい国だからな。私たち異世界の民も受け入れてくれる」
神官の言葉に、さくらはこくこくと頷いた。
背中を撫でてくれる手が優しかったので、さくらは堪らず、神官から顔をそらして佳楠へと抱きついた。
抱きつかれて、佳楠は面食らったように目を見開いた。
それを見て、神官はくすくすと笑う。
「仲睦まじいようで何よりだ。佳楠、大切にしておやり」
「・・・もちろんです」
「ふふ。少し妬けるな。・・・ああ。わかっているとは思うが、『異世界の贈り物』には等しく役割と義務がある。お主らがどんなに想いあっても、婚姻は許されぬ。それだけは覚えておくように」
また話をしよう、撫子。
そう声をかけられて、さくらは振り向けないまま、小さく頷いた。
(なんでだろう。この人・・・すごく、こわい)
神官は静かに退席した。遠ざかっていく足音がやがて聞こえなくなっても、さくらは佳楠から離れなかった。
「・・・・・・」
間を置いて、佳楠の手がさくらの背中に回って、抱き締められる。無言の抱擁が、嬉しくて切なくて、さくらは深く息を吐いた。
神官へと感じた正体不明の恐怖も、消えていく。
(他の誰かなわけ、ない・・・。こんなにドキドキするのは、小狼くんだからだもん)
別人かもしれないという、少しの疑問は、さくらの中から完全に消えた。
ポンポン。
背中を二回叩くのは、合図。抱き締める力を緩めて、腕の中から見上げた。
近づく距離。さくらはゆっくりと瞼を閉じた。
キスする前の、小狼の顔。優しくて甘くて。仄かに染まった赤が、愛しくて仕方ない。
触れるだけのキスが落ちて。唇が離れて、目を開ける。その瞬間に、もう一度キスされる。今度は、もっと深く交わる。
さくらは小狼の腕に抱かれながら、その甘いキスに溺れた。両腕を首に回して、キスの合間に「もっと」とねだった。
相手が笑う気配がした。そうしたら、床にとさりと横たえられる。その拍子に、小狼の髪を結んでいた紐がほどけた。
小狼はさくらを見下ろして笑うと、自分が着ている着物の帯をほどいた。逞しい体のあちこちに、細かい傷跡がある。さくらの知らないものばかりだった。
ドキドキしながら小狼を見上げていると、伸びた手がさくらの着物も脱がせ始める。
今になって恥ずかしくて、身を小さくするさくらに、小狼は笑った。
ご馳走を前に舌なめずりする獣のような、妖艶な笑みに。さくらの目は、釘付けになる。
「・・・一年ぶりだ。この日を待ってた」
(一年・・・?)
小狼の言葉の意味を考える余裕は、すぐに無くなった。
灯りを落とされた部屋で、さくらはこれでもかと言うほど、長く時間をかけて愛されるのだった。










「・・・あっ!戻ってきた!撫子ちゃん。お疲れさま!」
「う、うん。ありがと・・・」
くったりと疲れた様子で戻ってきたさくらに、優しく声をかけてくれたのは、さくらと同じ年の少女で。驚く事に、友達の千春とそっくりだった。
さすがにこれ以上は、何があっても驚かないぞと、さくらは思ったけれど。それでも声をあげてしまった。顔も声も、瓜二つで。異世界にいるのだと言うのが、まるで夢の中の出来事のように感じる。
「・・・わぁー。佳楠様に、随分可愛がってもらったんだね~」
「え?」
「首のとこ。内出血になってる」
指摘されて、さくらは真っ赤になった。見えるところだけじゃない。身体中に、小狼がつけた所有の証があった。
(~~~っ!もう、疑わない・・・。あれは、小狼くんだ!記憶もなくなってない!だって、やり方とか・・・アレとか、アレも・・・・・・同じ、なんだもん)
身体に刻み込まれたのは、キスマークや快感だけじゃない。忘れようと思っても忘れられない、何度も愛された記憶が残っている。
さくらは林檎のように赤くなった顔を両手で抑えて、羞恥に耐えきれず不明瞭な声をあげた。
そんなさくらを訝しげに見つめながら、千春に似た少女は淹れたてのお茶を差し出した。
「よかったね。佳楠様、随分前から撫子ちゃんの事、待ってたんだよ。私達みたいな妓館の娘にも、仲良くしてあげてって丁寧に頼んでさ。どんな子なんだろうって、みんな興味津々だったんだ」
「え・・・?佳楠様、私が来る前からそんな事、してたの?」
驚くさくらに、うんと頷いた。煙管を吹かせる姿は、よく知る友人の姿よりも大人っぽく見えた。
「一年前かなぁ。佳楠様がこの妓館に来たのは。女将さんが、面倒見てたみたい。それから、用心棒としてこの妓館や他のところでも働いて、私達の事も世話やいてくれたんだ」
話を聞きながら、さくらは少しだけ複雑な気持ちになった。なぜだかはわからないけれど、小狼がこの世界に来た時間軸と、自分が来た時間軸は随分とずれがあるみたいだ。
一年の間、小狼は一人で。この世界で頑張っていたんだ。
辛い顔をするさくらを見て、なにか勘違いしたのか、少女は煙管を口から離して言った。
「あっ!でもね。一度もここの女を指名することはなかったんだよ。誰とも遊ばなかったの。あの容姿だから姐さん達もちょっかい出したんだけどね。ぜーんぜん、ダメ。だから、撫子ちゃんがはじめてなんだよ」
「・・・!」
「あなたは特別なんだね」
羨望の混ざった笑顔でそう言われて、さくらの胸がきゅんと苦しくなった。
(小狼くんは、ずっと私が来るのを待っててくれたんだ・・・)
先程の小狼の言葉の意味を反芻して、涙が滲んだ。溢れそうになるのを、ぐっと堪える。
しっかりしなければ。小狼といっしょに元の世界に帰るのだと、決心を新たにさくらは顔をあげる。
「あ、あの。聞きたい事があるの。この国の神官様に、さっき会って・・・。『異世界の贈り物』は、役割と義務があるって。それって・・・」
「それは、私がお話しましょうか」
さくらの話の途中に、扉が開いて女将が部屋に入ってきた。そうして、千春に似た少女に、指名が入ったと伝える。どうやら、常連の男らしい。
「役人さんなんだよねー。なんか、いつもしょうもない嘘つくの。おかしい人でね」
そう言いながらも、どこか嬉しそうな表情で部屋を出ていった。
代わりに、女将がさくらの正面に座る。さくらはハッとして、新しいお茶を用意した。
「どうぞ」
「ありがとうございます。・・・神官様に無事にお会いになられたのですね?あの方が妓館に来ること、実は少し騒ぎになっていたんです。だけど、どうしても撫子ちゃんに会いたいと言って。無茶したんですよ」
「そ、そうなんですか」
思い出すだけで、少しの恐怖が背中を這い上がる。怖じ気付きそうな自分を叱咤して、さくらは身を乗り出した。
「あの、女将さん。聞きたいことがあるんです」
「はい。贈り物の役割と義務・・・ですわね。実は、異世界からやってくる人は、のちに国の神官になるのです。決まりごとではないのですが、必然的にそうなるのだと、私も祖母に聞きました」
「今の神官様も、同じように異世界からいらしたんですね?」
女将はさくらの淹れたお茶を一口飲んで、はい、と頷いた。
「あの方は私のおばあ様が少女の頃から神官様だったと聞きました。少なく見積もっても、100年は経っています」
「ひゃっ・・・100年!?ってことは、100歳のおばあちゃん・・・!?」
「ふふっ。撫子ちゃんって面白いですわね」
呑気に笑う知世に、さくらはぎこちない笑みを返す。先程会った神官は、年の頃は20代に見えた。人間離れした若さと美しさ。それは、強い魔力によるものだろうか。
「異世界から来られた方は、選ばれしお方。私達とは違うのでしょう。・・・だから撫子ちゃんも、今はここにいられますが、いずれは・・・神官様になられるのだと思います」
「それが、『義務』?」
「とても幸せな事ですわ」
そう言いながらも、女将の笑顔には翳りが見えた。さくらがじっと見つめると、女将は苦笑する。
「・・・祖母に聞いたことがあるんです。今の神官様が、来たばかりの頃の事。少しドジで、だけど笑顔が可愛い、普通の女の子だったと。名前を、クミン様と仰ったそうです。祖母は、彼女と友達になって、数年いっしょに暮らしました」
―――だけど。神官になって、表情も話し方も、笑い方も変わってしまった。同じ人とは思えない程に。
「祖母はそれがとても悲しかったと、言っていました」
「・・・」
そこまで話したあと、女将の様子が変わった。不自然な笑顔になると、さくらの手を握って言った。
「いいえ。悲しい事なんか、ありません。とても幸せな事です。私達国民は、皆そう思っています」
どこか虚ろな表情で、そう言った。その言葉からは、感情が読み取れない。
(まるで、決まったことを言わされているみたい)
さくらは、強い違和感を感じた。
女将は、不意に我に返ったように瞳を瞬かせた。いつもの、優しい笑顔だ。さくらはホッと安堵する。
「・・・撫子ちゃんも、いつかは神官様になられてしまうのですね。少し寂しいですが、その時は応援しますわ」
「あ、あの。しゃお、・・・佳楠様が、私をここに置くように、女将さんに頼んだんですか?」
その人の話題を出した途端、かぁ、と頬を染めるさくらを見て、女将は笑みを深くした。
「・・・一年前、最初に佳楠様に会った時は驚きました。彼は、役人に追われていたみたいで」
「えっ・・・?」
「怪我もしていたし、一時的に匿ったんです。ここは、訳ありの方が多くいらっしゃいますから」
「そう、だったんですか・・・」
どれだけ不安だっただろう。一人きりで、何も知らない世界に落とされて。その不安と恐怖を、さくらは身をもって知った。
(どうして、私達はこの世界に来たんだろう。あの鏡は、いったい何なの・・・?)











ケースの中に入った数十枚のカードを手に持つと、ゆっくりと降らせる。
はらはらと地面に落ちたそれらを見て、笑みを歪ませた。
「・・・どうやら、今度は『大当たり』のようだ」
目を閉じると、すぐそこにいるかのように、見える。
異世界からの来訪者。強大な魔力を持つ、二人。
「ふふ・・・。決して、逃がしはしないよ」


 

 

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2020.5.20 了

 

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